10年間に渡る引上げ調査計画と作業、その後10年間の古文物の保存と、台湾で初めて発見された沈没船「将軍一号」は、わが国の水中考古学の歴史を唯一物語るものである。しかし残念なことに、この沈没船を発見した澎湖島の漁師黄加進は、2006年にガンで亡くなった。亡くなるまで気にかけていたのは、沈没船博物館の建設が進まないこと、そして身に覚えのない国宝横領という罪名であった。
生前の黄加進が家族に公開を遺嘱していた手記には、繰り返し潜水考古学の夢を記してあったが、そこにはどのような意図があったのだろうか。そして死んでも死にきれない、その無実の罪とは何なのだろう。
どんな巡りあわせなのか。当時、文化遺産を管轄していた政府機関である教育部は何の責任も負わず、引上げ作業の委託を受けた国立歴史博物館が、黄加進から職務怠慢の非難を受けることになった。
現在、将軍一号から引上げられた文物は澎湖県政府に現地保存されているが、今このとき、20年の時を経て当時の引上げ作業の真実が明らかになり、関係者間の誤解が氷解しようとしている。
3月5日、澎湖県馬公地域には11年ぶりに雹が降って風雨が強まり、10数艘の船舶は埠頭に避難するしかなかった。4日の後、私たちは馬公港に上陸して、黄加進の一生を振り返ることにしたのである。
「黄加進、澎湖県馬公市の人、1952年2月16日生れ、職業軍人を目指し、陸軍専修班を卒業してから台湾で軍役についた。除隊後、澎湖島で潜水漁撈を行い、最も景気がよかった時は漁船2隻を擁して、専門的な潜水漁撈を行った」と、黄加進とは10年来の友人、澎湖科技大学総務長の李明儒は黄加進を記念する文章に綴り、澎湖の潜水第一将軍と呼ばれた黄加進を紹介してくれる。

「将軍一号」を発見した漁師の黄加進は2006年に逝去し、今ではフィルムの中に彼の姿を偲ぶことしかできない。
海中に将軍の姿を求めて
黄加進が将軍一号と最初に出会うことになったのは、ある災害のおかげである。当時の報道によると、1986年8月、台湾の気象観測史上初めて、澎湖の方角から台湾に上陸した14号が台湾を襲った。澎湖島も大きな被害を受けたが、付近の海域が大きく波打ち、そのおかげで海底の文物が姿を現したのである。翌年、黄加進はイセエビ漁に出たとき、海底に埋もれる明清の古物と思われる陶片を発見した。その後、何回か潜っては大量の器物を引上げたが、その中には保存の良好な磁器や陶器が混じり、海底沈没船の存在を信じるようになった。
1990年前後、38歳の黄加進は新聞紙にくるんだ磁器片を手に、当時国立歴史博物館の館長を退いたばかりの澎湖県選出立法委員陳癸淼;を訪ねた。そこで政府は澎湖の沈没船を重視すべきと意見を出したところ、陳癸淼;は早速立法院でこれを取り上げた。1992年、教育部社会教育司長に任じた何進財はマスコミの質問に答えて、文物を主管する教育部がそのとき初めて台湾の海域に沈没船があることを知ったと明らかにした。
そのニュースが伝わると、政界も考古学界にとっても、沈没船はイギリスのメリーローズ号など、国際的に話題になった他人の話ではなく、自国の領海で起きた事件となった。それなのに、果して沈没船が宝船なのか、ごみの船なのか。年代はどれほど古いのか、誰も事実を明らかにできず、研究や経験のない中、どうやって調査するのかも分からなかった。
1990年から教育部はまず台湾大学海洋研究所と人類学科に、その処理の研究を委託した。台湾大学はまず調査、位置確定、文物の価値評価を行ってから正式に引上げるという構想を立てた。しかし、教育部は黄加進が非協力的と考え、自力での引上げを計画した。
当時の文物資産法の規定によると、文物の発掘は教育部が指定した公立の保護機関か学術機関がこれを行うことになっていて、教育部は民間人の黄加進に直接沈没船引き上げを委託することはできなかった。「それが黄加進には教育部のやり方は遅すぎ、万一文物を誰かに盗まれたらどうするのかと考えたのです」と、何進財は文物処理に対する政府と民間の態度とやり方の相違を指摘する。
教育部は最終的に台湾大学が提出した引上げ計画を採用しなかったが、その理由は予算が数千万台湾元に達すると見込まれ、しかも黄加進が沈没船の所在地を明確に示さなかったためという。この計画は5年も棚上げとなり、1995年にようやく国立歴史博物館が引き受けることになった。

