霧裡薛&`支線などの古い用水路は、都会では得難い水生生物の生息地であり、涼しさを感じられる憩いの場でもある。
作家の舒国治は『水域台北』に、1970年代の台北では到るところに用水路や水田があったと書いている。「女性たちは、そこここにある小川の岸で洗濯をしていた。人々が歩く道の横には川や溝が流れ、少し行けば橋がある。門を開くたびに、側溝にかけられた板を渡る家もある」と。
その後、側溝や水路には蓋がかぶされ、都市開発が進んだが、台北で水に触れようとすれば、今もその痕跡をたどることができる。台東の伯朗大道まで行かずとも、台北市の関渡平原には見渡す限りの水田が広がっていて、風に揺れる緑の稲穂を眺めつつ、豊かな水文化と生態を鑑賞することができる。5月の端午節には洲美湿地でドラゴンボートレースも開催される。
台北市大安区温州街49巷には見落としてしまいそうな入り口がある。そこを入ると別世界のような木の橋があり、45巷へ出ることができる。地域住民と文化遺産保護に携わる人々の努力によって、300年前の台北初の灌漑用水路――霧裡薛圳支線の歴史の現場が再現されているのである。
用水路をゆっくりと泳ぐ亀を見ていると心がいやされる。運が良ければ、真っ黒なナマズの姿を目にすることもできる。
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屈原宮では端午節に盛大なドラゴンボートレースを開催する。
大都会に水域を探す
霧裡薛圳(用水路)は台北市の公館から温州街附近まで流れている。日本統治時代には九汴頭で9つの支流に分かれ、現在温州街45巷を流れているのは第二霧裡薛支線である。
水文研究を始めて20余年になる社区大学(コミュニティカレッジ)環境学コース講師の梁蔭民さんが、ひとつの集合住宅を指差して「あの建物は曲がっていますね。そこには水域の秘密が隠されていますよ」と言う。
その話によると、この建物は当初は用水路に沿って建てられたため不規則な形をしているのだとという。台北市内には三角形の街屋や、通りが斜めに交差しているところがあるが、それらも川沿いに造られたことを示している。例えば台北市の安和路は仁愛路を跨いで忠孝東路と敦化南路を斜めにつないでいるが、これも安和路がかつては「大湾」という河川だったからだ。清の時代に建てられた芳蘭大厝や義芳居などの古跡がある芳蘭路も曲がりくねりながら台北市民族中学校まで続いており、この道はかつての瑠公圳である。
台湾大学水工試験所から50メートルのところにある用水路は、瑠公圳が最もよく保存されている大安支線で、小椰林道を経て辛亥路を跨ぎ、和平東路二段の96巷、175巷に沿って瑞安街71巷まで続いている。
まさに舒国治が『水域台北』に「台北で道が曲がりくねり、路地の中に路地あるようなところは、すべてかつての川や水路によって形成されたものだ」と書いている通りなのである。
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都市を流れる水の記憶
台北のランドスケープが変化する中で、今も昔の水域の痕跡が残っている。梁蔭民さんによると、台湾大学の酔月湖はかつては灌漑用の池で、台北平野に残された最後の天然の湖沼だという。南海学園の荷花池や栄星花園のホタル保護地も昔は灌漑用の溜め池だった。
梁蔭民さんは、さまざまな校歌からも、昔の台北の水域を想像できると言う。国立台北教育大学付設実験小学校の校歌は、「遠山蒼蒼、緑水泱泱」と始まる。100年以上前の学校創立当時の風景が歌われている。当時、学校の左右には用水路が流れ、周囲には水田が広がっていた。そして教室から遠くを望めば、七星山と大屯山が見えたのである。
台北市三興小学校の校歌には「瑠公圳、水泱泱」とある。新北市の周錫瑋・元市長は、三興小学校に学んでいたころ、学校の横の用水路で水遊びをしたが、その後の都市開発で水路には蓋がされ、校歌も変わったと語っている。
梁蔭民さんが教える「穿城之水(都市を貫く水)」という校外授業では、学生たちを率いて台北市の隠れた水路を訪れる。「新生南路に沿って下っていくと基隆河に着き、合流地点を上ると忠孝東路にも川があり、それをさかのぼると六張犂に到達します」
いささか想像力が求められるルートだが、1904年の『台北堡図』や中央研究院の『台湾百年歴史地図』と照らし合わせると、まさに百年前の台北の水域であることがわかる。梁蔭民さんによれば、韓国の清渓川や日本の瀬戸川の計画のように、社会の変革を促して河川の蓋を開けることができれば、台湾大学の酔月湖から六張犂までカヤックで行くことも可能になる。
