茶の里の前世
平日に坪林老街に足を踏み入れると、ゆったりとした時間がが流れている。通りは長くはなく、どの家も店を開いているわけではない。「坪林老街に生活感があるのは、観光客に頼っておらず、茶葉を専門に扱い、B2Bに近い形式で経営しているからです」と話すのは地域の雑誌『走水』を編集する鍾振紘さんだ。
2022年創刊の『走水』は坪林の若い世代の視点で編集した地域の雑誌で、編集チームは地域の高齢者にインタビューし、史料を探し、産業や信仰、教育、生態などの面からこの小さな町の歴史を紹介している。
鍾振紘さんは「この集落の歴史は長くはなく、200年ほどです」と言う。漢人による開拓史という角度から見ると、先人たちは沿海地域から開墾を始め、平地の資源を開発し終えてから山地へと進んでいった。こうした流れで、淡水と宜蘭を結ぶ淡蘭古道は北・中・南の三つのルートに分かれており、坪林は南路の重要な中継地となった。「坪林では今でも初期の開墾の様子を目にすることができ、手掛かりも残っています」と『走水』編集長の詹培昕さんは言う。
先人は山林資源に頼って暮らし、稲を植え、クスノキを伐採し、木材を切り出した。古い町並みには北勢渓の石を積み上げて建てた家屋がある。冬は暖かく夏は涼しく、昔の暮らしが偲ばれる。記録によると、坪林はかつて北部最大の樟脳の生産地で、鍾振紘さんによると、保坪宮の2階に祀られている玄天上帝の香炉は、クスノキのこぶで作られた非常に珍しいものだという。
丘陵地帯は茶葉の生産に適しているが、かつて坪林の生産量は限られていた。清の時代、茶農家は、茶葉を山を越えて深坑まで運び、そこから水路を経て大稲埕まで運搬しなければならなかった。日本統治時代になると台北と宜蘭を結ぶ北蘭公路の雛形ができ、ここを通って新店まで運べば、大稲埕に運搬するトロッコがあった。
この古い町並みは、坪林の重要な交易の中心地でもあった。鍾振紘さんによると、坪林の集落は広い地域に分散しており、老街は平たんな地域にあるため、近隣の村落からもここに人が集まってきて交易が行なわれた。山地の茶農家も茶葉を老街まで運んできて卸売商に売ったのである。
その後、北宜公路沿いの地域は台北と宜蘭を往来する観光客を対象にした商売が中心になり、後に雪山トンネルが開通すると、この地域は打撃を受けた。しかし、坪林の老街は常にここに静かに存在し続け、特別ににぎわうこともなく、ローカルな生活感を守り続けてきたのである。