台湾の学生運動や若者の社会運動と言うと、一般の人々は18年前に中正記念堂で花開いた「野百合運動」を思い浮かべるだろう。 当時、6000人近い学生がここに集まって座り込み、「国民大会の解散、『動員勘乱時期臨時条項』の廃止、国是会議の開催、政治経済改革の具体的日程提出」という四大アピールを打ち出した。時代は変ったが、学生が政治的タブーに挑戦し、民主主義と自由を求めるというイメージは人々の胸に深く刻まれた。
だが、現代の若者たちは当時の閉鎖的で権威主義的な社会の雰囲気を知らず、戦うべき目標も見出しにくい。高等教育が普及して社会の競争が激化する中で、青年たちの関心も個人の逸楽や前途へと移ったようで、いつのまにか「目標がなく、情熱に乏しく、プレッシャーに弱く、公共のテーマに無関心」というのが若い世代の新たなイメージとなった。
だが実際はどうなのだろう。現代の若者は本当に冷淡で社会の問題に無関心なのだろうか。決してそうではない。社会が多様化して関心を注ぐ対象が広く分散し、問題の複雑化にしたがって活動も分業化してきただけなのである。一般の人々がまだ気付いていない問題にも多くの若者が関心を注ぎ、社会を変えたいという理想を抱きつつ、一歩ずつ着実に活動している。そして、それが台湾の将来を変える力になろうとしている。
2008年11月6日午前11時、いつもは静まり返っている行政院の正門前に、黒い服にマスクをつけた若者600人が集まっていた。
おとなしそうな表情の彼らは、全国各地から集まってきた大学生や大学院生で、従来の社会運動家のような激しいアジテーションもなければ、周囲を囲む警察との対立もなく、ただ黙って集会の許されていない広場に座り込んでいる。そして「人権」「言論の自由」「戒厳令で出迎え」「警察暴力」といったプラカードを掲げ、11月3日に中国の大陸海峡両岸関係協会の陳雲林会長が来訪して以来の警察による過度の取締り行為に抗議したのである。
翌日、静かに座り込みの抗議をしていた学生たちは警察によって広場から追い立てられて自由広場へと移らざるを得なくなった。それ以降、2ヶ月にわたる抗議行動が続いた。

蘇花高速道路建設反対運動のサイト「蘇花糕餅鋪」は、台湾東海岸の美しい風景写真を用いて人々の注意をひきつける。
この時の運動は、後に「野イチゴ学生運動」と呼ばれるようになる。この名称は、現在の若者をプレッシャーに弱いイチゴのようだとする外部の評価を自嘲的に使ったもので、また18年前に同じ場所で行なわれた「野百合学生運動」に対する敬意も込められている。
この運動はその後、「馬英九総統と劉兆玄行政院長による公の謝罪」「蔡朝明・国家安全局長と王卓鈞・警政署長の即刻辞任」「国民の権利を制限する『集会デモ法』改正」を三大アピールとし、ネットを通して台北や新竹、台中、台南、高雄、嘉義の6ヶ所で同時に座り込みの抗議行動を行なった。一時は参加者が2000人を超え、1990年3月の野百合学生運動以来、最大規模の学生運動となった。
だが、この18年の間に台湾の政治経済は大きく変わり、二度にわたる政権交代もあった。そうした中では野イチゴの「集会デモ悪法改正」の要求は、野百合時代の「打倒、国家メカニズムの専制職権濫用」というアピールほど人々を感動させることはなく、学生側にも社会運動の経験が少なかったため、政府もマスコミも冷ややかにこれを扱った。理想を掲げた運動もしだいに注目されなくなり、2009年1月4日、学生たちは自由広場を去っていった。