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大員水文化復興協会は水文化の保存と復興に力を注いでいる。写真左から同協会の梁蔭民理事長、邱清文総幹事、郭麗雪理事。
市民の社会参画
昔の川や用水路を復活させるには、市民による提唱とコミュニティの参加が不可欠だ。
温州街45巷の霧裡薛圳支線も「この水路が示す意義は、市民の参画です」と梁蔭民さんは言う。その話によると、地元の大学里の里長(「里」は台湾の最も小さな行政区画。区の下に位置する。里長は選挙で選ばれる)である呉沛璇さんは、里民による「霧裡薛圳支線」アドプトと緑化活動を推進したことで、ここは地元小学校の野外環境教育の場となったと言う。さらに地域の文化遺産保護活動と手を組んで殷海光旧宅や臺静農旧宅などの日本統治時代の建物に温州街の文化的なカフェや書店を結び付けることで、台北市文化探索の人気コースとなったのである。
殷海光旧宅と大院子文化遺産保存運動に参加してきた台北市大員水文化復興協会の郭麗雪・理事はこう話す。2012年、彼女は大安社区大学で梁蔭民さんが開く「恋恋圳道」カリキュラムに参加し、有志とともに「大員水文化復興クラブ」を発足させた。後の2024年には台北市に大員水文化復興協会として登録し、水環境への関心を大安区から台北市全体へと広げている。
温州街の霧裡薛圳支線が流れる場所も都市開発計画が進んでいる。郭麗雪さんによると、大員水文化復興協会がこの用水路の文化遺産登録を申請したところ、デベロッパーも調査を経て善意を示し、建物の向きを変えることに同意してくれた。そして霧裡薛圳の一部を緑地として開放することになり、台北の歴史上の用水路が保存されることになったのである。
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五分港渓の豊かな水文化
台北市で最も豊かな水文化と生態に触れられる河川として、梁蔭民さんは五分港渓とも呼ばれる旧双渓を挙げる。
「五分港渓は今も自然の河道をとどめています」と言う。ここで言う自然の河道というのは、コンクリートの護岸施設がない河道という意味で、特別な生態と水文化が残されている。例えば、ここでは野生の台湾原生種、サガリバナ科の穗花棋盤脚(Barringtonia racemosa)が自生している。
「水茄苳」や「夜間煙火」などとも呼ばれる穗花棋盤脚は、かつて絶滅が危惧されたことがあり、台湾各地で栽培による保存に成功したという事例が伝わっていたが、五分港渓のものは野生の穗花棋盤脚で、水に漂って繁殖する植物であるため、台北の湿地時代を証明する存在でもある。
五分港渓は洲美湿地を通っており、自然の河道や水田、灌漑用水路、池などの水文景観をとどめている。地域住民に親しまれていることから、独特の文化的景観が形成されている。梁蔭民さんによると、地元の人々は土溝の傍らに経済作物を植えている。例えばマコモダケの根は水の流れによる土溝の浸食を防ぐ働きをするため、200年にわたって土溝が守られてきた。これも人と大自然の関係から生まれた知恵と言える。
五分港渓には独特の水神信仰もある。北投区洲美里にある洲美屈原宮は、台湾で唯一、主神として戦国時代の愛国詩人・屈原を祀っている。端午節になると、屈原宮ではカーニバルのような雰囲気でドラゴンボートレースを開催する。
香港出身の梁蔭民さんは、華人の住むところでは必ずドラゴンボートレースが行われていると言う。地域によってボートの大きさは違い、一般に台湾のドラゴンボートの漕ぎ手は18人だが、この屈原宮のレースでは22人の漕ぎ手が乗る。これは地域の誇りから来るものではないかと梁蔭民さんは見ている。「台湾最大のドラゴンボートは洲美にある。気勢で余所に負けるわけにはいかない」という気持ちがあるのだろう。
だが、洲美地域は陸地なのに、なぜ水の神を信仰するのかと疑問に思う人もいるだろう。かつて現地でフィールドワークをしたことのある梁蔭民さんによると、先人たちがこの地を開拓した頃は河川が縦横に流れていたはずだと言う。年配の住民の多くは、40~50年前まで家には小さな船があったと言っており、水辺に暮らしていたことがうかがえる。また、五分港渓のコイは基隆河のものより大きかったと話す人もいるそうだ。
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台湾大学の酔月湖の豊かな生態。
大いなる河川に親しむ
