台湾中部の彰化県にある永楽地域は、彰化県の農村地域における村おこしの模範とされてきた。1997年にコミュニティ発展協会が設立されてから、全国規模の町おこしコンクールで、環境保護活動やウェブサイトの作成、文化活動や景観の保護活動、個人の功労などさまざまな賞を受賞してきた。また、この地域は文化建設委員会によって、台湾大地震再建地域の「パートナーコミュニティ」に選ばれている。
彰化県埔塩郷にある永楽は、過疎化が深刻な状況になってきている地域だ。現在、住民登録されているのは1100人近くだが、実際にここに定住しているのは600〜700人にすぎず、しかもその5分の3は高齢者なのである。しかし永楽地域の人々は、たゆまぬ努力によって、長い歴史を持つこの土地に若者のような活力を生み出した。特に地元の65歳以上を中心とするボランティアの人々は、「不老の英雄」と呼ばれている。彼らは、伝統的な閩南(福建省南部一帯)の農村の助け合い精神を実践するだけでなく、自分の人生においても、二度目の「青春」を過ごしているのである。
台湾中部の農村の町づくりと言えば、永楽地域の名が常に真っ先に挙げられる。永楽という土地の新しさと古さの入り混じった景観と、正しい町づくりの観念がその名を知られている理由である。だが永楽最大の特徴は、やはり地元の人々がこの土地に注ぐ強い愛情なのではないだろうか。
5月末、台湾中部の果てしなく続く平原では、午前10時にもなると、強い日差しが容赦なく降り注ぐ。だが「不老英雄団」と呼ばれる永楽地区のお年寄りによるボランティアチームは、すでに地域全体の掃除を一通り終えていた。
トラックは、むしりとられた公園の雑草を集めて行ったが、「不老の英雄」たちは、まだ近くの花壇あたりに残っていた。彼らは片づけをしながら、どの家では農薬を撒いたとか、いつ刈り取りができるかなど、のんびりとおしゃべりを楽しんでいた。世間話は一向に終わりそうにない。それはまるで、一生この地域に住み、同じことを繰り返しながら、どんどんこの土地が好きになっていくという彼らの生き方そのもののようだったのである。
やっと誰かが声をかけると、人々は「草地学堂」という活動センターに移動した。そこで、炊き出し担当のボランティアが昼ごはんに芋頭飯(イモの入った炊き込みご飯)を持ってきてくれるのを待つことにしたのである。彼らは食事の前に、もぎたてのトマトで渇きを癒していた。この時には、若者たちに赤過ぎるトマトは「熟し過ぎ」で、あまりおいしくないのだと教えることも忘れない。「実がしっかりしていて、ツルが鮮やかな緑のトマトが、みずみずしくて甘いのですよ」と老人たちは言う。

にんにく、ガチョウ、カリフラワー、スイカ、農村の自給自足の生活は喜びに満ちている。
「『不老英雄団』の活動はとても多くて、1ヵ月に1日は定期的な活動として、『環境保護の日』を設けています。他の地方から見学に来る人がいる時も、事前に地域の掃除などをしておきます。ですから、1ヵ月に大体5〜6回は、なんらかの活動をしていることになります」永楽地域発展協会の陳清渓理事長は、強い日差しの下、目を細めながらこう説明してくれた。ボランティアの活動は、完全に村の生活のリズムに合わせたものとなっている。朝6時、夜が明けきると、もう仕事が始まり、日差しが強くなり、ひどい暑さになる10時頃には、仕事を終わりにする。夕方再び涼しくなりだすと、今度は文化的な講座やフォークダンス、ゲートボール、ダンスの練習など、さまざまな他の活動が始まるのである。
この地方のお年寄りたちのほとんどは、台湾の農村が栄え、そして衰退する過程を経験してきた。そして高齢者となった今、台湾の各地で行われている町づくりの新たな動きに自ら参加しているのである。
「不老英雄団」の団長である陳万発さんは今年67歳になるが、団員の中でもっとも若い「お年寄り」だ。以前、村の稲の重量を計る時の保証人をしていたので、「公平をきす人」という意味の「公道伯」というニックネームで呼ばれている。「公道伯」こと陳万発さんの家族は全員、地域のボランティアをしている。雑貨屋を営んでいる息子さんは財務長、奥さんは食事づくりを担当している。若い時台北で事業をして成功していた陳さんは、収入が増えれば増えるほど、自分が生まれ育った土地に、それまでに感じたことのないような懐かしさと誇らしさを感じるようになっていったのだという。
「永楽には、ほとんどよそから越してくる人がいません。みんなここで生まれ、ここで育った人ばかりなのです。1949年の『三七五減租(小作料を37.5パーセント以下に引き下げる政策)』や『公地放領(公有地での耕作農民に土地を払い下げる政策)』などが実施される前の人口流出は、土地が足らなかったために生じました。しかし、現在若者たちが村を出て行くのは、農業が金にならないからです」というのは、公道伯と呼ばれる陳万発さんの分析だ。陳さんによると、地元のお年寄りは、若い時には水車を足で踏んで回すなどきつい労働に従事していたが、今はほとんどが引退している状態で、幸いなことに田畑の世話をする合間に、地域活動に参加する体力があるのだと言う。
「不老英雄団」には現在、40人近いメンバーがおり、もっとたくさんの人手が必要になった場合でも、ちょっと声をかけらればすぐに人を集められる。「永楽にずっと住んできましたが、今のようにきれいで、気持ちいい環境になったのは見たことがありません」と話す公道伯によると、ここ数年、永楽は地域活動でだんだんと知られるようになり、老人たちも誇らしさを感じるようになってきたという。このため、町づくりに参加する意欲もさらに高まってきたそうだ。

