ここ10年、台湾では統一派と独立派の対立が高まっていて、歴史記述についても議論が絶えない状況が続いている。1996年の総統直接選挙から2000年の民進党への政権交代、そして2008年5月の国民党による政権奪回と、「中華民国」と「台湾」の関係はせめぎあっていて、時に妥協の兆しが見えても、また矛盾が露呈する。11月3日に中共の海峡両岸関係協会の陳雲林会長が台湾を訪問し、呼称問題で議論が沸騰した。
この歴史問題の核心はどこにあるのか。どんな視点から切り込んでいくべきなのか、国史館館長に新任した林満紅館長にお話をうかがった。
2008年5月に新政権が発足してから、馬英九総統は中央研究院近代史研究所の林満紅研究員を、わが国の歴史行政の最高機関である国史館の館長に任命した。林館長は台湾師範大学とハーバード大学で歴史学の博士号を取得し、台湾史、清代史と東アジア経済史、政治経済思想史を30年にわたり研究していて、最近では専門書の『晩近史学与両岸思惟(近代史学と台湾海峡両岸関係思考)』と『猟巫、叫魂与認同危機、台湾定位新論(シャーマン狩り、招魂とアイデンティティ・クライシス、台湾位置付け新論)』を出版し、台湾の位置づけに関する明確な考察をまとまった形で提出してきた。
館長就任後、林満紅館長は国史館の歴史紹介が1957年から始まっており、1912年の中華民国成立から1949年の国民政府の台湾移転にいたる創館の歴史に一言も触れられていないことに気づき驚いた。史実に忠実にという歴史家の本分に基づき、台湾の「国史」を「中華民国史」として位置づけ、わが国の現在の台湾及び澎湖諸島、金門、馬祖の主権は「中華民国と日本国との間の平和条約(以下、日華平和条約)」に遡って境界を決定すべきであると主張している。

大戦中の1943年、中国とアメリカとイギリスの元首(写真左より)がカイロ会議を開き、その後カイロ宣言を発表、「日本の敗戦後、台湾と澎湖諸島は中華民国に帰属する」とした。しかし、この宣言の法的効力は日華平和条約のそれには及ばない。
台湾統治主権の変遷
歴史上、台湾の領土の帰属と主権の変遷に関る事件と国際条約を、林館長は以下のように整理する。
(1)1895年の日清戦争の敗戦と下関条約締結により、台湾及び澎湖諸島が日本に永久割譲された。
(2)1911年、国民党の革命軍が清朝を滅ぼし、中華民国を建国した。これにより中華民国が清朝政府の主権及び金門、馬祖を含む領土を継承した。
(3)1945年、第二次世界大戦が日本など枢軸国の敗戦をもって終結し、戦勝した連合国側に属する中華民国が台湾及び澎湖諸島を接収したが、これから1952年に日華平和条約が発効するまで、台湾と澎湖島は国際法的には地位未定の軍事占領期となる。
(4)1949年、共産党政権が中華人民共和国を設立、中華民国の中国大陸における主権を継承し、中華民国政府は台湾に撤退した。
(5)1952年、日本と中華民国は日華平和条約を締結し、日本は下関条約で永久割譲を受けた台湾及び澎湖諸島を放棄した。中華民国はこの条約締結の当事者として、すでに領有していた金門と馬祖両島に加え、主権と領土が台湾及び澎湖諸島に及ぶことになった。
林館長によると、国民党政府が台湾と澎湖島を軍事占領したのは国際的には特殊な例ではないという。朝鮮半島(韓国)は1945年から1948年の間、日本から連合軍の管理下に移されて事実的に支配され、1952年のサンフランシスコ講和条約が発効してから、ようやく独立が承認されたのである。

同条約第十条は新旧の台湾人はすべて中華民国国民であるとしている。
日華平和条約に立ち帰る
台湾の主権の帰属と定義を定めた日本との平和条約であるが、その正式名称を中華民国と日本国との間の平和条約とし、日本では日華平和条約と呼ばれ、英語名はTreaty of Taipeiである。1952年4月28日に現在の台北賓館において、サンフランシスコ講和条約に基づき締結された。
