古い家屋や工場の再利用に比べると、南寮塩田文化村の「村長」である盧建銘さんが再生に取り組んでいる跡地は規模が違う。彼が運営しているのは一つの廃村と355ヘクタールにおよぶ廃棄された塩田であり、再生しようとしているのは失われた塩田文化と製塩職人なのである。
台南市四草地区の南寮塩村には、かつて塩作りに携わる人々が120余世帯も暮らしていた。それが1998年に、ここの安順製塩場の生産が停止され、南寮塩村の土地の半分は台南ハイテクパークに組み込まれ、もう半分は生態保護区に指定されてしまった。一生を浜での塩作りにかけてきた人々は一瞬にして職を失い、生活を維持するのも難しくなった。さらに塩村は土地が海面より低いために、しばしば水害に遭うというので、村民は宿舎や廟を残して次々と去っていった。
今日、この南寮塩村に足を踏み入れると、村の廟である永鎮宮の門には封じ紙が貼られ、壁画や門板に描かれた神像のお顔にも黄色い紙が貼られている。これは、この廟には神様がいらっしゃらないことを意味している。

塩田生態村の「村長」である盧建銘さん(右)と国宝級の塩田職人・丁財伯さんは、浜に打ち上げられた廃棄物で環境に優しい商品を作り、遊休地と化した塩田と元住民に新たな機会をもたらした。
人は去り、技術も途絶える
昨年の中頃、この塩村に再び人の姿が見え始めた。広大な塩田に向って並ぶ放置された2階建ての集合住宅――かつての国民住宅が、田園工場へと変ったのである。海岸で拾い集めたカキ殻を洗っている人もいれば、カキ養殖に使ういかだの竹筒を磨いている人もいる。ミシンを踏んで古着で帽子を作っている人もいれば、海辺に生える植物であるギンネム(銀合歓)の枝で鳥の巣の工芸品を作っている人もいる。
炎天下、日焼け防止のために顔を布で覆ったおばさんたちが「洗塩」の作業をしている。少し結晶した濃い海水を道具でかき混ぜ、より細かい塩の結晶を作る作業だ。72歳になる丁財伯さんは、生涯を塩作りにささげてきた。塩田の水路の設計や維持について彼ほど詳しい人はおらず、塩作りの人間国宝とも言える存在だ。全身汗まみれ、塩まみれの丁さんほど南寮塩村の歴史に詳しい人はいないだろう。
「南寮の塩田はな、日本時代からあったんじゃよ。わしの親父は初代の塩田職人じゃった」と丁さんは語る。1919年、大日本塩業が今の南寮塩村に安順塩田を開いた。塩田は付近の集落から遠かったため、塩田の中に長方形の島を作って作業員の住居を作り、しだいに塩田集落が形成されていった。
塩田は主に安平四草湖の潟と砂州を利用し、澎湖から運んできた玄武岩と珊瑚を用いて堤防を作った。海水をまず大蒸発池に引き、ある程度蒸発して塩分が濃くなったところで、さらに小蒸発池へ移してさらに濃縮させる。最後にそれを結晶池へ引いて結晶塩にするのである。こうして出来た塩は、塩専用の埠頭から運河を通って安平の製塩工場に運ばれた。当時では最新式の天日塩作りの方法だった。
戦後になると、台湾の塩田は民生用から工業用へと用途が変った。80年代に入ると土地開発が進み、製塩の原価と品質が輸入品にかなわなくなり、さらに塩作りという重労働に従事しようという若者が減ったこともあって、1991年に経済部(経済省)は安南区に台南ハイテクパークを建設することを決定した。
ただ、自然保護団体は工業区開発によって生態が大きな衝撃を受けると考えたため、農業委員会は工業区内に「四草自然生態保護区」を設けることにした。こうして、村の土地の半分は工業区に、半分は生態保護区に指定され、南寮塩村はまったく生産用地のない集落となってしまった。以来10年余りの間に住民は次々と出て行き、ついに「廃村」と化したのである。

塩田には濃度の異なる海水があって藻類が豊富な上、付近には養殖池もたくさんあるため、四草地区は台湾の重要な生態保護区となっている。