「乾燥野菜にも作り手の思いがこもる」野菜を天日に干す作業から、永楽の人々は助け合いとコミュニティ運営の手段を確立した。
お年寄りは永楽の宝である。だが、町づくりが、よその土地から永楽に嫁いできたお嫁さんから始まったことは興味深い事実だ。
今年45歳になる張梅嬌さんは、10数年前に夫とともに親の面倒を見るために、台北からここ永楽にUターンしてきた。台北に住み慣れた彼女にとって、お年寄りばかりの永楽はあまりにも静か過ぎて、耐えられないほどだった。そこで、この地域の他のお嫁さんを誘って、夜の時間を活用して、永楽小学校でフォークダンスのクラブのようなものを始めることにしたのである。村に嫁いできた女性のほとんどは、子供がすでに中学校や高校にあがっていた。彼女たちは自分の自由になる時間がたっぷりあり、クラブを始めた当初から舅や姑に文句を言われることもなかったのである。彼女たちは、次第にクラブ活動に熱中するようになり「幸福家庭教室」という講座を開く活動をするまでに拡大した。この教室では、親子や嫁姑などの人間関係についての講座や、手工芸を習う講座などが開かれた。その2〜3年後に地域全体が地域活動に本格的に力を入れるようになったのである。当時、永楽小学校のPTA会長だった陳清渓さんが発展協会の理事長となり、近くにある朝陽大学にも地域計画やウェブサイトの作成に参加してもらった。永楽の町づくりの第一歩は、このようにして踏み出されたのである。
「永楽は小さな村落で、『幸福家庭教室』のメンバーの多くは、嫁と姑、義理の姉妹など、なんらかの家族・親戚関係にあります。みんなで一緒に習い事をしたり、作業をしたりすることで、家の雰囲気もなごやかになるのです」と話す張梅嬌さんによると、知らず知らずのうちに他の家族たちも影響を受けて、地域の活動に参加するようになることが多いのだそうだ。例えば張梅嬌さんの家の場合だと、兄嫁は幸福家庭教室の会長であり、彼女の夫と子供はボランティアとして参加し、舅の施讃さんは販売部の部長、姑は不老英雄団の団員として活躍している。