日本は第二次世界大戦の敗戦国であるが、戦後の1951年に連合国48カ国とサンフランシスコ講和条約を締結した。その条文には「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と明言されている。しかし国民党と共産党の対立があって、中華民国と1949年に成立した中華人民共和国は、どちらも講和条約締結に招請されなかったのである。また条約第4条には、日本が放棄した地域における移譲については「日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする」と定められた。林館長によると、台湾及び澎湖諸島についての特別取極が、サンフランシスコ講和条約が発効する7時間前に中華民国と日本との間に締結された日華平和条約なのである。
国際法上、戦争の結果としての領土移譲では、領土を授受する両国が平和条約を締結しなければ、戦争の勝者は合法的で有効な統治権を取得できないとされている。この点について、日本と8年に及ぶ悲惨な戦争を戦い抜き、さらに平和条約を締結したのは、1912年に成立し現在に至る中華民国である。したがって台湾の歴史をまとめるに当り、中華民国建国以来の歴史を疎かにはできないと、林館長は話す。しかも日華平和条約が1952年8月5日に発効した時は、台湾、澎湖諸島、金門、馬祖に対する中華民国の主権が確立したときでもある。日華平和条約を基本とするのでなければ「台湾人とは何者か」という帰属も明確にはできなくなると、林館長は続ける。

1952年8月5日、時の中華民国外相の葉公超(左)と日本側代表の木村四郎七(左から二人目)が書名を交わし、日華平和条約が正式に発効した。
放棄の相手は誰か
サンフランシスコ講和条約に基づく日華平和条約には「台湾及び澎湖諸島並びに新南諸島及び西沙諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄」と記載されている。この放棄とだけ書かれた一語が、その後の台湾の主権論争の伏線となったが、また統一派と独立派の対立の中で、林館長が双方に史実に立ち帰ることを呼びかける立脚点ともなっている。
台湾主権未定論の立場をとる台湾独立運動の元老彭明敏、黄昭堂、前教育相の杜正勝などは、この条文に言う放棄とは日本が台湾及び澎湖諸島の領土を返還したことを意味せず、また中華民国がこれにより台湾及び澎湖諸島の主権を有するものでもないと主張してきた。
民進党政権期、上述の主権未定論が教科書にも盛り込まれた。教育部が2006年に採用した台湾史教科書は中国史から独立した一冊として編纂されている。多くの出版社の教科書には戦後の台湾主権の変化が盛り込まれ、しかも日華平和条約で台湾主権の帰属が確立されたという説を否定する主権未定論を採用した教科書が多い。
「放棄」の一語に対する疑念につき、林満紅館長は割譲、併合、放棄、返還など主権変更を意味する国際法上の用語から説明する。「下関条約で台湾及び澎湖諸島の主権が永久に日本に割譲されたため、日華平和条約で返還ではなく放棄が使われたのは適切な用語でした。1997年の香港が租界地として、1999年のマカオが管理地として中国に返還されたのとは異なります」と言う。
台湾及び澎湖諸島の主権がこれにより中華民国に移譲されたかどうかについての議論では、これも日華平和条約第10条の「国民」に関する規定を見るべきだと林館長は考える。この条文では、日華平和条約発効後の中華民国国民とは、(1) 台湾及び澎湖諸島の既存住民(たとえば李登輝元総統の世代の旧台湾人)とその子孫、(2)1949年以降に中国から台湾及び澎湖諸島に移住してきた中国国籍者(たとえば故蒋経国元総統などの新台湾人)とその子孫であるとしている。
国際法に言う領土とは、土地を指すのみならず、その土地に存する自然人(生きた人間)と法人(組織及び機関)も指すと林館長は強調する。1895年に下関条約で台湾及び澎湖諸島が割譲されたとき、当時の台湾人はすべて日本国民となり、日華平和条約で日本が台湾及び澎湖諸島の主権を放棄したときに、住民の国民としての身分も移譲されたはずである。