塩田に生きるセイタカシギ
こうして遊休地と化した南寮塩村だが、実は本当の遊休地とは言えない面もあった。人は去ったが、ここは国際自然保護連盟(IUCN)によって台湾の12大湿地の一つに挙げられた水鳥の生息地なのである。付近には養殖場がたくさんあり、また塩田は場所によって濃度の違いがあることから豊富な藻類を育てているため、ここは希少なクロツラヘラサギの重要な生息地でもある。クロツラヘラサギは、最も多い時には300羽余りが見られ、主に塩田の海水貯水池(大池)に生息している。これに加えたて、愛らしい姿のセイタカシギやシロチドリも、毎年3月から9月にかけて塩田の堤防で繁殖する。この時期はちょうど年に2回の製塩繁忙期の間に当るため、水鳥と塩田は長年にわたって平和に共存してきたのである。
ハイテクパークの設置は決まったが、工場誘致は順調ではなく、また養殖場の使用も止まって人が減ったため、かえって野鳥は増えていった。塩田の堤防を繁殖地とするセイタカシギとシロチドリも人影が減った分、一度は顕著に数が増えた。しかし、塩田の堤防は土と木と瓦で造られているので、毎年雨季の後には修復しなければ崩れてしまう。だが塩の生産が停止し、住民が去った後は塩田の堤防は崩れ落ち、セイタカシギも危機にさらされている。
昨年の春、台南県にある崑山科技大学空間設計学科で講師を務める盧建銘さんは、農業委員会の委託を受けて四草自然生態保護区の建築物の調査と計画立案を進めることになった。南寮塩村に足を踏み入れた盧さんの目に入ったのは、一面に広がる塩田と運河、そして塩を輸送するための埠頭と製塩事務所などの文化遺産だけであった。かねてより自然や生態の保護に関心を寄せていた彼は、この土地に生息する豊富な植物や陸生昆虫、水鳥などにも目を向けた。そして盧さんはこの廃村となった土地に、素晴らしい製塩産業と自然生態を見出し、こうして塀のない生きた塩田生態村が誕生することとなったのである。
「かつて時代に淘汰された産業だからと言って、次の時代に競争力を持たないとは限りません」と盧建銘さんは語る。彼の運営の下で、塩田産業とその文化、そしてこの土地の生態が融合して完全に進化し、伝統の塩田が蘇った。原価がかかりすぎる伝統的な製塩方式を抜け出し、新しい産業である「文化塩田」へと生まれ変わったのである。

鳥の巣をかたどった文化商品。塩田生態村は衰退した産業にも新時代の新たな機会があることを証明している。
ただのカキ殻ではない
盧建銘さんは昨年、南寮塩村に住み始めた。そして台南市建設局や中央の文化建設委員会に資金提供を求め、まず田園工場を開き、かつて塩田で働いていた作業員17名と工場で働いていた作業員10名、それに9名の職員を集めた。そのうち4名は盧建銘さんが屏東で進めている古跡修復で給与をまかなっている学生である。
塩田では中年の塩田職人が70歳の熟練職人に学びながら塩作りをしている。彼らは将来的には塩田生態村の現地ガイドになる予定だ。職員と工場作業員は、盧さんとともに鳥類を観察し、巣作りの方法を検討している。海辺に生えているギンネムという植物で鳥の巣に似せた工芸品を作り、それでランプシェードや花器を作るのである。木工場と織物工場の原材料はすべて海辺に打ち寄せられた廃棄物だ。日差しが少し和らぐ夕方になると、彼らは区域を分けて浜辺に打ち上げられた物を拾い集めにいく。打ち上げられているのは、防風林として植えられるモクマオウの種子や廃棄されたカキ養殖用の竹のいかだ、海水に洗われたカキの殻などである。