蘇花高速道路建設反対運動のサイト「蘇花糕餅鋪」は、台湾東海岸の美しい風景写真を用いて人々の注意をひきつける。
成果を上げられなかったこの運動は、一部の評論家から「グリーン陣営の色彩を逃れない」「野百合運動出身の教授たちの影響を受けている」「世代の特色がない」と批判されたが、その後に何も残さなかったわけではない。一年たった現在、今も多くの若者がそれぞれの領域で、当時守ろうとした「人権」「言論の自由」「公平正義」のために努力を続けている。
例えば、学生運動において「座り込み運動ネット生中継」を行なった十数人の「アンカー組」のメンバーは、座り込みを終えた後、今でも当時の撮影機材やマイクやPCを持ってメーデーのデモ行進や「台風8号災害再建条例」の公聴会、「国民主権千里苦行」や「秋闘」などの現場に出ていき、多くの主流メディアが扱わない弱者の声を伝えている。
これら、マスメディア専攻ではない学生たちが生中継する番組は、しばしばネット上で数百人が視聴している。その「野イチゴTV」サイトは、さまざまな社会運動団体がリンクする重要なプラットホームとなった。
アンカー組の学生で、中正大学法学部出身の「小p」はこう話す。以前の彼女は、一般の人が想像するような「公共問題に何の関心も持たない」平凡な大学生だったが、陳雲林が来訪した時に、テレビで警察の過当な取締りを見て、まるで戒厳令の時代に戻ったように感じた。静かに座り込みをしている学生も強制的に退去させられ、「ひどすぎる」と思い、野イチゴ運動に加わったところ、それまで狭かった視野が大いに広がったのだという。
「広場で座り込みをしている間、多くの社会団体が声援に来てくれ、私のような『全く白紙』の状態の学生もさまざまな問題に触れることができました。『楽生院の取壊し』『原住民の強制移住』『在台チベット人の今後』など、数々の問題に初めて触れ、主流社会の価値観の陰に、耳を傾けるべき多くの声があることを知り、これがきっかけでドキュメントの仕事をしようと思ったのです」

蘇花高速道路建設反対運動のサイト「蘇花糕餅鋪」は、台湾東海岸の美しい風景写真を用いて人々の注意をひきつける。
清華大学社会学科教授の丁讃、中央研究院台湾史研究所研究員の呉叡人、世新大学社会発展研究所准教授の陳信行、中正大学マスコミ学科准教授の管中祥などは、大きな流れにならなかったこの学生運動の最大の意義は、小pのような、表面には現れない社会問題を知らなかった若者たちに、公共の問題に関心を注ぐ習慣をつけさせたことだと考えている。
「自ら参加してこそ、社会運動の力と限界を知ることができます。これは授業で百回聞いても得られない民主教育です」と学者は言う。
野イチゴ運動の他にも、環境保護や労働運動、強制移住反対運動、あるいはネット文化などの分野で、それぞれ理想を抱く若者たちが努力している。
彼らには、かつての学生運動リーダーのようなカリスマ性はなく、従来の社会運動のように卵を投げたり、横断幕を掲げたり、流血の街頭行動に出たりはせず、むしろ専門的な分業体制をもって一歩ずつ着実に問題を掘り下げている。そのためマスコミに扱われることも少ないのだが、その活動の成果が出た時に初めて彼らの存在を知り、夢を持つ若者が今もいることに驚かされるのである。
例えば2009年の台風8号災害の後、平均年齢30歳未満の「台湾デジタル文化協会」と「台湾ブログ協会」という二大ブロガー団体が100人近い若者に声をかけ、プラークやツイッター、グーグルマップなどのツールを活かして「台風8号被災地図」や「民間被災状況ネットセンター」などのサイトを立ち上げ、効率よく人を動員する力が注目された。(20ページの記事を参照)
また、2008年に青年輔導委員会の「青年公共参画賞――市民メディア賞」を受賞した「蘇花糕;餅鋪」サイトも、蘇花高速道路(宜蘭県の蘇澳と花蓮を結ぶ)を建設すべきか否かという問題に関心を寄せる100人近い大学生がボランティアで運営しているもので、法律から環境工学、動画デザイン、ドキュメンタリー制作など、それぞれの専門を活かして活動している。彼らはランディス・タイペイホテルの厳長寿総裁や侯孝賢監督の協力を得て、オンライン署名の輪を広げ、テレビCMを制作し、説明書を作るなどして蘇花高速道路建設の是非を人々に問いかけてきた。そして2008年の総統選挙のディベートの「十大市民テーマ」の一つに挙げられたのである。
「蘇花糕;餅鋪」や他の環境保護団体が巻き起こした世論の影響で、十数年にわたって結論の出なかった蘇花高速道路環境アセスメントは、2008年に建設すべきではないとの結論を出し、近年における環境保護派の大勝利とされた。

