雲一つない酷暑の中、幾列にも並べられた多くの「水(車藏)」が湿った潮風になびいてカサカサと音をたてている。それはまるで、海水を多く含んだこの地にまつわる辛い歴史の一こまを、金湖の先祖たちが子孫に向かって語りかけているように思わせる。
水死者のための浮き輪
人の胸の高さほどもある水5は、竹ひごに花模様の紙を貼った二重の筒でできている。筒には神や黄泉の生き物などが12尊、水中、黄泉の国、天国の三つの世界に分けて貼られている。つまり、水中には成仏できない霊、正義の水王、悪を代表する汚穢神が、黄泉の国には死者を引っ立てていく役目の大鬼小鬼、善悪の審判を下す城隍、地獄の番人である牛頭馬面が、そして天国には観音菩薩とそれにひかえる善才、良女が並んでいる。また、霊を呼ぶための小さな三角旗が、筒の上部四隅に取り付けられている。
「(車藏)」というのは、道士の学ぶ書に出てくる字で、本字は「旋」と考えられ、回転するという意味を表す。
「水(車藏)を回すのは、水死した霊を水中から引っ張りあげるという意味があり、いわば水死者に浮き輪を与えるようなもので、そうすることで霊を供養するのです。地方によっては赤い紙を貼った『血(車藏)』というのがありますが、これは難産で亡くなった女性を供養するためのものです」と、霊信仰について著作の多い民俗学者、黄文博さんは説明する。
大規模な「牽水(車藏)」は、台湾では雲林県口湖郷金湖港地方だけに見られ、同地の蚶仔寮にある祖廟と、新港にある分霊廟の2ヶ所で毎年旧暦6月7日と8日に行われる。
海にのまれた金湖
蚶仔寮と新港の2ヶ所で4000近くの水(車藏)が、強い海風に吹かれて波のように揺れている。およそ150年前に亡くなった3000人余りの魂の叫びが聞こえてくるようだ。「6月7日は、私ら金湖人の悲しみの日なのですよ」と、竹笠の上から日よけの手ぬぐいを巻いたおばあさんが言った。
明末から清の初めにかけて、雲林の沿岸地帯には広く砂丘が広がり、樹苓湖という細長い潟が形成されていた。この潟湖の端にあり、ちょうど北港渓と牛挑湾渓の河口にも位置した金湖港は、古くは「下港」と呼ばれていた。「水(車藏)情文化工作室」の責任者である李春景さんによれば、当時の金湖港は、現在の金湖、台子、蚶仔寮、成龍、新港、下湖口など六つの村落を含む範囲を指した。
当時の港は、広くて水深も十分にあり、しかも澎湖島と最短距離にあったため、台湾に11ある主な港の一つに数えられるほどだった。町には蔵が立ち並び、多くの人口を抱えていた。
1845年(道光25年)旧暦6月7日夕刻、空がにわかにかき曇ると、またたく間に暴風雨に見舞われた。豪雨によって水かさを増した北港渓と牛挑渓が怒涛のごとく樹苓湖に流れ込み、海へ排出しきれなくなった水は、台風の強風にあおられて巨大な津波と化し、沿岸地帯を襲ったのである。
一夜のうちに虎尾渓と北港渓間の沿岸地域はすべて波にのまれてしまい、とりわけ被害の大きかったのが金湖港一帯だった。公的記録である『台案彙録』には、「海辺の下湖等九庄は地勢が低く、風雨洶涛に遭い大洋に沈んだもの数知れず」と被害状況が記されている。
海水が引いてみると、船舶や建物はすべて残骸と化し、町のいたるところに死骸が横たわっていた。『台湾通志』「水利篇」には被害者3000余人と記されているが、現地では7000人余りと言い伝えられている。『金湖春秋』を書いた曽人口さんが20数年前に行なった現地でのインタビューによれば、多くのお年寄りが父親などから聞いたところでは、蝦仔寮では一人も生存者がなく、竹達寮でもわずか2〜3戸が助かっただけだったという。同地方の家々の系図には、村全滅という記録が記されているものが多い。
漢人の台湾入植以来最大といえるこの災害については、多くの記録が残っている。遠く北京の道光帝も衝撃を受け、官糧や国庫を災害援助に回す命令を出し、頻繁に台風に襲われる台湾に「朕心深為不忍」と哀悼を述べている。また、遺体を一つずつ埋葬するのは不可能なため、皇帝は同地区に四つの大きな穴を掘らせ、「万善同帰」という言葉をもって集団埋葬した。「万人はいつかは死ぬものであり、死後は同じ道を帰る」という意味である。
