愛され続ける糖葱
風景を宜蘭に移してみよう。国立伝統芸術センターの糖葱文化館では、飴菓子職人の卓創慶が飴生地を引っ張って、昔懐かしい「糖葱」を作っていた。珍しい菓子工芸の実演に、多くの人が足を止めて見入っている。琥珀色の飴生地を手際よく棒に巻き付け、リズムよく体を動かしながら生地を引っ張っては止めることを繰り返すので、生地が棒に当たってタッタッと音を立てる。ほんの1分ほどで琥珀色の生地が長く伸びて白い帯状になった。形がネギのように見えることから「糖葱」と呼ばれるこの飴菓子は、真珠のように白くとても上品だ。
最後に卓創清は糖葱を素早く木の棒に巻き付けて形を整え、それから奥に持って行き、息子の卓偉同と二人で素早く飴を数センチずつにカットし、湿気を避けるために袋に詰めていった。木の棒に固定されていた部分は歯ごたえのある飴になり、長く伸ばされた部分はサクサクとした食感で、好みは分かれる。試食してみて思わず「おかげで子供の頃の記憶がよみがえりましたよ」と言った年配の客がいた。
単なるお菓子として食べるだけではなく、昔の富裕層がよくした食べ方を卓創慶は紹介する。潤餅(生春巻き)の皮に糖葱を載せ、パクチーなども加えて巻いて食べる方法だ。アイスクリームを加えればしっとりとした食感になる。卓韋同も自信ありげに「潤餅皮の作り方はじいちゃんから伝わる秘伝で、黄金比率があるんです」と言う。現代人の食べ方は、コーヒーや紅茶に砂糖代わりに入れたり、豚足を煮込むのに入れてツヤを出したりする。
かつては麺類の店や衣類を売る店など小さな商いを営んでいた卓創慶だが、30年前に妻の実家で糖葱の技を継承する者がいなくなり、気は進まないものの仕方なく妻の父について学び始めた。1年後には独り立ちできるようになり、台湾じゅうの祭りや夜市を回るようになった。そんな飴引きの技術を買われ、17年前に宜蘭の伝統芸術センターに招かれ、長期駐在の糖芸師となった。
炉の火加減、砂糖や水の量など、糖葱作りやその材料は簡単なようで各工程で細かな技が要求される。まず砂糖水を作り、それをとろ火で煮詰めていくが、その間、絶えず撹拌しなければならない。温度や湿度、火加減をうまく調整しなければ、飴を焦がしてしまう。水分が蒸発して水飴状になったら、火からおろして鍋ごと水で冷やしながら、手で形を整えて飴生地にしていく。これで引っ張れば葱状になる生地がようやくできる。
また、これらの作業はつらい。夏は耐えきれないほど暑くなるし、170度にも達する飴生地をしきりに動かして、手で扱える70度ほどまでに温度を下げる。水飴や飴生地をうっかり手にこぼそうものなら貼りついてなかなか取れず、火傷をしてしまう。すべて手作業で行うので、技を学ぼうという人もまずこの高温に恐れをなしてしまう。現在、糖葱師は台湾全体でも指で数えられるほどしかいない。卓創慶の二人の息子は幼い頃から接してきたこの伝統芸を、三代目として立派に受け継ごうとしている。
卓創慶は輸入品の甜菜糖を使ってみたことがあるが、伸びが悪かった。台湾産の白糖の場合は手ごたえが異なり、伸ばすとほど良い強靭さが出る。だが味となると差はわかりにくい。「どちらもとても甘いですから」と言う。
我々も糖葱を試食させてもらう。口に入れると舌の上で甘さが広がった。卓創慶は、糖葱は十分に甘いからこそおいしく、甘党の若者がこれを食べると止まらなくなると言う。「糖葱はね、本当に甘くないとおいしくない。本当ですよ」
中央研究院の曽品滄によれば、清朝末期から日本統治時代初期の古い歌謡『識丁歌(識字歌)』に、糖葱が出てくるという。また卓創慶が年寄りたちから聞いたという話もある。台湾では戦後すぐに糖葱を作る人がどっと増えた。日本人が台湾を去り、倉庫に残された砂糖を管理する人がいなくなり、雨などの湿気で砂糖がペースト状になって流れ出てきたのを、人々が持ち帰って煮たのだという。「それをつまみ上げているうちに糖葱状になったと聞きました」