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19世紀末から20世紀の半ばまで、台湾は「樟脳王国」と呼ばれていた。当時、世界の樟脳(しょうのう)の7割は台湾から輸出され、無縁火薬や映画フィルム用のセルロイドの原料として使われていた。その後、他の原料が樟脳に取って代わったことでその輸出は衰退したが、樟脳採集のために敷設された鉄道は今も残っている。
新竹の内湾線は、樟脳産業の最盛期が終わってから敷かれた日本統治時代の軽便鉄道だが、その駅は当時の樟脳精製場の近くに置かれた。そして内湾線の沿線に暮らす客家の人々は、かつて栄えた樟脳産業の主要な労働力であった。内湾線の沿線では客家の暮らしに触れられ、また周囲の山に入ることもでき、時代とともに変化する産業の様子を理解できる。
日本統治時代、内湾線は新竹から竹東までの敷設が始まったが、第二次世界大戦のために工事は停止した。国民政府の時代になって、山地の石炭やセメント、木材などの原料を確保するために鉄道の敷設が再開され、竹東支線が完成した他、路線は内湾まで延長されて1951年に全線が開通し、ここから沿線の発展が始まった。しかし1980年代以降は環境保護意識の高まりでエネルギーを消耗する石炭採掘とセメント産業は衰退し、内湾線は観光目的へと転換していった。現在沿線では客家料理が楽しめ、付近の古道を歩いて開拓時代に思いを馳せることができる。

「大山北月」は地元のさまざまな食材を用いた料理を提供している。最近は「ミカン風味輪」を打ち出し、大山背の多様なミカン類を紹介する予定だ。
客家伯公の御加護
内湾線の竹東駅から横山駅まで行くと、車窓の風景は市街地から霧に包まれた山地へと変わり、1980年代の産業の一大拠点へと入る。
「内湾線が運んだ貨物の変化は、台湾産業史の変遷を象徴しています」と話すのは、青年創生基地横山喜事プロジェクトマネージャーの陳致中だ。内湾線が完成する以前のこの地域の主要産業は、最少の樟脳と茶葉から始まり、続いて林業、炭鉱、セメント、そして現在は観光産業へと変ってきた。「多くの観光客は内湾駅付近の古い町並みを訪れますが、横山駅では客家の人々の実際の暮らしに触れることができます」と陳致中は説明する。内湾線は横山郷全体を通るが、観光客が集まるのは内湾村で、横山村には地元の人々のための生活機能が揃っている。
横山駅で下車し、駅前通りを行くと「八卦巷」がある。開拓時代、客家の先人たちは土地をめぐって原住民族と争っていたため、この集落の家屋は八卦の配置図のよう建てられた。これによって侵入した外敵は方向が分からなくなり、出ていけなくなるのである。「八卦巷の中では、門に貼られた番地は奇数と偶数が同じ側にあるので、新しい郵便配達員は、ベテランの人に幾度も同行してもらわないと、届けたい家にたどり着けないのです」と陳致中は笑う。
八卦巷から遠くを望むと一つの山が見える。「竹東からこの方向を望むと、大きな山の背後に南北に走る山脈が横たわっているので、客家の先人たちはこの地域を『横山』と呼ぶようになりました」と陳致中は言う。彼は遠からぬ山を指差し、先人は山の中腹に隘寮という小屋を建て、原住民族が山を下りて攻撃してくるのを見たら、狼煙を上げて麓に伝えていたという。現在の横山小学校の横には樹齢300年のクスノキがあるが、ここが狼煙を見るための絶好の場所だった。かつては子供たちが木に登り、山からの警報を見ていたのである。この木と客家の土地神様である「伯公廟」が結びつき、「伯公樹」とも呼ばれる。
横山村にはさまざまな「伯公廟」がある。田んぼの傍らには三つの石を簡単に積んだだけの「田頭伯公」廟があり、池の傍らには壺のような形の門がある「放牛伯公」廟がある。昔の人が牛の放牧中に休憩したくなると、牛を池の傍らにつないで伯公に牛を見張ってもらいながら休んだことからこの名がついたという。牛がいなくなった時は、放牛伯公に祈りを捧げると、まもなく見つけることができたそうだ。そのため、住民たちは今でも放牛伯公に手を合わせる。
伯公は1950~80年代には炭鉱でも信仰されていた。「客家の先人は、山林は伯公が見守っていると考えていたため、鉱山でも大切にされていたのです」と話すのは客家伝播基金会董事長の陳板だ。彼は以前、国家文芸フェスティバルの「内湾線の物語」のためにフィールドワークを行なった時、客家人の冒険の精神が印象に残ったという。「当時、炭坑の前には一人ひとりの名札がかかっていて、中に入る時に名札を持っていき、出てくると名札をもとに戻しました。これを見れば、無事に出てきたことがわかるのです」

