教育のもたらす機会
中学設立の翌年、全台湾を震撼させた二二八事件が起こり、鳳林でも張七郎、張宗仁、張果仁の親子3人が投獄され殺害された。医療と民衆の福祉向上に生涯を捧げた張七郎の無実の罪は未だ晴らされていないが、彼の撒いた教育の種はみごとに実を結んでいる。
「父の考えはいたって単純でした。知識は力となる。だから貧しい人に機会を与えるには、教育を与えることだと」今年の二二八記念日、張家の太古巣農園の傍らにある張七郎親子の墓前で、当家の嫁に当たる張玉嬋さんは、舅への思慕の念をゆっくりと語った。「私は幼い頃、張家の息子の嫁にするために貧しい実家からもらわれてきたんですが、舅はそんな私を見下したりせず平等に扱ってくれ、そればかりか台東女子中学へやらせてくれました」
貴重な教育資源を生かそうと、鳳林の子供はよく勉強し、晴耕雨読が伝統となった。裕福な家の子は花蓮高校や花蓮女子高で学んだ後、台湾西部の大学へと進むのが一般的で、一方、家計に限りのある家の子の第一志望は、農繁期には農務もできる師範学院だった。「私たちも皆、第一志望は5年制の花蓮師範でした」と、4人の元校長は口をそろえる。
1950年頃は、中学を卒業した多くの子供が花蓮師範を受験し、卒業後、故郷に戻って教職に就いた。頼東明さんがまとめた「校長たちの故郷」という一文を見ると、1947年の花蓮簡易師範第一回卒業生を皮切りに、花蓮師範卒業生名簿には毎年、鳳林の子供の名が多く見られ、ある年などはクラス40名のうち半数に該当するという多さだった。では、鳳林出身者に校長になる人が多いのはなぜなのだろう。
経験の伝承
「それは、鳳林出身者は先輩後輩がよく協力したこと、利己的な者がなかったことによります」頼東明さんによれば、昔は学校の教導主任や総務主任は、校長が自分の気に入った者を選んでいた。そのため、上におもねることの苦手な教師は損をすることが多かった。しかし、1964年に制度は大きく改変し、主任クラスになるには省政府教育庁の試験に合格して訓練を受ける必要があることになった。この新制度は、自分の実力で昇進しようという教師たちにとって大きな励みとなった。そして訓練をすませた主任が後輩をよく導き、同郷の者が主任、校長へと進むのを助けるようになったのである。
「あの時、受験しろと廖高仁さんが私の尻を叩き、合格のコツを伝授し、しかも自分の表彰記録を私に譲ってくれたのでなければ、私はこんなに早く校長になれていなかったでしょう」と、白髪の戴国健さんは感慨深げだ。「協力したからだけではありません。客家の校長のこつこつと誠実に任務をこなす態度は、教師間で認められていたこともありました」
「昨日の是は今日の非などと言いますが、それでも孔子の思想は不滅です」と言う陳仁聡さんは、全国で唯一校内に孔子廟のあった鳳林小学校に勤務していた当時を思い出す。「鳳林教育界の祖」と呼ばれる戴文鑑校長直筆の碑文を校内で目にした時は、教育者として責任の重大さに身の引き締まる思いがしたものだった。
鳳林の校長たちは教師に厳しさを求め、「何よりも勉学を重んじる」という気風がこの地では守られてきた。ビリヤードやマージャン、ギャンブルをすることは教師も生徒も許されず、ネットカフェですら鳳林では昨年初めて出現したほどだ。これを「少し古くさい」と感じる人もいるかもしれない。だが、いずれにせよこの厳格な気風は代々受け継がれ、今や鳳林の文化的特質となっていることには変わりない。
気風の伝承
「鳳林は小学校校長を少々出し過ぎです」と4人の元校長は自嘲気味に言う。教師から主任へ、そして校長へとなる人が多過ぎて地元にはポストがなくなり、やがて鳳林は校長を他地域へ「輸出」するようになったほどだ。空中大学(通信制大学)学務長の沈中元さんは、かつて花蓮県文化局長を務めていたが、2003年の統計で「花蓮県全体で小学校は140校しかないのに、この小さな農村は校長を86名も輩出しており、台湾で最も小学校校長密度の高い所だ」ということがわかり、花蓮県政府も驚いたという。それ以来、鳳林は「校長の里」として有名になり、その数字も今や104名にまで増えた。
沈中元さん自身も、中学の時の校長先生が「故郷を離れて外の世界を見ないと視野は広がらない」と言った言葉に従い、師範大学付属中学から台湾大学へと自分の世界を広げてきた。「小学校校長がそれほど偉大なのかと言う人もいるかもしれませんが、やはり基礎教育は大切で、国の将来に関わります。だからこそ地方では高い地位を得ているのです。それに鳳林のような辺鄙な村では、勉学こそが貧しさから脱し、向上する原動力となるのです。だからこの優れた伝統は受け継がれていくべきです」
「過疎の深刻な鳳林で、『校長夢工廠』の設立は、村に残る8000名余りの住民にとって希望となります」と、「校長夢工廠」の発案者である沈中元さんは、この文化館建設への思いを語る。
校長夢工廠は日本統治時代の鳳林支庁官邸を改装し、2004年に完成された。ほかの自治体では文化館を建設しても管理が悪く、活用せずに放置されたままという話をよく聞くが、この校長夢工廠はそうはなっていない。元校長たちが思いを込めて維持しているおかげだ。だが、もちろん資金や資源などの問題はある。
「我々は、張七郎先生の『教育こそが機会を与える』という理念を伝えていかなければなりません。鎮役場に企画書を提出して経費を求めたりしていますし、休まず働いてくれるボランティアたちが何よりの後ろ盾です」廖高仁さんは4時間のインタビューを終え、電話の向こうから、ゆっくりと客家語でこう言った。「これは我々の大切な文化館なのです」と。
校長夢工廠の外に立つ敬字亭(昔、字を書いた紙を燃やすのに用いた炉)から煙が立ち昇ることは今やほとんどない。だが、学を重んじる町の気風は、校長の物語とともに今後も長く受け継がれていくことだろう。