新城駅の外観は、太魯閣峡谷の美をイメージしている。
かつての金鉱の町「九份」は有名な観光地だが、「花蓮の九份」とはどこかご存じだろうか。
やはり金鉱で栄えて「黄金の町」と呼ばれたものの、後には鉱業の衰退と幹線道路の迂回によって忘れ去られたようになっていた町だ。だが近年は、日本の神社とカトリック教会が融合した珍しいノアの箱舟形建造物や、美味しいレモンジュースといった魅力で、観光客の注目を集めている。そこは新たに変身した町ではなく、歴史の輝きを見つめ直し、その記憶に心を打たれる旅のできる町になっている。
花蓮県新城郷。「新城」という地名は、清の時代、浙江·福建地方の総督だった沈葆楨によって1874年に宜蘭蘇澳から花蓮に至る「後山三路」が開かれ、人々が移り住んで新たな町ができたため、「新城(「城」は町の意)」と名付けられたと言われている。一方で、清朝嘉慶年間(1796~1820年)に淡水で地元の名士だった呉全が民を率いてこの地を開墾し、原住民タロコ族の襲撃から守るために城壁を築いて「新城」と呼ぶようになったという説もある。
さらに古くには、クバラン族、サキザヤ族、アミ族、タロコ族もこの地域で衝突や結盟、妥協を繰り返しながら隣り合って暮らしていた。その頃は「大魯宛」や「哆囉満」と呼ばれていた。

ゴールドラッシュの夢
新城郷で砂金が採れることはあまり知られていないが、史料には「哆囉満は金を産す」とあり、17世紀頃には砂金採りでにぎわっていたようだ。日本統治時代には立霧渓中流域に鉱脈のあることが調査隊によって確認されている。第二次世界大戦後には屏風山での採掘権を当局から得た民間企業があったが、採算に合わないとして1991年には中止されている。
台風や大雨の後には、海辺や立霧渓で簡易な道具を使って砂金採りをする人の姿が多く見られた。上流から流れてくる砂金を採るためだ。
ジュースやかき氷を売る佳興冰果店の主人、楊文欽さんもそんな中の一人だった。2005年の大型台風19号(龍王)が過ぎた後、一人の原住民が立霧渓の岩の割れ目の下で160グラムほどの砂金を採ったのを、楊さん自身が目撃したという。当時の相場で約5万5000元の価値があった。
「水に入らなければ一家が死ぬ。水に入れば自分が死ぬ」とは、砂金採りたちに伝わる言葉だ。楊さんによれば、山奥に半月から1ヵ月こもる砂金採りたちは、厳しい冬も1日じゅう立霧渓に入って砂金を採るため、岸に上がる頃には体じゅうが黒ずんでいることもよくあった。だがどんなにつらくても、黄金の夢を追ったという。
新城写真館の前で記念撮影に臨む楊文欽さん夫婦。
星霜移り人は去る
一獲千金の夢を追って多くの人がやってきたおかげで、最盛期の新城には酒場が3軒、旅館が2軒、劇場が1軒あり、砂金採りたちは苦労して得た金を豪快に新城に落としていった。
楊さんによれば、日本統治時代には通りも碁盤目状に整備され、住民も多く活気に満ちていた。新城の最も輝ける歳月だったと言える。
1986年に太魯閣(タロコ)国家公園が設立されると、まもなく山間は保護区となって採掘は禁止、立霧渓も水利署の管理下に置かれて砂金採りはできなくなった。新城の酒場や劇場もすでに姿を消しており、400年続いた金採掘の盛況はこうして幕を閉じた。
新城はかつて鉄道の北廻線、省道の蘇花公路、中部横貫公路、県道193号などが通過する交通の要所だった。ところが省道台9線の開通により、花蓮県と北部を行き来する車両は外環道を通行するようになり、新城を訪れる人も激減して次第に忘れ去られていった
2024年の花蓮の地震で、新城商店街の観光は大きな打撃を受けた。
変わらぬ自然と新たな町の姿
鉄道なら新城駅が太魯閣国家公園に最も近い。モダンな姿の駅舎は、立霧渓の浸食でV字型に削られた太魯閣峡谷をイメージしており、駅名は書家の朱振男の筆による。駅構内には、著名な画家、馬白水による絵画「太魯閣之美」を陳彦君がガラスで再現させた大きな作品や、林介文のテキスタイル・アート「織路」が展示されている。
新城老街(古くからの商店街)を散策するなら日本の神社の遺構を残す新城天主堂を訪れたい。100年以上前の太魯閣戦役や新城事件の犠牲者を慰霊するために建てられた新城神社があった場所で、本殿跡には今ではマリア像がたたずんで人々を見守る。新城天主堂のガブリエル・ドゥレズ神父(漢名は戴宏基)は「根が深く張れば木も枝葉を広げることができるように、国や町は歴史を残さなければなりません」と語った。