横山村にある「放牛伯公廟」。壺のような形の門は平安を象徴している。
横山の自然資源と産業
横山駅の近くには、先人たちが物産や原料を運んだ古道が何本もあるので、ぜひ歩いてみてほしい。騎龍古道と南壺古道は客家の人々が樟脳を運んだ道だ。「彼らはクスノキを切り倒して薄い木片状にし、それを作業場で煮て成分を取り出し、さらに山道を歩いて拠点へ運んだのです」と現地の文化史研究者である繆美琴は言う。
騎龍古道の途中には楽善堂という廟があり、ここから山の景色を見渡すことができる。また、この古道を歩いていくと三つの糯米橋がある。これは先人が糯米(もち米)や黒糖、石灰などを利用して建てた橋だ。横山一帯の土は粘り気があり、1950年代からアジアセメント公司と台湾セメント公司がそれぞれ九讃頭と合興駅に工場を設けて採掘を始めた。セメント産業が衰退した今日も、横山村には陶磁器を作る工場が残っている。「大山背」地区には古い小学校を改造したレストラン「大山北月」があり、そこには陶芸家が住み込んで創作をしている。その息子は山のふもとの梨園小屋(現在は地域の青年の活動の場「歩居草」)にアトリエを開き、地元の高齢者や観光客に陶磁器づくりを教えている。
もうひとつの茶亭古道は、台3号線が開通するまでは天秤棒で茶葉を担いで運搬するための道だった。「茶葉の運搬員は午前2時半に出発して関西で朝食をとり、龍潭を通り、午前11時までに船に乗る必要がありました。午後2時前には台北の大稲埕に届けなければならなかったのです」と繆美琴は説明する。台湾の茶産業は1860年代に海外との通商が始まってから盛んになった。『淡水海関(税関)報告』によると、台湾の茶葉の輸出は1866年から1892年の間に100倍も成長し、主にアメリカやイギリス、東南アジアなど多数の国に輸出されていた。

秋の日、横山街一段から望む大山背の山々は黄金色に実った稲田に映えて美しい。
内湾の昔日の繁栄
内湾線に揺られて合興駅まで行くと、列車は上り坂に入る。「ここの坂の傾斜は1000分の25で、蒸気機関車の動力では登るのには不十分でした。そのため列車は山から平地まで荷物を運び下ろすと、もう一つの軌道に入ってから登り始めました。台湾でも珍しいスイッチバックの駅です」と陳板は説明する。今は動力が充分なため、直接上り坂に入ることができるが、今も当時の軌道と蒸気機関車時代の車両が合興駅に残され、観光客を楽しませている。
林業と鉱業が盛んだった内湾村には、当時は5000人以上の労働者が移り住み、その暮らしを支えるために映画館や診療所、酒場、理髪店などが次々とオープンした。「当時、最大の樟脳油メーカーだった『楠本製油廠』の経営者‧楊盛泉が町に映画館を建て、自分の誕生日には映画館を貸切って宴を催しました」と、再造美麗新内湾工作室の黄仕鈞はコレクションしている古い写真を指差しながら説明してくれた。
かつて内湾は普通の田舎町だったが、今はその古い町並みが観光地となっており、当時の面影はないが、古い建築物に歴史をうかがうことができる。内湾林業展示館は、台湾総督府専売局新竹支局内湾監督所だった建物を利用したもので、当時は樟脳油などを保管する倉庫だった。展示館の外にはかつて木材を輸送した道具が残されている。「以前、標高の低い山地からクスノキなどを搬出する際には『木馬』と呼ばれる木橇を用いていました。これは非常に危険な道具で、事故が起こると命を落とすこともあったため、当時は『唐山(中国大陸)には虎がいるが、台湾には木馬がある』と言われていました」と木業展示館の解説員は説明する。

