絵に描かれる淡水といえば、頂に白く雲をたなびかせる観音山、波を立てる青い河の流れ、或いは、沈む夕陽に染まる水面、紫色の空にかかる黄色い月など、いずれも非のうちどころのない美しさが定説となっている。
「滬尾」という古称を持つ現在の淡水鎮は、開港以来300年余りを経ており、その繁栄の歳月のうちには、砲撃に見舞われたこともある。台湾全土で「郷」や「鎮」といった行政区に分けられる309の町村のうち、淡水鎮はどのような特色を持つのか。そこに住む人々はどのように暮らし、どのように過去を記憶し、そしてどのように未来を見つめているのだろうか。
「淡水が昔とどう違うかと聞かれたら、こう答えますね。最大の変化は、古い商店街が消えてしまったことです」というのは、淡水で恵元薬局を営みながら、滬尾文化歴史協会の会長を務める杜秀元さんだ。杜さんの薬局は、古い商店が建ち並び「老街」の名で知られる中正路にある。地元の人は中正路を、昔から「滬尾街」と呼んできた。
幼い頃からこの「老街」で暮らしてきた杜さんは、各商店が次々と構えを新しくし、また、わざわざアンティークな内装にした店が進出してくる光景を、毎日店の入り口に腰掛けて眺めてきた。商店街の道幅も、相次いで広げられた。1988年に鉄道の淡水線が廃止されたのが、古きよき淡水の終局だったのかもしれない。1997年に新たな都市交通システムとしてMRT淡水線が開通するや、どっと観光客が押し寄せるようになったのである。だが、休日には人であふれる淡水も、平日となるとどの店も人けがなく、見かけるのは地元の人の姿と、残されたゴミの山だけだ。
淡水の古称「滬尾」の由来には、いくつかの説がある。当時の先住民語の音に漢字を当てはめたものだという人もいる。また、昔、漁師たちが海の中に大きくコの字型に石を積み上げ、その中に魚をせき止めるようにして漁をしていたことがあったが、その漁法を「滬石」といい、淡水はその滬石の末尾に位置したので「滬尾」と呼ばれるようになったのだという説もある。
東南アジアにおける海運の要衝だった淡水は、西洋からスペインやオランダ人がやってくるよりも早く、より近い中国大陸から漢人たちが海を渡ってきて、淡水付近の先住民ケタガラン族と交易を行っていた。漢人たちにとって何よりの目当ては、鹿の皮や硫黄などだった。後に西洋人たちがアジアへの野望を抱くようになって、淡水は要塞としての役割を担うようになり、17世紀にはスペインとオランダが領地のシンボルとして、ここに城を築く。その後、清朝の統治下に置かれた淡水は、1884年の清仏戦争においても勝利の凱歌をあげている。
黄金時代の淡水は大小の船舶でにぎわい、大型船が停泊することも珍しくなく、清朝末期には台湾最大の港であり、基隆、台南、高雄の三つの港を管轄する税関本部でもあった。しかし、日本統治時代になって土砂の堆積により港としての機能を失い、基隆港へと役割が移されたため、次第にさびれていった。
このような淡水は、名所旧跡や古いたたずまいをあちこちに残している。俗に「砲台埔」と呼ばれる、かつての外国人居住区には、清末に台湾へやってきた宣教師マッカイ博士によって、西洋医療としては台湾初の病院「滬尾偕医館」が開設された。1878年には同病院で、肺ジストマの病例が世界で最初に発見されている。同医館のそばにある古い教会は、画家たちのメッカと言えるほど、よく描かれる建物だ。付近に残る洋館や学堂、旧領事館などはいずれも、この地がかつて中国と西洋の文化交流の場として栄えたことを物語っている。
角を曲がって三民街を行くと、古びた水道管の一部を見かけるだろう。これは、日本統治時代に近代建設が進められた際の、台湾初の水道設備の跡なのである。台湾初はそれだけではない。淡水駅のかたわらには、日本統治時代に作られた水上飛行機の発着場が残っている。また、古い面影を残す淡江中学を訪れて、元気よくはしゃいでいる生徒たちを見ていると、台湾人と日本人が同じ学校で学ぶことの許されなかった植民地時代において、この中学が多くの優秀な台湾人を育てたことに思いを馳せずにはいられない。
こうしてみると、淡水が学問の町であることに気づく。この小さな淡水に、幼稚園から大学院までがすべてそろっているのだ。清の光緒時代(1874〜1908年)に科挙合格者を3人出し、書生の数も多かった淡水は、近代になっても学問への執着を忘れなかった。現在、淡水にある淡江大学は、当初、建設地と経費の問題で淡水での設立があやぶまれたが、地元の人が安く土地を提供したり、寄付などに走り回った結果、とうとうこの町に建設がかなったのである。
淡水河周辺にばかり目を向けて、淡水鎮を背後から見守る大屯山を忘れてはいけない。山の上に田畑を作っていた昔の人々は、畑まで1時間ほどもかけて登っていた。今日、山へ登るバスに乗れば、雑草に覆われた段々畑のあとを見かけるが、そこはかつては作物が四季にわたって実りをつけた田畑であり、子供たちの走り回る遊び場だったのだ。