ところが、禍はそれだけではなかった。水害が去るとちょうど夏が訪れ、衛生状態の悪さから疫病が広がったのである。禍の元は皇帝による「万善同帰」の言葉だという噂がささやかれた。水害による死者が7000人だったのを、「万」に合わせるために更に3000人が亡くなったというのである。
聾龍王の聞き間違い
災害を生き延びた人々が移住や再建といった現実に直面しながらも、どうしても納得できないのが「亡くなった人々は、なぜ一家全滅というような悲惨な目に遭わなければならなかったのか」という疑問だった。
中央研究院文学哲学所の李豊楙研究員はちょうど口湖郷の出身だが、次のように指摘する。中国民間思想では非自然死は一種のタブーとされ、まして集団で非業の死をとげたとなると、それは天罰が下ったと見なされる。ところが、そこへ偶然にも現地の浜辺に巨大な鯨が打ち上げられた。人々はそこから巧みに伝説を創りあげ、天罰という罪名をはらそうとした。
蚶仔寮にある万善祠の事務所でお年寄りたちが、その伝説について身振り手振りを交えて語ってくれた。あの水害はもともと東港と蚵仔寮を水没させるようにと、玉帝(道教の最高神)が聾龍(耳の悪い龍)に命じたものだった。それを聾龍が新港と箔子寮(蚶仔寮の近く)に聞き違えてしまった。命令にそむいた罰として、聾龍は鯨になり砂浜に打ち上げられることで、新港と箔子寮の人々にその肉を提供したのだという。疫病にかかった者も鯨の肉か油を食べさえすれば病は治癒すると信じられた。
「あの海翁(鯨)の話は本当ですよ。私のおじいさんは、もし今も生きていれば150歳になっているはずですが、あの海翁がいかに大きかったか、よく話していました。鯨の目玉を二つ積み上げると人の背丈ほどもあったそうです」と、万善祠の副主任委員である林崑隆さんは語る。もう一人、蔡さんは、幼い時にその鯨の骨を見ている。大きい部分は柱にできるほどの太さだったという。
「このような伝説をわざわざ創りあげるのは、一つには自分たちの潔白を証明するためもありますが、もう一つは、鯨の肉を食べるという一種の仇討ちができたことで、タイミングよく人々の心を鎮める力を発揮したのです。まさに民間による集団療法と言えます」と、李豊楙さんは指摘する。
灯ろうを流し、赦馬を走らせる
災害の数年後、金湖の人々は万人塚のそばに廟を建設した。それが蚶仔寮の万善祠である。後に口湖郷の新港地区に移転する人が多かったので、そこにも分霊廟として万善爺廟を建てた。一般に無縁仏を祭る万善爺とは異なり、金湖の万善爺は祖先を祭る。「誰と判別できない祖先たちを祭る廟です」と黄文博さんは説明する。
毎年旧暦6月7日の金湖は、正月よりもにぎわう。帰省した村民の車が廟前の広場や道端にずらりと駐車され、祭りの料理の準備に料理人はおおわらわだ。人々は買ってきた水7に筆で家族の名前を書き込んでいく。
二つの廟も更に準備に忙しく、廟の前に法壇を組んでいる。午後2時過ぎ、水死した多くの霊を象徴する香炉が登場し、霊をつかさどる山神とその乗り物である動物に開眼の儀式が施され、続いて銅鑼や太鼓が一斉に鳴らされる。供養の儀式はこのように香炉の登場と奏楽で始まり、神にお出ましを願って儀式の主旨を伝えることで、諸神に加護を請う。
午後の日差しが強く照りつけるのもかまわず、100人近い人々が次々と廟の前に集まってくる。祭りのやま場の一つである灯ろう流しに参加するためだ。陰陽の入れ替わる時刻と言われる午後3〜4時、人々はそれぞれバイクにまたがって、道士と楽隊の後ろをついていく。広々とした養殖池の間を通りぬけ、海辺の堤防を越えると、そこが昔、金湖港の海岸だったところだ。
岸に小船や竹製のいかだがつないである。いつもは牡蠣の養殖に使われるいかだが、今日は道士や祭りの役員たちを載せて港の外へと漕ぎ出されていく。そして沖に出ると、灯ろうが一つ一つ流される。これは溺死した霊が迷わず上陸できるよう水路を開いたというしるしなのだ。海岸からの帰り道、人々は道端に線香を立てていく。祖先の霊や無縁仏が香の匂いに導かれて廟までたどり着き、供養の儀式を受けられるようにするためだ。