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若者たちにリードされる形で参加し始めたお年寄りたちだが、興味を持ち始めると、その貢献度は若者よりも高いものとなった。
施さん一家は、永楽でも大家族だ。地域活動の中心となる場所が必要になった時、施讃さんは、ほったらかしになっていた古い家を提供した。その家を地元の有志と一緒に掃除して、改装したのだ。そして農家の伝統的な建物だったその家は、さまざまな活動会場を備えた地域作業の場となったのである。母屋は習い事の部屋、新聞切り抜き室、事務所、台所などがある。右へ進むと、婦人学習の部屋、音楽館、産業部、左へ行くと子供の本の部屋、ボランティアの部屋、お茶室などが設けられている。2000年に活動センターが本格的にオープンしてからは、地域の定期的な活動がさらに整備され、公的な環境づくりも次々と行われていった。
施さんの古い家を入っていくと、正面の門に昔からあったのであろう「銭江衍派(財源がよどみなく流れ、あふれるほどある)」の4文字が目をひく。両側の門の板にはそれぞれ「人傑地霊(人は秀でた才能を持ち、土地は自然の生命を持つ)」、「家声丕振(家の名声が大きく振るう)」という言葉が彫ってある。中国大陸東南沿海の泉州からこの土地にやってきた当時、レンガや瓦を重ねて家を建てた祖先たちは、ずっと後になってその古い家が生まれ代わるとは思いもよらなかっただろう。そして、自分たちの子孫が、祖先の加護によって「銭江衍派」の言葉の通り、富を手に入れ、「人傑地霊」「家声丕振」の願いを実現することになるとは、想像もしていなかったに違いない。
永楽では、さまざまな公共施設が、手先の器用な有志たちによって建設されていった。しばらくして、より多くの人を収容できる「草地学堂」が完成し、とりあえず活動センターの場として使われていた施家の古い家屋の役目は終わった。だがボランティアをしているお年寄りたちは、この家も定期的に掃除をしており、前庭も裏庭も手入れが行き届いている。その外観は、使っていない家というよりは、まるで家の主人が外出中で、ちょっと門を閉めているかのようだ。通りがかった人は園芸の好きな農家の家だと思うに違いない。

農村が衰退していく中、永楽ではまだ北管音楽の楽団を作るだけの人が集められる。伝統芸術は21世紀も生き続けていくことだろう。
「古い建物をよみがえらせ利用すること、景観を改良すること、スペースを作り出すこと」がまさに永楽の公共環境づくりの原則となっている。施さんが古い家屋をボランティアに無償で提供したような行為は永楽のあちこちで見られる。永楽の人々が誇りとする埔心仔駅、竹仔脚公園、八方湧楽庭、三角公園、草地学堂、農学歩道、産業生態道、文化産業パークなどは、いずれも住民が無償で貸し出し、ボランティアたちが自らの力で修繕し、改築していったものばかりだ。
例えば地域活動の主要な場所となっている「草地学堂」の場合は、ずっと昔は養鶏場だった。だが、地域活動のボランティアに明け渡された当時は、すでに養鶏を廃業して、廃屋同然となっていた。この面積約70坪の場所に、人々がアイディアを出し合い、改築を進めた。改築は、鶏舎の主な建材を竹で覆っていくというものだった。10数人が20日にわたって働いた結果、元は鶏舎だった建物を一新し、まったく見違えらせてしまった。
「竹は拉拉山に住んでいる妹の夫が、無料で提供してくれました。お金がかかったのは、運送費の1万元だけです」不老英雄団の副団長を務める劉慶麟さんは、みんなも特に建築などを学んだことがあるわけでもないし、完成図などももちろん描かなかったという。思いついた所から手をつけていっただけで、やりながら一生懸命考えていったのだそうだ。「何も特別なことはないのです。普通、農家の家に生まれ育った者なら、この程度の手先の器用さは持ち合わせているものですよ」と言う。
しかし、建築の素人である彼らが作ったものは、やはりプロの作品とは違う。街でもよく見られる、技術を駆使した竹の建築物と比べると、草地学堂には素朴なやさしさが感じられる。小学校で使われなくなり運び込まれるのを待つ机や椅子が並び、前庭には数十年の歴史を持つ古いチャイムがある。そのチャイムが鳴り、涼しい風がそよげば、ずっと昔、子供たちが学校で「人の初め、性は本より善なり」と本を読み上げる声が沸き起こり、昔の学び舎の風景が目の前に広がってくるようだ。「クーラーのある教室で勉強するより、ここで勉強したほうがずっと気持ちいいですよ」と劉慶麟さんは言う。