山の上にもさまざまな物語が残る。淡水にある行忠堂は、改装を重ねてはいるものの、百年の老舗だ。主人の李永坤さんは、淡水では名のとどろいた李一族の末裔で、上述の科挙合格者3名も、すべて李家の出身である。現在、淡江農場水源地にある李家先祖代々の家屋は、科挙合格者の家だけがそうしたように、屋根の端を燕の尾のように反り返らせ、旗竿が備え付けられている。北京大学から交換教授として文化大学を訪れている李明浜さん(旧名、李明輝)は、科挙合格者の一人である李応辰の子孫だ。李応辰は、抗日運動で負傷し、中国大陸へと亡命してその地に根を下ろした。祖先と同じように李明浜さんも、台湾海峡を越えてきたのである。北京語と河洛語(一般に台湾語と呼ばれる言葉)の両方を流暢にあやつる。
物語は、過去だけのものではない。現代の淡水の人々も日々、物語を生み続けている。黙々と謙虚に勤めをこなす新聞配達員、裸一貫から商売を始めた土産物屋の主人、屋台で食べ物を売るおばさん、「茶室」で客の相手を務めるホステスなど、早朝から深夜まで時間帯は異なるものの、誰もが懸命に働いている。一代目が亡くなって二代目にバトンタッチしているところもあるが、竹造りの茶室のホステス嬢は、年齢を重ねたとはいえ健在だ。淡水の夜の街に舞う蝶さながら、今日も酒や茶の香りに包まれ、彼女らの慰めを求めてやってくる客たちの相手をしている。
ひと儲けできると見込んで進出してきた商売人は、派手なネオンや看板を掲げ、喫茶店や海鮮料理店、食堂、骨董屋などを次々と開いた。消費力では抜群の学生たちが、我がもの顔に大通りや路地をバイクで走り、その青春を謳歌している。淡水河のほとりにたたずむ恋人たちは、まるで川岸に並べられた彫像のように、幸せや悲しみの姿を川面に落とす。
「ジャンク船が泣く」という話をご存知だろうか。清仏戦争のさなか、陣頭をとっていた劉銘伝が仏軍の上陸をはばむため、数10隻のジャンクを破壊して沈めた。夜になると、海の底のジャンクがすすり泣くというのだ。いや、それはもしかしたら、淡水河自身の泣き声かもしれない。
1998年、淡水河沿岸を走る高速道路の建設計画が打ち出された。三階建てのビルの高さを持つという高速道路は、河岸のマングローブ林を突っ切り、川と淡水の町を隔てるように走るという。そうなれば、淡水河を眺めようと淡水までやって来ても、高いところによじ登らなければ見えなくなってしまう。幸い、淡水の文化人や自然保護運動家たちの奔走によって歯止めがかかり、昨年9月には環境影響評価基準に合わないと判定され、計画は中止されたままだ。だが、同様のことが今後も起こらないとは限らない。
「発展のためと、淡水沿岸はすでに開発の手がどんどん伸びています。自然と争うように開発を続け、その結果が恐ろしいです」と杜秀元さんは注意を促す。淡水文化基金会の常務理事である謝徳錫さんも、「海辺のニュータウンには一つまた一つとマンションが建てられていますが、空き屋ばかりです。地元の人はみな知っていますが、冬になって季節風が吹けば、あそこは一番寒くなるところで、マンションの売れ行きが悪いのもうなずけることなのです」と指摘する。「淡水と対岸の八里の間に淡江大橋をかける話が出ているのを知っていますか。古い歴史があり、風光明媚で知られたこの地に高々と橋をかけ、おまけに橋の上には回転式コーヒー・ラウンジを開こうというのですよ」と杜秀元さんは嘆く。
淡水を愛する人々は、いつか巨大な魔の手が襲ってきて、淡水の土地をすっかり掘り返してしまうのではないかと、びくびくしながらこの地を守っている。自分たちの子孫もまた、絵画や記憶の中で、古きよき台湾を、自然と戯れた喜びを、懸命にたどることになるのではないだろうか。古きよき時代は失われるものとしても、人と水との関係を失ってしまっては、「淡水」の名が泣こうというものである。
川岸では小さな漁船がわずか数艘、波にゆらゆら揺れている。海に出て稚魚をとるという漁師の姿は見かけないが、彼らなら、「昔はこんな大魚が手づかみで捕れたものだよ」と話してくれるかもしれない。だが、漁船はひっそりと揺れ、淡水と八里間を往復する連絡船があいさつしていくのを見送るだけだ。川面を移動する連絡船のライトは提灯のようであり、遠くの空で5秒間隔にまたたくライトでさえ、星のように見える。
このような日常の光景ですら、淡水はやはり美しいのだと、川岸にたたずんで気づいた。
淡水鎮は台北県に属し、北は三芝郷、南は関渡と台北に接している。西側は台湾海峡に面し、また淡水河を挟んで八里と向き合っている。面積は約71平方キロ、人口は約11万5000人だ。淡水の主要農産物には山芋、茶種の油、サツマイモなどがあり、また付近の海域を黒潮が流れているため海産物も豊富だ。しかし近年は、淡水河の河口の汚染のために漁業資源が減り、漁業は衰退している。主な観光スポットや名所旧跡には淡水紅毛城、鄞山寺、真理大学、滬尾砲台、ガジュマル保護区、沙崙海水浴場、滬尾偕病院、淡江中学、淡水骨董街(中正路)、八里へのた渡し船乗り場などがある。交通手段には都心と結ぶバスやMRT、ローカルバスなどがある。

淡水河に沈む夕日はことのほか美しい。夕日を浴びて金色に染まった水面を漁船がゆっくりと帰ってくる。

(左)寄り添って淡水河を見つめるカップル。この静かで美しい河畔は結婚写真の撮影地としても人気のスポットだ。

老人が裸足の足を組んでのんびりと新聞を読む。薄くなった日めくりとケースの中の骨董品が「時」を浮き上がらせる。