蘇花高速道路建設反対運動で一躍有名になった李佳達は、青年環境シンクタンクを結成し、地球温暖化やフェアトレードなど幅広い問題に関心を寄せている。彼が手にしているのはフェアトレードの装飾品。すべて国際会議に出席した際に手に入れたものだ。
澎湖におけるカジノ開設の賛否を問う住民投票では「反賭連盟」が大きな影響力を発揮し、「中部サイエンスパーク四期工事および国光石化のナフサプラント建設反対」といった活動にも多くの若者が参加している。
ハンセン病元患者が暮らす台北県新荘、楽生院の保護運動は5年以上続き、話題にならなくなった昨今も数十人の学生が活動を続けている。彼らは毎週末楽生院に集まり、院内に暮らす元患者の話に耳を傾け、定期的に「楽生コミュニティカレッジ」の講座を開くことで、近隣住民の偏見をなくし、さらなる行動へのエネルギーを高めようとしている。
「若者の社会参画や公共問題への関心は以前からずっと途絶えたことはありません。ただ運動の形式が時代とともに変わってきただけです」と話すのは、長年台湾の学生運動に注目してきた中央研究院台湾史研究所アシスタント研究員の呉叡人だ。
呉叡人はこう説明する。台湾人の歴史的記憶は非常に短いため、学生運動と言うと、多くの人は野百合運動を思い浮かべる。しかし実際には1920年代の日本時代、林献堂ら士紳階級が率いて「植民地参政権」を求めた「台湾議会設置請願運動」には総督府医学校や国語学校、師範学校などの学生数百人が参加していた。また1947年の「二二八事件」でも千名に上る若者が危険を顧みずに立ち上がり、台南の成功大学の学生は「学生軍」を結成して陳儀の武力鎮圧に対抗した。
1970年代には民族主義の義憤から来る「保釣(釣魚台列島を守る)運動」や、より生活に密着した「フォークソング運動」が盛んになり、これらも学生が中心だった。1980年代になると、それまでの経済発展による公害問題や労働者搾取といった問題が浮上し、社会運動はますます盛んになっていく。そうした中で、欧米の思潮を学んだ学生や、意識に目覚めた地域住民、そして多くの若者が重要な役割を果たした。
「私も1986年に台湾大学の学生だった時、『台大大新社』の仲間と田舎へ行き、彰化県鹿港の住民と一緒に『デュポン工場建設反対』の抗議に参加しました」と呉叡人は言う。

蘇花高速道路建設反対運動のサイト「蘇花糕餅鋪」は、台湾東海岸の美しい風景写真を用いて人々の注意をひきつける。
呉叡人はこう指摘する。古今内外の学生運動の発展を振り返ると、民族主義や民主主義、階級搾取といったテーマにおいては特に若者の正義感や同情を呼びやすい。また台湾では、政治運動であれ社会運動であれ、その発展を見ると、常に若者が参画している。
ただ1990年代初期まで、台湾における自由や人権、ジェンダー、台湾文化、環境保護、農民・労働者などの運動において、共通の敵は常に国民党一党独裁の強大な国家メカニズムであり、抗争の目標は明確だったためパワーを結集しやすく、社会の共鳴も得やすかった。
しかし、1996年に総統の直接選挙が始まり、2000年に初めての政権交代が実現した時点で、台湾民主化の段階的任務は達成された。人権に関わるさまざまな立法も完成し、一部の社会運動や学生運動のリーダーが民進党政権樹立とともに政府に入ると、体制に対抗するエネルギーは弱くなり、長年にわたる活動の経験や人材の継承に危機が生じ始めた。
昨今始まった新しい青年運動が着目するのは労働者や環境の問題だけではなく、広い範囲に及んでおり、同性愛者や原住民族、新移民(外国人配偶者)などのマイノリティーの権利獲得運動もある。また、身近な問題として「学費値上げ」「青年の貧困化」「デジタルデバイド解決」といったテーマでの活動も行なわれている。
こうした活動の中で気付かされるのは、国家による圧政が緩む一方で、社会運動の先輩たちが願った市民社会は実現せず、国家と同じく巨大で狡猾な資本体系が当局に取って代わったことだ。この「新たな敵」は、権威主義的な政府のように分かりやすい存在ではなく、各所に分散して互いの利益が複雑に絡み合っているため、より繊細に複雑な問題を分析して掘り下げていかなければならない。
「民主主義と自由の提唱から、専門的に分業化した社会運動への発展は、欧米先進国でも見られる流れです。ここからも、台湾が政治的社会的な集権専制体制から民主化へと歩んできたことが分かります」と呉叡人は言う。