都会からUターンしてきた陳宜偲は、客家の高齢の女性に「粄」(米粉で作った餅)の作り方を習って「晌午粄食」を開き、客家伝統の味を伝えている。
客家料理に見る奮闘の精神
内湾の古い町並みを歩くと、漬物や米粉で作った料理を扱う店が並んでいる。これらの客家伝統の食は、厳しい環境の中での先人たちの暮らしを今に伝えるものだ。「農家の人々は午後になると腹が減るので、『水粄』(米粉を水で溶いて加熱したもの。黒糖を加えて甘くしたり、漬物を載せたりする)を食べていました。水分も取れ、満腹感も得られたからです。閩南の人々が食べる『碗粿』は米粉の生地の中に具を入れますが、客家の水粄は具を上に載せます」と九讃頭に帰省して働く陳宜偲は言う。彼女は、新埔から九讃頭へ嫁いできた高齢の女性から、落花生を加えたものも作ると聞いたそうだ。
客家の人々は米粉で作った餅をよく食べる。水粄の他に、結婚のお祝いの「紅粄」(赤く色をつけた餅)や清明節に祖先にお供えする「艾草粄」(よもぎ餅)、冠婚葬祭や神様のお供えなどにする「斉粑」などが知られている。
客家の人々は食材を保存するために漬物もよく作る。スープに入れる「福菜」は、カラシナを塩揉みして水気を絞り、甕に入れて漬けた後、天日に干してから再びガラス瓶などで保存したものだ。漬ける期間が長くなると、同じ野菜でも異なる漬物になり、カラシナだけを見ても漬ける時間の違いによって雪裡紅(セリホン)、福菜、梅乾菜などがある。「カラシナの苦味が、塩漬けにすることで独特の香りへと変化するのです」と、横山へUターンして働く陳慕真は言う。彼女が幼かった頃は、どの家にも大きな甕と漬物石があったそうだ。お年寄りは甕に入って野菜を足で踏み、完全に空気を抜いてから大きな石を載せて漬けていたという。
「どの家も漬物を作っていて、家庭によって味が違うので、お互いに自家製の漬物を贈りあっていました」と陳慕真は言う。客家料理は思いやりや記憶を象徴するものだと彼女は考える。幼い頃、家族や親戚が集まる時には、年配の人が、脂ののった白斬鶏(蒸し鶏)を箸で取り、桔醤(柑橘類のソース)をつけて彼女の茶碗に入れてくれた。当時はその味には飽きていたが、社会に出てから、はじめてこれが客家独特の味だということを知ったのである。
客家の先人たちは懸命に働き、栄養を摂るために油っこく塩辛い料理を作ってご飯を食べた。梅干扣肉(高菜漬けと豚バラ肉の蒸し物)や姜絲炒大腸(千切り生姜とモツの炒め物)、鹹菜湯(漬物入りのスープ)、高麗菜乾排骨湯(切り干しキャベツ入りのスペアリブスープ)など、濃いめの味付けの肉料理が、客家の年配者にとっては懐かしい故郷の味なのである。だが陳慕真は、野菜料理でも客家の特色を出せると考え、さまざまな料理を開発して各種漬物を添えたベジタリアン弁当を生み出した。また、客家の漬物を取り入れたさまざまな料理も開発している。例えば福菜チーズ餅などは年配の人にも人気があるという。彼女は食を通して多くの人に客家文化とその背後にある温かい人情に触れてもらいたいと考えている。これこそ、内湾線の旅で得られるユニークな体験と言えるだろう。

カラシナの漬物を天日に干した梅乾菜は、客家料理に欠かせない食材だ。

都会からUターンしてきた陳慕真は「剛剛好。灶下」というブランドを立ち上げ、地元の食材を使って漬物と野菜料理の弁当を提供している。

油羅渓をまたぐ内湾吊り橋は、かつて南坪古道の重要な通過地点だった。


内湾の古い町並みには1950年に立てられた映画館があり、客家の食を扱う店舗が集まっている。