いつもは人気のない廟の前だが、この日は夜11時を過ぎてもまだにぎわっている。屋台がたくさん出ているせいもあるが、それよりも今から、見どころの「走赦馬」が始まるのだ。
法壇には、中央に三清道祖と菩薩像が、その両側に十殿閻王がずらりと並べられている。壇の前には机と長椅子が一つずつ置かれ、道士が一人その上に立ち、この世から天に向かって「赦文」を読み上げる。続いて、赦官と赦馬を演ずる道士が登場し、黄泉の国の象徴である地面を走り回る。そして赦官が飼葉を取りだし赦馬を馴らした後、馬を駆って黄泉の大王である鄷都大帝の下へと馳せる。鄷都大帝に赦書を渡した後は、7〜8名の道士が出馬してきて、手に火を携えて跳躍、回転、とんぼ返りなどを繰り返す。これは何日も夜を徹して馬を駆り山を越える苦労を表しているのだという。最後に霊たちに大赦が下ることで、この世と黄泉の国とを往来する神聖な任務が完了する。まるで芝居のような儀式が終わるとすでに夜中の12時で、屋台も次々と店じまいを始めている。だが、ここまでの儀式はまだ序の口で、二日目こそが「牽(車藏)水」の本番なのだ。
「霊が降りてきた!」
8日の朝、村人たちは買っておいた水(車藏)を持って万善祠に集まる。新港万善爺廟の横を通る省道17号線には、道の両側に1キロ近くにわたって水(車藏)が並べられ、カサカサと音を立てている。一方、蚶仔寮の万善祠の方は、広場に水(車藏)をずらりと並べている。
午後4時、金湖港全体が祭りの昂揚の渦に包まれる。法壇の脇には回転するように作られた水(車藏)が七つ並べられ、それぞれの前には、霊を呼ぶための芭蕉の木が1本、道を開くためのホウキ、霊に身繕いをしてもらうための洗面器、草履などが置かれる。また、霊がやってきたことを感知するニワトリが両端に1羽ずつ用意されている。
道士の後に人々が続き、七つの水(車藏)を次々と回していく。回るのがだんだん重く感じられたら、霊がこの場にやってきた証拠だという。人々が競うように水(車藏)を回していると、急に2羽のニワトリが叫んで飛び跳ね始める。「降りてきた!降りてきた」と叫び声が上がると、二人の男性が先端に水(車藏)を掛けた竹竿をつかんでおり、その竹竿はまるで荒馬のように上下して動き回る。人が水(車藏)を持って走っているのか、水(車藏)が人を引っ張って走っているのか、どちらとも見分けがつかず、ただ混乱の中、その竹竿は万善祠の中へと走りこむ。「また降りてきた!また降りてきた」と声が上がり、そのほかの六つの水(車藏)にも、観衆の期待にもれず霊が降りてきたようである。人々は霊の取りついた水(車藏)と一緒にあちらこちらへ走り回り、興奮と緊張の中、祭りの熱気は最高潮に達する。
しばらくして熱気がやや収まると、人々は道士の後をついて広場へと向かい、「牽7」を始める。これは並べられた水7一つ一つにふれて、揺らして回る儀式だ。並べられた水7は何千にも上るが、人々は急ぐ風でもなく、供養にもれる祖先があってはいけないというように、丁寧に一つ一つふれていく。「昔の人々は、死者の名前を呼びながら牽7をやったそうです。涙にぬれた凄惨な儀式でした」と、ある村民は説明してくれた。
浮かばれない霊を救い、供養しようという牽水7の儀式であるが、「あの世にいる霊だけではなく、むしろこの世の人々を救う意味があるのです」と黄文博さんは言う。具体的な一連の儀式を行なうことで、人々は死者のために誠心誠意つくしていると感じ、霊とともに安らかさを得ることができるのである。
供養の儀式も終わり、空はすでに夕日に輝いている。霊たちがあの世に戻る「倒7」の時間だ。異なる世界に住む霊たちは帰らなければならないのである。成仏できない、もしくは成仏したがらない霊たちをあの世へと導くため、一人の道士が牛の角笛を吹き、もう一人が銅鑼を鳴らす。この世に未練を残して去ろうとしない霊を追い払うためには、魔除けの「草龍」に見たてた巻いたむしろを、別の道士が両手に握りしめ地面を強くたたいていく。最後に水(車藏)を燃やして儀式は終りを告げ、供養を果たせた村人たちは安心して、互いに食事に誘い合い、祝いの宴を囲むのである。