蘇花高速道路建設反対運動のサイト「蘇花糕餅鋪」は、台湾東海岸の美しい風景写真を用いて人々の注意をひきつける。
90年代以降、台湾の政治は大きく変わり、現在の若い世代による社会運動は手探りの中で、上の世代とはまったく異なるスタイルを生みだしてきた。
最も異なるのは、以前のように、「知識分子」として海外の思潮を持ちこんで「啓蒙する」という態度ではなくなったことである。苦しむ人々の境遇を自らのものととらえ、そうした人々の主体性をより尊重するようになったのである。
18年前、野百合学生運動の5人の「広場総指揮」の一人として活躍し、今は世新大学社会発展研究所准教授の陳信行は、こうした変化が生じた原因として、この20年、台湾社会で情報が十分に流通し、国民の知識が高まり、高等教育が普及したことが挙げられるという。
彼が学生運動をしていた時代には、台湾の大学進学率はわずか30%で、大学生は将来の国を担う大黒柱と見なされ、留学帰りの学生はトップエリートとして扱われた。「私たちが学生の頃、『郷土サービス隊』を結成して地方へ行くと、現地のお年寄りが私たちに農村の問題を話してくれ、必ず『台北に戻ったら政府に話してくださいね』と言われたものです。この言葉には当時の『知識青年が国を救う』といった期待感が込められていたのです」と言う。
こうした環境から、当時の大学生はエリート意識を持っており、社会運動においては、自分が民衆を代弁するといった気負いがあった。そのため、弱者の主体性や本当のニーズを身落としてしまい、現実を無視した計画を立てることもあった。
清華大学社会学科教授の李丁讃は次のような例を挙げる。90年代に台湾で盛んになった「町づくり運動」は、理想を抱く多くの熱血青年を惹きつけ、若者たちが地方に出ていったが、その多くは失敗した。これも「一般住民の需要とマッチしない」ことが主な原因だった。
例えば、広く知られている嘉義県新港の町づくり計画の中心的存在「新港文教基金会」は、最初は奉天宮に隣接する中山路で「緑化美化」プロジェクトを進め、これによって新港の宗教観光を盛んにしたいと考えた。しかし、屋台の商売や観光客の駐車のニーズを考えなかったため、地元住民の激しい反対に遭い、何度も話し合いを重ねても意見が一致せず、町づくり計画は頓挫したのである。
しかし、大学進学率がほぼ100%になった現在、エリートを自負する学生はいない。社会運動の第一線に立っていても、自分は指導者でも救世主でもなく、「群衆の一人」に過ぎないと考えているのである。
例えば、労働者運動で高く評価されている「青年労働九五連盟」は、設立から3年間で、アルバイトや派遣で働く若者100人近くの正当な権益を勝ち取ってきた。彼らの成功の一因は、自分自身や周囲の同級生が同じように「搾取された」経験を持っているため、被害を訴える人の身になって考えることができる点にある。そのため、彼らは「仲間」として活動し、被害者が自分の権利を認識するのを助け、必要な時には法律的な支援を行なう。だが、被害者に代って何かを決めることはせず、また団体行動への参加を強制することもない。(28ページの記事を参照)
陳信行は、こうした「主導」から「サポートへ」、「啓蒙」から「主体性尊重」への変化こそ、人々の共鳴を得られ、活動を根付かせることのできるカギだと考えている。