「台湾及び澎湖諸島が中華民国の領土にならないのなら、日華平和条約第10条で1895年以降に日本国民となった台湾人も中華民国の国民にはならないはずです」との議論から、林館長は日本が主権を放棄した相手は中華民国であると主張し、さらに日華平和条約の付属文書である交換公文第一号には「中華民国に関しては、中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある旨」が述べられていることから、その帰属は中華民国に定まっていたと結論付ける。
2006年に発行された高校の民間版歴史教科書の多くが台湾主権未定論を取っているのに対して、1999年の国民党政権時代に発行された国立編訳館の統一教科書では、台湾の主権と法律的地位は1943年、第二次世界大戦中に開催された中華民国の蒋介石軍事委員長、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相のカイロ会議において公表されたカイロ宣言で定められ、戦後の台湾の主権はこのときに中華民国に帰属したと記載されている。これに対し、林満紅館長はカイロ宣言は戦争宣言であり、まず宣戦布告があって、その後の戦争終了後の平和条約があるのが順序であるとする。これは成績表と卒業証書の関係と同じで、成績表にも法律的な効力はあるものの、卒業証書が最終的な法律文書であるのに比べると、その法的効力は確かとはいえないのである。

台北近郊の新店の山の中にある国史館は、かつての大陸および現在の台湾・澎湖・金門・馬祖の中華民国史、そして原住民族が暮らし始めて以来の台湾史編纂を担当している。
本土化した中華民国
1952年以降、中華民国の有効な支配範囲は台湾及び澎湖諸島と金門、馬祖に限られ、そのときから中華民国は中国大陸という完全無欠の秋海棠(戦前の中国の領土を地図で見た形からの呼称)の領土から切り離されて、現地化への道を歩み始めたと林館長は考える。しかし残念なことに、民進党に政権交代する以前に長期政権として君臨していた国民党はこの歴史的事実に目を瞑り、大中国志向に耽溺していたため、草の根から身を起こした民進党の本土化にリードされてしまった。「国民党が今になっても自分の犯した歴史的過ちに気づかないというのであれば、歴史から這い上がることはできません」と彼女は重い口調で語る。
二二八事件の重い陰影を引き摺る台湾共和国論者は、中華民国の承認を国民党政権受容と同じことと考え、そこから中華民国が台湾主権を有する歴史的事実の受け入れを拒否しているのだろうと林館長は推測する。それと同時に、民族自決論を台湾に適用するにも盲点があると林館長は指摘する。「日本の植民地であった時期に、台湾自身が民族自決に向ったわけではありません。最終的に台湾の植民地支配を終らせたのは、日本との戦争に勝利した中華民国政府です。確かにそれは外来政権ではありますが、植民地支配ではないし、その支配範囲は台湾及び澎湖諸島と金門、馬祖に限られておて、ここで現地化していきました」と説明する。
1945年に国際連合が設立され、各国が主権を行使する重要な舞台となっていった。しかしわが国は1971年に中国代表権問題が起きたとき、これに抗議して憤然と脱退してしまった。ところが国連憲章には今でも中華民国が創設会員国として記載されており、その国名はいまだに削除されてはいないのである。そこで林満紅館長は、日華平和条約の中華民国の定義をもって国連への復帰を申請することを提案する。これであれば中華人民共和国の中国代表権に抵触することはないし、中華民国が台湾及び澎湖諸島と金門、馬祖の主権を有していることを国際社会に改めて宣言することもできるのである。
国家の領土境界線の設定で言うと、国際条約と国際法のレベルは憲法より高い位置にある。そこで林満紅館長は、わが国の憲法において「領土はその固有の領域による」と明記されていたとしても、日華平和条約での主権付与と国連憲章における中華民国の主権保障条項に基づいて、国連復帰を主張できると考えている。
政権交代と歴史解釈