「永楽はいいぞ!」と住民たちは親指を立てる。彼らは郷里に期待と自信を抱いている。
田畑を耕すのと同じように、地道な作業が必要とされる細工の技術は、各所に生かされている。お年寄りを中心としたボランティアが「産業生態の道」を建設した時も、その技術によって細かな部分に、この地域に対する愛情が表現されているのである。
まだ建設中の永楽の農業状況を展示する場所は、永楽小学校に近接している。長い長い囲い、用水路、灌漑ポンプステーション、高い樹齢を誇る老木などがある。ボランティアは、樹木を植え、それに竹細工を組み合わせて、数百メートルにも及ぶ歩道を作った。さらに小さな蓮の人工池も掘った。
もっとも注目されるのは、水路の土手に、台湾人が最もよく使用するコンクリートを使わなかったことだ。土手はコンクリートの代わりに、竹をざっくりと編んだ網で、護岸するようにした。このため、用水路と土手に生息する生き物が共生できるようになっている。「オタマジャクシがカエルに成長した後、簡単に土手を登ることができます。それに虫たちも水路の傍らでその一生をより完璧な形で過ごすことができます」と陳清渓さんは言う。
永楽小学校の後ろにある長い灰色の壁はまた、不老英雄団のメンバーの芸術的なセンスまで感じさせてくれる。壁の灰色を隠すために、彼らはまず全体を竹で覆った。しかし、それだけでは単調でつまらないと考えたお年寄りたちは、竹の生垣を自然植物の解説ボードとして使うことを考えた。そこに植物を植え、竹の生垣に絡まって伸びていくようにしたのである。上へと伸びる緑色が、壁全体にグラデーションのようになって、美しい。
「どれも実際に手を動かしながら、考え付いたアイディアです」劉慶麟さんはそう言うが、実際、自分でも自分の芸術的センスがこれほど現代的なものだとは思っていなかったのではないだろうか。

「草地学堂」では、おじいさんたちが地域の青年や子供たちに梱包用のテープで篭を編む方法を教えている。
人々の努力で、環境が美化されると、文化もこの土地で伸びやかに発展し始めた。
「幸福家庭教室」の親子講座は、家庭内の関係をなごやかにしていった。さらに、母親たちが知恵をしぼって作った三幕劇『塀裏の小川の春』は、2001年度の環境保護署「クリエイティブ環境保護行動劇コンクール」で一位に輝いた。地方の音楽はすでにすたれて久しかったが、村で演奏できる人を探し、お年寄りで小規模の北管曲芸団を編成することができた。また他の地方から先生を招き、若い人には比較的簡単な南管を習わせた。80歳を超える高齢の施份さんは、定期的に大きな木の下で「王爺さん」の物語を村の人たちに語り聞かせる活動を行っている。小学校で総務主任を務める阮永良さんはというと、村の物知りのお年寄りを訪ね歩き、郷土史を執筆する係をまかされている。
古い伝統と精神をよみがえらせた永楽の人々は、さまざまな所にオリジナリティを発揮している。来賓を迎える時に鳴らす礼砲には、竹筒の鉄砲を用いているのだ。
以前、竹筒の銃は水田などで穀物を盗み食いに来る小鳥たちを追い払うために用いられていた。竹筒の何個かの節を抜き、最後の節に小さな穴を開け、そこに火薬をつめて水を注入する。そして筒の端の小さな穴から導火線を付け、そこから火をつければ、竹筒から爆発音が出るというしかけだ。
不老英雄たちは、陳水扁総統が永楽地域を訪問した時にも、歓迎の意をこめて、この竹筒銃の礼砲を鳴らした。この時には陳総統に、竹筒銃は外交用の礼砲よりも音が大きいと賞賛された、と得意気に話してくれた。そこで、お年寄りたちに、陳総統は小鳥を追い払う方法で歓迎されたことは知っていたのですか、と尋ねてみた。すると彼らはおかしくてたまらないといった表情になって「知らない、知らない」と言い、みんなで大笑いした。
使い終わった竹筒銃をきれいにして整理する時に、お年寄りたちは、その中から1本を取り出した。その銃だけは、特にきれいに拭かれ、赤いリボンが結ばれた。前回、他の地域の人々が見学に訪れた時、永楽のアイディアに感心し、わざわざ1本購入したいと言ってきたのである。
「1本400元で売るので、ほんの少しですが、地域活動の足しにはなります」と劉清渓さんは言う。

にんにく、ガチョウ、カリフラワー、スイカ、農村の自給自足の生活は喜びに満ちている。
確かに、地域内のすべての建設を自分たちでやるにしても、やはり地域の収入源を確保することこそが町づくりを長続きさせる大きなかぎとなる。当初、施家の古い家屋を改築して暫定的に活動センターとして使った時「乾燥野菜を収入源にして、みんなで活動センターを建設しよう」という運動を起こし、建設費を募った。その後、乾燥野菜による収入は、この地域の重要な互助システムとなったのである。
永楽は昔から、米作を中心としており、その他に畑ではにんにくやカリフラワー、キャベツ、ネギ、トマトなどが植えられていた。最近は作付面積が拡大してきているが、野菜の価格は実に不安定だ。生産過剰になると、野菜を売りたたくしかなく、元が取れなくなってしまう。このため地域発展協会は、生産過剰となったキャベツやカリフラワーを買い取ることにしたのである。この方法によって、農民たちの悩みも解決し、地域としても収入源を確保でき、自らの特色を打ち出せるようになった。
「毎回、地域で約2万斤(1万2000キロ)程度を買い取っています」と話す販売部の施讃さんによると、乾燥野菜は、それぞれの家の人が自分の家の前に干しておき、毎日ボランティアが集めに行くのだという。もし大雨が降ったら、その家の人も野菜を取りこむのを手伝ってくれる。
陳清渓さんは、乾燥野菜は1年に2〜3回も作れば、50〜60万元の収入になると言う。これは地域の年間予算の5分の1にあたる金額だ。このほか、行政院文化建設委員会の特別計画に対する補助金、他の地域から見学に来た時に入ってくる手数料、会費などがある。これらを合わせれば、町づくりの安定成長が可能になる。