これらを拾い集めて工場へ戻った彼らは、木工場で、いかだの竹にかんなをかけて削る。織物工場で働く月華さんは、拾ってきた材料を見回して、木工場にカキ殻に穴を開け、モクマオウと小さな貝殻をあわせるように依頼し、潮風が吹いてきそうな温もりのある暖簾を作った。「これは普通のカキ殻や竹筒ではありません。すべて海水に洗われたもので、さらに環境に優しいというコンセプトが付加されています。私たちにとっては、これは単なる暖簾ではなく、一種の文化的商品なのです」と盧建銘さんは説明する。
盧さんの計画においては、塩田の生産活動や塩作りの職人など、すべてが文化的商品になり、文化の職人は、労働力であるだけでなく自然保護の尖兵でもある。このような考え方で自らの位置づけが向上したことで、本来は生計を立てるためにだけに働いていた職人たちも、自らの仕事を一つの信仰とするようになった。「こんなに長いあいだ生きてきて、いま初めて自分が何をしているのか知りました」と話す40代の阿秀さんは、毎週3回腎臓透析に通いながらも、我を忘れて田園工場の仕事に取り組んでいる。
かつての塩作りにおいては、大量の人手が必要だったため、ここの住民は、しばしば一家総出で働いていた。塩作りの合間、子供たちは付近で他の技術を学んでいたが、その多くは木彫を学んだ。そこで最近、盧建銘さんは中年の木彫師2人を塩村に呼び戻した。彼らは、毎日南寮塩村の人々とともに暮らしているクロツラヘラサギ、セイタカシギ、シロチドリの姿を木彫り作品にしており、これが塩田生態村のオリジナル商品になっている。この他にも、塩田に水をくみ上げるための水車や瓦の破片で作った塩田の「瓦盤」、それに台湾では唯一地元産の天然塩などがあり、どれも塩田生態村でしか手に入らない文化商品だ。
塩の山を築く
2年近い努力を経て、文化建設委員会は昨年末に塩田生態文化村の予算を通過させ、1200万台湾ドルを補助した。これは文化建設委員会が「地方文化館」計画を推進してきて以来の最高の補助金額である。しかし、塩田生態文化村を訪れた人は疑問を感じるかも知れない。見渡す限り文化館らしきものはないのである。これについて盧建銘さんは笑いながらこう説明する。見渡す限りの350ヘクタールの土地そのものが一つの博物館なのです。そこで汗を流す塩作り職人や、悠々と漫歩するセイタカシギの姿もその中に含まれています。それに9月になればクロツラヘラサギが渡ってきます。そのどれもが大切な所蔵品なのです」と。
塩田生態文化村には文化館がないどころか、非常に大きいのである。その中で、館らしい形をしているのは埠頭近くの日本式木造建築の事務所だけで、ここは11月から再利用して「塩田博物館」とされることになっている。有形空間の再利用を最後の段階に持ってくるというのも盧建銘さんが特に考えた方法だ。
「私は、まず塩田職人に戻ってきてもらうことを考えました。製塩技術や塩作りの道具の使い方が分かり、それが伝承できるようになってから、最後に文化館を建てようと考えたのです。人がいて、民間の力があってこそ跡地空間は永続的に運営できるのです」と言う。
塩田生態村では、産業が文化であり、文化は生きた産業でもある。このように生活型を追求する塩田生態村では、今に至るまで何のイベントも催しておらず、今年9月の文化遺産記念日に、塩田生態村の初めてのイベントを行なう。10トンの塩を旧運河に沿って安平徳記洋行、つまり日本時代の大日本塩業まで運び、そこに積み上げるという催しだ。さらに今年末には南寮塩村の埠頭にも1000トンの塩を3階建ての高さまで積み上げて塩山を作ることになっている。これは広々とした安平平野のどこからでも見える新たな文化的ランドマークとなる。
塩山、つまり塩田生態村の聖なる山を作るために、塩作りの職人10数人は、毎朝4時に起床して、正午まで塩を取り続けている。
物は誰かが使ってこそ命を持つ。塩田の瓦盤も使用されるうちに、ついに鮮やかな色を見せ始めた。それはまるで、熟練職人・丁財伯さんの日に焼けた笑顔のようにきらきらと輝いている。