楽生院を守るために2007年4月中旬に行なわれたデモ行進には全国のさまざまな学校から数千人の学生が集まった。六歩進むごとに一回跪くという方法で、楽生院のために声を上げた。
現代の青年運動のもう一つの特色は、組織力が弱く、強いリーダーがいないという点だ。
李丁讃によると、1970年代の党外運動でも、80年代の社会運動黄金の十年でも、あるいは90年代初期の野百合運動においても、かつての社会運動家たちは幼い頃から権威主義的な環境で育ってきた。家庭では父親、学校では教師の権威が絶大で、社会においては国家メカニズムがすべてを制圧していた。彼らは、これらに反抗しつつもその影響を抜け出すことができず、社会運動の組織は上下関係が明確で、指導者の個人的意見が権威を持っていた。違う意見を持つ人がいても、しばしば有効なコミュニケーションができず、組織内部でいわゆる「路線」や「派閥」の争いが起きていたのである。
しかし、1970年代後半以降に生まれた若い世代はそうではない。彼らの多くは、子供の意見を尊重する核家族の中で育ち、社会環境も比較的開放的で自由になっていた。だが、民主化初期の現実はブルー陣営とグリーン陣営の悪質な競争が続き、それまで憧れの対象だった社会運動の先輩たちも、体制内に入って権力を握ると次々と腐敗していき、逮捕され有罪判決を受けた者も少なくない。
こうした状況も若者たちの社会運動のスタイルに影響を及ぼしている。彼らは、シェアとコミュニケーションを楽しみ、メンバーひとりひとりの意見を尊重するが、責任のレベルを明確にした組織を持たず、全体の上に立って活動の指揮を執ろうとする人もいない。
その最も顕著な例は、5年にわたって楽生院保存運動を続けてきた「青年楽生連盟」だ。この組織のメンバーは、当初は各地の医学部の学生が中心で、台湾の公衆衛生史への関心からスタートした活動だが、その後は人文社会学科の学生も多数加わり、活動の視点は遺跡保存、強制移転反対、医療人権などへと拡大していった。
青年楽生連盟のメンバーで東呉大学社会学科に通う王顥;中は、同組織は「個人的な感情に包まれた団体」だと言う。多くのメンバーは楽生院の環境や、そこに暮らす人々が好きになって楽生院に関するテーマに触れるようになった。こうした個人的な感情に支えられた組織は、当然のことながら、従来の社会運動のような明確な組織構造を持ちにくい。
王顥;中の話によると、組織の構造が明確でないことのメリットは、誰かが抜けても運営に支障が出ないことだと言う。動員のための連絡やプレスリリース執筆、プレス発表などが誰にでも出来るようになり、ほとんどのメンバーが全体の状況を把握することができる。
デメリットは、表面的には全員が平等のように見えつつ、実際には権力関係が存在するという点だ。例えば、仲間の多い人や参加した時期が早いメンバーは活動の方向決定に比較的大きな影響力を持つ。だが、こうして実際に権力を握る人も「肩書」を持たないため決定に責任を負う必要がなく、権限と責任が明確ではないことが時には組織の内部衝突を招く。
組織上の欠点はあっても学生にとっては馴染みやすく自由な形ではある。そのため青年楽生連盟はメンバーの出入りはあっても、常に新しいメンバーが加わっている。運動は当局の強硬な態度に直面し、マスコミはその先行きを危ぶんだが、組織らしい組織のないこの団体は倒れることはなく、負けても負けても戦い続けてきた。この点については、学生運動や社会運動の先輩たちも称賛しており、近年の青年社会運動の中でも最も注目される存在となっている。

2009年12月の県知事・市長選挙の前、花蓮の学生たちが台北を訪れ、汚職を厳しく律する馬英九総統の面をつけ、県外で生活している花蓮県出身者に、帰郷して投票し、刑事裁判で係争中の傅崑萁候補以外の候補者に投票するよう呼びかけた。
目標が明確でない
組織構造が明確でないことの他に、以前の社会運動と比べると現代の青年は理論を構築してそれを伝えるという力が弱い。そのため運動の目標と行動戦略の設定が難しく、「闘いながら進める」という受け身の対応策しか立てられない。
陳信行によると、以前は大学内の刊行物発行や体制に異議を唱える活動が盛んだった。これらに関心を寄せる若者は、誰もが文章力があり、スローガンや活動内容を考えるのに長けていて、さまざまな団体の集会の場で議論する習慣があり、誰もが左派理論や民主思潮を滔々と論じることができた。
だが90年代以降、政治的な制圧が緩和され、これらの大理論は瓦解した。さらにネットの発達によって情報が広く急速に得られるようになり、学内の刊行物や読書会、あるいは体制に異議を唱える団体などはしだいに廃れていき、BBSやブログがそれらに取って代わった。若者は自分の理念を発表する場に事欠かない分、社会運動に当たってはかえって構造の整った理論体系を構築しにくく、運動の先験的な目標を設定する習慣もなくなった。
例えば野イチゴ運動の際、学生たちの間では「いつ進み、いつ退くか」という行動戦略をめぐって意見が大きく分かれた。陳信行がかつて参加した野百合運動の場合は、学生を動員して広場での座り込みを開始する時点で、リーダーたちが運動を終結させる方法を用意していたのとは大きく異なる。
また、青年楽生連盟のメンバーの中には、ここ数年行動目標を野イチゴ運動や同性愛者の人権、あるいは文化的テーマや強制移転反対などに移している人もいる。「しかし、彼らはこれらのテーマがどうつながっているのか説明できず『先輩や仲間に誘われて』といったつながりだけで動いています。これは社会運動全体にとっては有利なことではありません」と陳信行は指摘する。