にんにく、ガチョウ、カリフラワー、スイカ、農村の自給自足の生活は喜びに満ちている。
中年の女性たちやお年寄りたちの熱意によって、永楽は衰退しかけていた農村から、地域活動の盛んな模範的な地域としてよく名を知られるようになり、今では彰化県の農村のお手本となっている。現在、埔塩郷の22の村のうち20の地域が活発に活動するようになり始めているが、そのうちいくつかは非常にうまく運営されている。
埔塩郷役場の主任秘書である楊子球さんによると、役場は県と協力して計画づくりを進め、それぞれの地域が異なった特色を出せるように考えているという。例えば永楽は文化の面で有名で、埔南地域は環境保護に重点を置き、地域の整備を進めようとしている。埔南の「チョウチョ公園」では、すでに数種ものチョウの孵化と飼育に成功し「全国10大環境保護地域」に入選した。南新地域は原始の自然の保存に努力しており、公園内には数百種もの台湾の原生植物が栽培されている。計画中の新水地域は野菜を主な生産物としており、将来的にはその周辺の野菜集散地となることを目指している。
永楽地域は、他の地域の町づくりの動きを刺激し活発にしているだけでなく、実際に埔塩郷の王功と石埤という2つの地域の町づくりにも協力している。台湾大地震以降、老人を中心とした長青地域でも、永楽のお年寄りを中心としたボランティアの活躍がしばしば見られるようになり、地元のお年寄りを地震から立ち直らせた。こうして自ら人助けを買って出ていると、思わぬ収穫があるものらしい。永楽は以前、過疎化や高齢化が深刻で悩みの種だったが、地域の活性化により若者が村に帰ってきて、永楽小学校が廃校になるのを免れたのである。
「田舎ではもともと地域活動と学校機関との協力が密に行われていました」永楽小学校の教頭先生である施榕鑫さんは、自分は永楽出身ではないが、「地域の学校化、学校の地域化」によって、自分も永楽のメンバーなのだと感じるようになったと言う。永楽地域の活動は最初から、小学校が積極的に協力してくれている。現在地域のウェブサイトも施さんが担当している。小学校で人手がほしい時には、校長が電話を1本かければ数十人ものお年寄りたちが手伝いに来てくれる。それに学校では地元の特色を持った教材に事欠かない。お年寄りたちの竹筒銃や地方音楽、竹細工などの技術はすべて値段をつけられないほど貴重な文化財だからだ。
現在、県の教育局は、生徒総数50人以下の小学校の廃校を進めており、3年後には生徒数100人以下の学校に着手する予定でいる。以前、生徒数が減少し続けていた永楽小学校は、現在では140名の生徒がおり、地域再建後、何年もこの生徒数を維持している。廃校を免れたことは地域運営の大きな成果であり、永楽の人々の幼い頃の思い出も、これによって無事保存されることになった。
地域を一回りすると、すでに夕暮れ近くになっていた。小学生の一群が家に帰る道のわきにある空き地では、すでにゲートボールクラブが活動を始めていた。家々からは夕食の支度をする音が聞こえ、農作業を終えた人々が春風亭に集まり、おしゃべりに花を咲かせている。公道伯は、あずまやの中で人々にしっぽを振っている犬を指差して言った。「先月、よそからうちの息子の後をついてやってきたのですが、ここを離れようとしないのです。きっと永楽という土地が気に入ったのでしょう」
そよ風が吹き、のびのびした気分を運んできてくれた。

不老英雄団のボランティアが竹で建てた草地学堂、梁にかかった竹片は風が吹き抜けるとぶつかり合って音が出る。楽しいアイディアだ。