2000年から現在まで、2回の政権交代を経ており、国史編纂という国史館の法定職務も、政権交代から微妙な影響を受けている。2001年、立法院で可決し総統が公布した「国史館組織条例」には、国史館の下に台湾文献館を増設すると明記されている。この時期の国史館が出版した『台湾ブラックタイガー王国』など、生活感にあふれて面白く読める台湾史シリーズを林満紅館長は高く評価している。しかし、その一方で1912年から1949年の中華民国史は軽視されてきた。
同じ時期、戦後の国民党政権の台湾接収初期に数多くの台湾人が殺害され犠牲となった二二八事件や、白色テロと呼ばれた台湾人に対する政治的迫害を記述する歴史書も大量に出版された。これを「国民党の台湾支配に外来政権の植民地統治という色彩を塗りつけようという意識的無意識的な操作で、国民党政権の時代に日本の台湾支配を見る歴史的視点と同じです」と批判する。
国民党政権の時代の国史館が国民党史と大中国主義で定義づけられていたのに対し、民進党時代には二二八事件や白色テロなどの政治的迫害に重きをおいた歴史研究に偏っていたが、林館長は就任してから中華民国史と台湾史の両方を平行した形で進めていきたいという。前者は1911年から1949年の中国における中華民国の歴史と、その後の60年の中華民国の台湾及び澎湖諸島と金門、馬祖における歴史を内容とする。後者は、台湾の歴史全体を対象とする。この二つの歴史編纂事業が交わる潮目に日華平和条約が存在しており、これこそ1912年に成立した中華民国が国共内戦の後に残された金門、馬祖と接収した台湾及び澎湖諸島の主権を確立した時期である。
客観的な歴史で世界に繋がる
これまでの台湾史では鄭成功政権の時代や清朝の統治などについては「明鄭」「清領」などの呼称を用い、オランダ支配時代は「荷拠」、日本支配時代は「日拠」と呼称してきたが、これとは一線を画している。あたかも中国人の台湾支配には正当性があるが、それ以外の支配には正当性はないと言っているかのようだからである。そこで林満紅館長としては民進党政権下での国史館の方針を継承し、台湾史におけるそれぞれの支配統治時代に対しては、一律に荷治、鄭治、日治と、同じ用語を用い、主観的立場を離れ、歴史事実を尊重する立場からの記述を提案する。1945年以降の台湾は、中華民国であるので「民治」の呼称を用いる。この時期は中華「民」国の統治で、政権担当者に政権は交代するものだと知らしめるのである。
歴史は密室で書くものではなく、各国史は世界史と密接につながっている。日華平和条約と当時の国際関係を例にとると、朝鮮戦争(1950-1953)と冷戦を背景に台湾及び澎湖諸島、金門、馬祖の中華民国は日本と条約を締結して、日米など反共勢力と共産勢力との緩衝地帯になった。「こういった世界史と本国史との関係は、高校教科書には見られないのです」と林館長は語る。
国史と世界史との繋がりを重視するために「国史館の年号記載は西暦を主とし、その後ろに当時の支配政権の年号を注記して、外国の読者がわが国の歴史を理解する助けとします。また国史研究あるいは記述を試みる者に、世界史との深いつながりへの注意を喚起する意味合いもあります」と言う。
国史館の創設95年来で最初の女性館長として、林満紅館長は国史の定義を中華民国史と定義付けると共に、もう一つ、政府が日華平和条約発効日の8月5日を国定の祝日に定めるべきだと考えている。こうして台湾が国際法上も日本統治から離れて中華民国に帰属した特別な日を記念し、またこれを機会として国民の国家定義に対する共通認識を醸成していきたいと考えるからである。
締結地 台北(現在の台北賓館)
締結日 1952年4月28日
発効日 1952年8月5日
署名代表 中華民国外相・葉公超
日本全権代表・河田烈
主な内容 第2条:日本国は台湾及び澎湖諸島並びに新南諸島及び南沙諸島に対するすべての権利を放棄。
交換公文第1号:この条約の条項が、中華民国に関しては、中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある。
重要性 戦後の台湾及び澎湖諸島の主権が中華民国に属することが確定。