観光客たちは、140年前に建てられた新城写真館の昔風のガラス戸の前で、SNS用の写真撮影をし、隣の佳興冰果店でレモンジュ-スを買っていく。この写真館の建物を修築し、無料で一般公開したのは、佳興冰果店の2代目店主、楊春旺さんだ。「レモンジュースを買うだけでなく、新城を訪れた人がこの地域のことを記憶に残してくれればと思うのです」と彼は言う。
ほかにも、地域の野球チームの子供たちのためにと、書籍の貸し出しだけで販売はしない「練習曲書店」を開いた胡文偉さんがいる。彼はまた、10年ほど放置されていた旧台湾電力ビルを改装して文化クリエイティブな特色のある「山海百貨」を始めた。ショッピング、飲食、アート展示参観のできる複合商業施設となっている。
こうした人たちは協力し、酸菜(漬物)やピーナッツ、大理石といった地元産業の復興に力を注ぎ、将来は新城に砂金採りに関する博物館を開設できればとも考えている。豊かな観光資源や風景を掘り起こすことで、新城の歴史に新たな1ページを刻みたいと願っているのだ。
楊文欽さんは、黒い砂の混じる砂金を人生の記念にと保存している。
愛のために、どうか私を前へと進ませてください。兄弟姉妹と全宇宙とともに、勇気と敬虔な心をもって、山中をあなたに向かって巡礼させてください。
「新城」の字の前で記念撮影する観光客たち。
――新城天主堂「山の巡礼者の祈り」
佳興冰果店の2代目店主、楊春旺さんは、新城を訪れる人がレモンジュースを買うだけでなく、この地域のことを記憶に残してくれればと願う。
歴史的聖域「新城天主堂」
花蓮の新城天主堂を訪れると、入口の鳥居が目印となって参拝への道を示してくれる。
青々と蔦の葉に覆われた天主堂の建物は、ノアの箱舟の形に設計されており、シンプルで洗練された印象だ。天主堂の両側には縦長の窓が並び、14枚のステンドグラスがはめられている。これはすべてスイス人のガブリエル・ドゥレズ神父(漢名は戴宏基)がスイスに直接注文して作らせたものだ。ステンドグラス専門の工芸師による手作りで、かなりの価値がある。詳しく見ると、そのうちの1枚には聖母の膝の前に台湾の形をした真珠が描かれていることに気づく。
中に入って座り、外の光が差し込む静謐な空間に身を置けば、愛や許しというものが歴史や歳月を越えることがわかるだろう。それは、かつて戦場となったこの場所を、平和の聖域へと変えたのであり、また「山の巡礼者の祈り」にあるように、前へと進む力ともなる。
佳興冰果店のレモンジュースや金桔(キンカンの仲間)は、観光客に人気のおみやげ品だ。
歴史の証しと平和への祈り
廃墟となっていた新城神社の跡地を、スイスのサン・ベルナール修道会が買い取って教会と神父会館を建設したのが1964年。1976年9月に台湾にやって来たドゥレズ神父は、この神社の跡地がかつて血なまぐさい戦場で、犠牲者の葬られた場所だったために、伝統的な考えで誰も近づこうとしないことに気づいた。だが神父は、この地の歴史や文化を留めなければならないと考え、神社の鳥居、石灯籠、玉垣、荒垣、そして殉職者を追悼する瘞骨碑などの保存を県に掛け合い、また崩れた神社本殿跡に聖母マリアの祠を建てた。この新城神社旧跡は2005年に県古跡に指定されている。
日本軍とタロコ族が衝突した1896年の「新城事件」では多くの死傷者が出た。日本軍は1914年のタロコ戦役で制圧に成功した後、慰霊碑と新城神社を建設した。これが現在、新城天主堂の建つ場所である。
東華大学中文学科の劉慧珍准教授は、ドゥレズ神父が天主堂と神父会館を歴史的建造物として県に古跡申請する際の書類作成などを10年以上にわたって手伝ってきた。
新城事件に関する論文を執筆中の劉准教授は、タロコ族の長老をドゥレズ神父と訪問し、彼らの話と史料や写真を照らし合わせている。今後はサン・ベルナール修道会によるこの地での60年以上の布教の記録もまとめる予定だ。移る月日の中で天主堂は変わらずこの町を見守り続けている。
半天紅牛肉麺店のオリジナルメニュー、
「新城酸菜(漬物)飯」
「大人になったら、本当に何もかも変わってしまうね」――映画『花蓮の夏(盛夏光年)』
新城の博愛街18号にある新城写真館は140年の歴史がある建造物だ。中に入って見上げると、サザンパインの木で作られた支柱や梁が茅葺き屋根を支えているのがわかり、歴史を感じさせる。
館内に置かれた旧式のストロボやテレビ、それにレコードやカセットテープのプレーヤーが、レトロなムードをかもし出す。
新城写真館(新城照相舘)の顔欣嵐館長は「新しい看板にも、昔この写真館が使っていた『舘』の字体を用いました。飲食店ではないので、部首は『食』ではなく『舎』です」と説明する。