唯一破損していない「青磁四系罐」は多数発見された陶器の罐とは異なるものだ。口径10センチ、底径は13.7センチで上縁4か所に飾りがついている。周囲の長さは63.5センチ。
報告しなければ盗掘
黄加進はマスコミに、1987年から1995年にかけて別に4隻の沈没船を発見し、数艘は船体に古い大砲を見たと語っている。1990年から黄加進に潜水を習いだした李明儒によると、骨董好きの黄加進は最初はイセエビ漁のために潜っていたが、その後は文物探しに潜るようになったという。時に60メートルと、漁撈やスポーツ潜水の30メートルをはるかに超え、将軍一号引上げにも50メートル超えて潜った。
李明儒によると、大の骨董好きでそれを他人と分かち合いたい黄加進は、自宅の前庭を展示場に開放し、自分が発見した染付磁片や陶器を展示していた。さらに1993年には澎湖県警察局より会場を借りて沈没船文物展を開催し、澎湖の人々の目を楽しませた。
こういった黄加進の派手なやり方が教育部の不興を買い、1995年には当時の文物資産法第17条「水没した所有者のいない古物は国家の所有に帰す」の規定を引いて、国有古物の横領の罪で黄加進を澎湖地方裁判所に告訴した。最終的には陶器の壷や磁片など783点の文物すべてが、澎湖県文化局に寄贈された。
その一方、それまで台湾には沈没船発見の前例がなかったため、教育部では緊急に黄加進を想定した「所有者のいない古物発見者の奨励規定」を制定したものの、それこそ全国最初のことで、しかも周辺法規が整っていないため、誰もが混乱したと、この業務を担当した澎湖文化局の紀麗美副局長は当時を回想する。
管轄官庁である教育部の硬軟使い分けたやり方に、黄加進に親しい友人たちは不平を鳴らす。「裁判沙汰になると知っていたら、隠し持っていればよかったのです。それがこんなことになって」と紀副局長は言う。
「その頃は文化資産が今のように重視されず、所有者のない古物を発見したら、法的にどう処理するかも知られていませんでした。普通は家の装飾品として飾っていたのです。実際、引上げた文物の意義や価値も分かっていませんでした」と紀副局長は、文化遺産に対する当時の一般の認識不足を語る。
さらに皮肉なことに、教育部は黄加進が明清の古物を隠し持ったと告訴しながら、1998年9月に歴史博物館が沈没船を発見し、将軍一号と命名した後、発見された文物の多くが欠片、よく見られる様式、歴史資料としての意義不足などとされ、教育部に申請して認められた奨励金は僅か1万台湾元に過ぎなかったのである。黄加進は澎湖県の感謝状は受け取ったが、自分と文物への侮辱として奨励金の受領は拒否した。

この四つのオリーブの種は、将軍一号から出土した奇妙な「文物」である。鑑定の結果、中国大陸の華南で広く栽培され、砂糖漬けにして食べられているものとわかった。これらが船とともに沈んだのか、それとも現代の観光客が酔い止めに食べて種を海に捨てたのかは分からない。
将軍の位置を秘匿
引上げの命を受けた歴史博物館は、1995年4月から澎湖島海域で沈没船の調査を開始した。黄加進が位置確定に協力したものの、3ヶ月に渡り何の手がかりも得られず、黄加進が発見場所を故意に隠しているのではと疑う人もいた。これに対して当時の引上げ計画のサブリーダーで、歴史博物館の現館長黄永川は先日のインタビューにおいて黄加進の協力につき、その後に大塭;礁で沈没船の跡を発見したと評価する。
1995年以前に水中考古学の経験がなかった黄永川館長は記憶をたどり、海に出ると海面は石油を流したように黒く、東西南北の方向感を失ったという。
黄加進のような潜水のベテランなら、調査隊を誤魔化せるのか、それとも自分も方向を失ったのだろうか。「私は信じたいと思います。黄加進は経験と感覚で潜水していましたが、海上で肉眼だけで誤りなく位置を示すのは無理です」と紀麗美副所長は言う。

歴史博物館の水中考古学チームは将軍一号の甲板に並んだ瓦を発見した。この船は建材を運ぶ輸送船だったと考えられる。
船長、われらの船長
李明儒から見た黄加進は寡黙だが、古物となると饒舌に明清以降の文物の特徴を話し出す。その潜水の弟子として、潜水が黄加進を殺したという。
黄加進と親交のあった黄永川も同じ見方である。黄加進は自分の潜水技術を過信し、長年にわたって上昇するときの減圧に注意を怠っていて、重い潜水病を患い、両大腿骨の骨盤や右腕の関節などが酸素不足で壊死していた。
李明儒は生前最後の写真を指差し、2005年の馬公港の浚渫工事で多くの陶磁器片と完全な安平壷(明朝の海上貿易期に福建省北部で生産された磁器の壷で、鄭成功がオランダ人攻撃の火薬入れに用いたとされ国姓壷とも呼ばれる)が発見され、医者に大腸ガンを宣告されていた黄加進は周囲に病状を隠して、無理を押して潜水調査に出かけ、陸に上がるや緊急入院したと話す。その後、病院を出ることなく、翌年2月に病死した。享年55歳であった。
「昔気質の船長のようで、潜水設備がおんぼろでも平気なのです」と、李明儒は泣き笑いする。亡くなった友は余りにも気にかけなさ過ぎで、潜水に使った腕につける古臭い羅針盤も時代遅れであった。
黄加進の功罪はともかく、台湾の水中考古学史の最初は彼から始まるのは否定できない。確かに古物を自分のものにしたい私心はあったにせよ、それは人間として誰にでもある気持ちであろう。紀副所長が言うように、黄加進が台湾の水中考古学の扉を開き、法律規定の整備に向わせ、一般の文化遺産に対する意識を高めさせた。彼がいればこそ、澎湖の漁民も宝探し気分で海底の沈没船を見ることがなくなったのである。
馬公埠頭に足を止め、暗くなる中、黄加進が酸素ボンベと潜水服を手に、足早に豪華客船台華号が停泊している場所に向かう姿を想像する。そここそ、彼の最後の潜水の場所であった。
歴史に記されるべき名前であった。将軍一号の文物の発見10周年に当り、それをめぐる恩讐も風に吹かれて、海に消えていくべきだろう。

将軍一号から引き揚げた白磁の匙。長さ9センチ、幅4.7センチで、船上の人が食事に用いたものと考えられている。

海に沈んで150年になる将軍一号の木造の船体の傷みはひどく、引き上げれば崩れてしまうおそれがあるため、歴史博物館では木片だけを引き上げて保存した。福建や台湾で木器や船によく使われるランダイスギの木材だ。