高齢のハンセン病元患者が強制移転させられ、悲しい歴史が忘れ去られてはならないと、青年楽生連盟は5年来奮闘してきた。彼らの関心のレベルはより深くなっている。
運動の組織が緩み、理論構築力が低下したのは時代の変化が原因だ。一方、社会全体の是非を問う声や、革命の雰囲気はすでに過去のものとなり、若い世代は社会正義に関心を寄せると同時に、その理念と自分のキャリアプランを結び付けるようになり、自己犠牲を求める悲劇的な路線を歩むことはなくなった。そうした中で「蘇花糕;餅鋪」サイトの中心的存在である李佳達は「公」と「私」のバランスを上手にとっている。
台湾大学法学部と交通大学科学技術法律大学院を出た李佳達は、2008年にハーバード大学ロースクールの東アジア法プロジェクトに招かれ、3ヶ月にわたって客員研究員を務めた。彼は同プロジェクトにおいて最年少(当時26歳)で学歴が最も低い(当時は修士課程に在学中)の研究員だった。
李佳達はさまざまな国際会議にも招かれている。2008年には国連気候変動枠組条約第14回締約国会議に台湾の環境NGO代表として参加し、2006年にはケニアで開かれた世界青年雇用サミットのサステナビリティ分科会のメンバーに選ばれた。現在彼は海岸巡防署に服役中だが、マサチューセッツ工科大学のメディアラボに認められ、インテリジェント都市研究グループの一員に選ばれた。今後は世界中から集まった優秀な研究者とともに、都市に最もふさわしい電動自転車を開発し、量産することになる。
特に外国語が堪能なわけでも、学校での成績が突出していたわけでもない李佳達が、なぜこれほど多くの国際組織や研究機関から注目されるのだろう。それは、彼が環境保護運動において傑出した業績を上げてきたからだ。
高く評価されている「蘇花糕;餅鋪」の他に、彼は台湾大学の自然保育クラブの仲間とともに、烏来水源地の道路開発案の廃止に成功した。また台湾大学や政治大学、交通大学などの各分野の大学院生20余名とともに、環境保護署が1998年以降に出した「環境アセスメント説明書」349冊(積み上げると3階建ての高さになる)を精読し、「現行の環境アセスメント制度は開発プロジェクトを承認するだけの存在と化している」とするレポートを提出した。これは環境保護署に多大な圧力をかけ、大きな影響力を発揮することとなった。
「以前、多くの人は学生が社会運動に参加すれば学業や前途に影響すると考えましたが、私たちの世代にとっては、公共の問題に関わることは『最も価値のある』学習であり、自分のためにかけがえのない資源とエネルギーを蓄積することになるのです」と李佳達は言う。
人目につかない場所で、公共問題に対する若者たちの関心は受け継がれている。その動機や態度、組織、実行方法や方向は変わったが、若者の情熱と正義感、そして利害を越えた献身の精神は変わらない。
「変ったのは時代で、若者は変わっていません」と台湾の青年社会運動を観察してきた呉叡人は言う。時代がどう変わろうとも、功利主義に汚されていない若い血は、永遠に台湾社会を向上させる最も重要な原動力なのである。

蘇花高速道路建設反対運動のサイト「蘇花糕餅鋪」は、台湾東海岸の美しい風景写真を用いて人々の注意をひきつける。

野百合学生運動から20年、当時の盛況を振り返ると感慨深いものがある。

行政院の正門前に座り込んでいた野イチゴ運動の学生たちは、警察に強制的に退去させられ、仕方なく自由広場へ場所を移したが、これが本格的な学生運動の開幕となった。

蘇花高速道路建設反対運動のサイト「蘇花糕餅鋪」は、台湾東海岸の美しい風景写真を用いて人々の注意をひきつける。

中正記念堂の広場に咲いた野百合のトーテム。

若者は常に弱者の側に立ち続ける。写真は12月中旬、外国人移住労働者の休暇権を求めて行なった「移住労働者デモ行進」の様子。

蘇花高速道路建設反対運動のサイト「蘇花糕餅鋪」は、台湾東海岸の美しい風景写真を用いて人々の注意をひきつける。

野百合学生運動の時に巨大な台湾ユリのトーテムが出現したように、野イチゴ学生運動にも風船のイチゴが飾られた。写真は2008年11月15日に全国各地で同時に行なわれた野イチゴ学生運動の様子。

2009年12月に行なわれた、地球温暖化対策を訴える「エネルギー税賛成」行動では、若い学生がホッキョクグマとペンギンに扮して声援を送った。