塩水の土地
数百年前、金湖の人々の祖先は、風を避けるのに適したこの良港にやってきて、畑作には向かない「塩水地」であることから、漁業で生計を立てた。ところが数百年後には河口に砂が堆積し、港として使えなくなってしまう。そこで目をつけたのが、海外沿いのあちこちに広がる池だった。たちまち同地は、ブラックタイガーえびやウナギの王国、オゴノリの故郷などとして名を馳せ、現在ではボラ、ハマグリの養殖が主流を占める。
ただ、日ごと地下水を汲み上げた結果、「地盤がどんどん沈下して、1メートル以上も低くなってしまいました」と、桋梧文史工作室の責任者である李文貝さんはやるせない表情だ。口湖郷の土地はすでに海面より67センチ低くなっており、地盤は日ごとに沈下している。そのため万善祠は3年.0前に建物の土台を2メートル高くし、建設中の新廟の方も、土台に1階分の高さの余裕を持たせることにした。
二つの廟はともに立派な建物で、今も増築が続いている。廟に入ると2体の神像が目にとまる。1体は官吏の衣装をまとった万善爺であり、もう1体は英雄として祭られる陳英雄の像である。陳英雄の像は、体に9人の子供がまとわりついているという一風変わった様子をしている。言い伝えでは、水害の際に9人の子供を救い、自分は水にのまれて死んでしまった英雄なのだという。英雄の美談には、皇帝からの褒美がつきものだ。一般の万善爺は神像も位牌もないような位の低い「陰神廟」に過ぎないが、金湖の万善爺は次第に昇格して、きちんと像のある地方神となり、5年前には堂々と町を練り歩いた。「我々の万善爺はきちんと皇帝に封ぜられているし、それに祖先を祭ったものだから、姿かたちのない霊を祭った廟とは違います」と、廟の副主任委員の林崑隆さんは説明する。
金湖港の文化祭りに
年月は流れ、哀哭に満ちた儀式もすでに過去のものとなり、今日の祭りではきらびやかな衣装の歌い手を載せた車が町を走る光景も見られる。水(車藏)を回して150年余り、供養されるのはすでに金湖の先祖だけではないし、供養という思いも薄れつつある。「我々の先祖はもうとっくに浮かばれて西方の国に行っていますよ。現在、水(車藏)を買いに来る人の多くは、無念の死を遂げた近親がいる人々です。今日、供養されるのはあらゆる無縁仏で、金湖の人間とは限りません」と言うおじいさんは、手押し車一杯に紙銭を積み、これから燃やしに行くところだった。
万善爺廟の事務所の壁には、金湖の歴史図の下絵が10枚貼られている。大陸からの移住、金湖港往年の盛況、水没した金湖港、陳英雄の捨て身の救難、皇帝による勅封など、金湖港の歩んできた歴史を語る。「牽水(車藏)は、金港の人間なら誰もが有する共通の体験です。この10枚の大壁画によって、郷土文化に対する人々の関心を呼び覚ますことができればと思っています」と、金湖港文化祭りを企画したことのある李景春さんは話す。今日の万善爺廟は、牽水7の時だけにぎわうのではなく、普段も口湖郷の小学校の郷土学習にとって欠かせない見学の場となっており、子供たちの多くも水7に紙を貼って小遣い稼ぎをした経験がある。
海水の湿地という地理条件が、金湖の盛衰を描き、信仰や伝説を生み出した。それは一年また一年、一代また一代と受け継がれていくことだろう。

(左)昔、水害の時に陳という英雄が9人の子供を救うために犠牲になったと言い伝えられている。それ以来、顔のなかった万善爺は顔を持つようになり、手厚く供養されるようになった。

沖へと流れていく灯ろうが、海に眠る魂のために岸への道を開く。

来た!降りてきた!水死者の魂が降りてくると、水
は荒馬のように暴れだし、つかんでいられなくなる。

道士の後をついてオートバイが隊列をなし、養殖池の間を堤防の外まで行って水死者の魂をお迎えする。海水に囲まれた金湖港の人々の命は、海とつながっているのである。

(右)線香を手にひざまずき、菩薩様や鬼王様に祖先の魂が一日も早く成仏できるように祈る。