館内にはセルフ撮影機があるが、さすが写真館だけあって「打ち合わせ、メイク、練習」を経て撮影できる本格的なサービスが受けられる。昔の写真館では、写真を見栄え良くするためにカメラマンによるサービスがあったものだと顔さんは言う。顔さんのお薦めは、漫画のように演じて撮影する4コマ写真だ。ほかにもスタンプを押したり、絵ハガキを作ったりすることもできる。
新城には、アワ、レッドキヌア、アオモジ(馬告)など、豊かな特産品がある。
誰もが旅人
この写真館を60年以上経営したのは林燦珍さんと蔡金蓮さん夫婦だ。夫婦はドイツ製6インチカメラを使い、新城に駐在する日本の軍人や学生の顔写真、或いは太魯閣峡谷にまで赴いて観光客の記念写真を撮影した。
2003年に林燦珍さんが亡くなり、一人になった蔡金蓮さんも老眼でピントを合わせるのが難しくなった後は、地元ボランティアが雑貨店などを開いて店内を公開してきた。
写真館の建物はかなり損傷が進んでいたのを、隣の佳興冰果店の店主、楊春旺さんが賃借りし、林家側の同意を得て2023年12月頃に修築工事を始めた。
「私は地元民ですから、新城の衰退を見るとほかの人よりも胸が痛みます」と言う楊さんは「新城に来た人がレモンジュースを買うだけではなく、この地域のことを記憶に残してくれればと思うのです」と続けた。
「この空間を完全に所有することは誰にもできませんから」と言う。少々悲観的な言葉だが、楊さんによれば、「新城」という町は本来、人がやって来ては出ていく所で、誰もが旅人のようなものだという。この家にしても140年を経て、最初の所有者はもういない。自分たちの世代も、この町の蓄積された経験を受け継ぎ、次の世代に伝える役割を果たすに過ぎない。だからこそ、この写真館を訪れた一人一人に美しい思い出や感動を持って帰ってほしいのだと。
ノアの箱舟の形に設計された新城天主堂。
偶然が生んだ味
観光客が必ず買うのが佳興冰果店のレモンジュースだ。この店は楊文欽さんが38年前に標会(無尽講のようなもの)で借りたお金で、67年の歴史を持つ製氷・かき氷店「志成製冰」を買い取ったことに始まる。店名を佳興冰果店に替え、夏にはアイスキャンディーやかき氷、冬には麺類を売った。中でもレモンジュースは、地方の奉仕活動に来ていた大学生の間で評判になり、SNSで紹介されて有名になっていった。
一般にレモンジュースは、レモンを半分に切って果汁を絞り、シロップと氷を加えて作る。だが2代目の春旺さんが明かしてくれたのは、父親の文欽さんはレモンを丸ごと、皮もむかずに搾るということだ。おそらく文欽さんは深く考えず、酸っぱすぎるのはよくないと練乳を数滴加えて出したのが、偶然、甘酸っぱい独特の味を生んだ。今やセブンイレブンの店頭にも並んでいる。
春旺さんは今、地元農家のピーナッツ、サツマイモ、酸菜(カラシナの漬物)などの農産品を統合して販売するツーリズム・ファクトリー開設に向けて準備をしている。また、商店街店主へのインタビューなどをまとめた『新城老街故事多(新城商店街ストーリーズ)』という冊子の編集を、写真館の顔館長に依頼した。顔さんは、新城にどんな農産品や名物があるか知らない観光客も多いと言う。実は肥沃な砂質を持つ新城では、ピーナッツやヤマイモ、そして漬物の酸菜といった高品質な農産物や加工品が豊かにあり、大手に多く買い占められてしまうほどだ。
顔さんはさらに、半天紅牛肉麺店に行って、店お薦めの新城酸菜飯や酸菜麺を味わえば、地元酸菜の美味しさがわかると勧める。酸菜はリノベスポット「山海百貨」でも買えるそうだ。
新城天主堂は日本統治時代の神社の遺構を残している。
山も海もそこに
新城で海が見えるのを知らない人も多いが、商店街から車で10分足らずで「曼波海堤」や「月牙湾」の海岸に着く。
「花蓮ブルー」と呼ばれる青色がある。それは海の青、空の青、そして旅人の心に映る青だ。美しい太平洋と壮大な太魯閣峡谷がすぐそこにあり、多くの記憶を抱える新城は、訪れるに値する所だと言えよう。
大の猫好きのドゥレズ神父は10匹の猫を飼っている。神父に抱かれたクールな「ビンガン(餅乾)」と、カメラに動じない「フォンイエ(楓葉)」。
新城天主堂のステンドグラスは、ドゥレズ神父が直接スイスに注文したものだ。
旧式のストロボ、古い写真、レコードプレーヤーなどがレトロなムードをかもし出す。
1回150元のセルフ撮影ブースでは、写真館ならではの「打ち合わせ、メイク、練習」のサービスが顔欣嵐館長(右)から受けられる。
新城写真館に残る百年前の茅葺き屋根。
絵ハガキの手作り体験で最後に押すスチールスタンプ。
練習曲書店は書籍を貸し出すだけで販売しない。
10年ほど放置されていた旧台湾電力ビルは改装され、文化・クリエイティブな商業施設「山海百貨」になっている。
新城では砂浜で波とたわむれることもできる。