台北の最も古い地図と言えば、1654年にオランダ人が作成した『淡水とその付近の村および鶏籠(基隆)島略図』がある。梁蔭民さんによると、古地図の縮尺は精確ではないが、台北一帯の重要な河川はすべて描き込まれている。オランダがスペインから奪い取った和平島の他に、淡水河の河口から、基隆河、新店渓や大漢渓の流域まで見ることができる。
かつて経済発展が何よりも重視された時代には、人々はこれら台北一帯の主要河川を裏庭のように扱い、ゴミが投げ捨てられ、工業汚染によって一夜にして川の色が変わることもあった。その後、この30年にわたる政府の努力によって、大漢渓、新店渓、基隆河と、この三大支流が流れ込む淡水河の水質は日々改善されてきた。
ゴミの埋め立て地は河川敷公園に変わり、大漢渓には8ヶ所の人工湿地が設けられて豊かな自然が見られるようになった。河岸にはバスケットボールコートやソフトボール場、散歩道やサイクリングコースが設けられた。淡水河と基隆河の合流地点に位置する関渡や竹囲などの砂州は、台湾北部では重要な水鳥やマングローブ林の保護区となっている。
「私たちは200年の洪水率という視点から河川を管理してきたため、堤防はどんどん高くなり、人と河川の往来をさえぎってしまったのです」と梁蔭民さんは言う。その後、堤防の美化や堤防をまたぐ橋の設置などによって、人々が河川に親しめる景観を整備し、レジャー施設が設けられるようになってきた。
著名な建築家ザハ・ハディッド氏が設計した「淡江大橋」のデザインのインスピレーションは、台湾のコンテンポラリーダンスカンパニー、雲門舞集(クラウドゲート)のダンサーの姿から来ているという。2026年初の竣工予定で、単主塔で非対称の斜張橋としては450メートルの世界最長の橋となり、淡水河口の広大な景観が美しく彩られることとなる。
梁蔭民さんがハイキングや冒険が好きな人に薦めるのは基隆河沿いのポットホール(甌穴)群の景観だ。基隆河の上流は雨が多く、速い流れが上流から砂礫を押し流してくるため、川下の河床が浸食されて大小さまざまな孔が開いたものがポットホールである。
中でも最も顕著なポットホール群は暖暖、猴硐、四広潭、大華の4か所にある。これらは水の浸食を受けてできた地形で、広い範囲にさまざまな形の穴が数えきれないほどあり、世界的にも珍しい景観と言える。
台北市中心街の隠れた水域を訪れるのもいいし、大漢渓や新店渓の堤防を自転車で走ったり、そこから夕日を眺めたりするのもよい。あるいは悠遊カードで遊覧船に乗って淡水河をクルーズするのも、五分港渓でドラゴンボートを漕ぐのもいいだろう。河川は都市のヒートアイランド現象を緩和し、レジャーの場を提供してくれ、生物の重要な生息地でもある。台北の水域は記憶の中だけのものではなく、暮らしの中で親しめる存在なのである。
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台湾大学の酔月湖は、昔は灌漑用の池だった。
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洲美湿地には台北最後の自然の河道が残されている。
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大都会台北にも見渡す限りの田んぼが残っている。
新北市新店には250年以上前の引水トンネルが残っていて、現在は開天宮が管理している。(梁蔭民提供)
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大員水文化復興協会は、霧裡薛圳支線で外来種を取り除く在来種保護ワークショップを開いている。楽しくて役に立つ活動だ。(梁蔭民提供)
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淡水河の河岸は台北市民が散歩やサイクリングを楽しむレジャー空間となっている。
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淡水河湿地はマングローブ林の豊かな生態を育んでいる。
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泥の上を行き交うトビハゼ。
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淡水河の流域ではレジャーや美食、スポーツなどさまざまな活動を楽しめる。
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五分港渓には水神信仰が残っている。台湾唯一の屈原宮は北投区の洲美里にある。