70年前、第二次世界大戦の最中、中国も日本と激戦を繰り広げていたが、日本は太平洋島嶼の海戦で敗戦を続け、戦局は大きく変っていった。
1943年11月22~26日、中国と米国、英国の3ヶ国の国家元首がエジプトのカイロで会談し、対日作戦の方針や戦後の極東情勢について話し合った。これを受けて発表された「カイロ宣言」は、日本を無条件降伏せしめることへの厳正な決意表明であり、また国際法上、戦後、台湾および台湾に付属する島嶼を中華民国へ返還することの基礎となった。
「カイロ宣言」から70年目を迎え、我が国の外交部や国史館などの関連部門は、当時の写真や資料を集め、国史館に展示している。また米国、中国、韓国、日本など内外の学者を招き、歴史、国際法、外交などさまざまな角度から、連合国がいかに「カイロ宣言」を起点として50年にわたる日本の極東における覇業を集結させ、戦後のアジアおよび太平洋地域の国際秩序を確立したかを討議した。
「三大同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以降に於いて日本国が奪取し又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること、並びに満州、台湾及び澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り。日本国はまた暴力及び貪欲により日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐されるべし。前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものたらしむるの決意を有す」
1943年12月1日、米中英3ヶ国の首脳は、それぞれワシントンと重慶、ロンドンにおいて「カイロ宣言」を発表した。英語で251ワードの文章は、連合国による対日戦争の戦略や戦後の日本領土処理に言及したが、さらに重要な共通認識は、日本は東北四省(満州)と台湾、澎湖などの島嶼を我が国に返還すべきとしている点である。

1943年11月末、中華民国国民政府の蒋介石主席(中央)はカイロ会談期間中、エジプトの遺跡を巡った。
「カイロ宣言70周年国際シンポジウム」に出席した馬英九総統は、祝辞でこう述べた。「カイロ会談は、中華民国が初めて四巨頭の一つとして参加した首脳会談であり、戦後の東アジアの領土を確定するものでした。中華民国が東北四省および台湾・澎湖などの失地を取り戻すこと、韓国やベトナムの独立に協力すること、日本の領土を四大島に限定することなど、時代を画する重大な内容であり、その後の東アジア情勢に決定的な影響をおよぼしました」
一部には、カイロ宣言はプレスリリースに過ぎず、各首脳の署名もないことから、その有効性を疑う声もあるが、馬英九総統は、このような見方は大きな誤解であると指摘した。国家元首がその職務権限内で行なった具体的な誓約には国際法としての効力があるからである。また「カイロ宣言」は絶えず戦時中の文書の一部とされており、そこからもその重要性が見て取れる、と。
例えば、1945年7月のドイツ降伏の後、連合国が署名した「ポツダム宣言」には「カイロ宣言の条項は履行されるべき」という条項があり、同年の日本の降伏文書には「ポツダム宣言」を履行すると書かれている。さらに1951年の「サンフランシスコ講和条約」には「日本は台湾および澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とあり、1952年の「中華民国と日本国との間の平和条約」第10条には「台湾及び澎湖諸島のすべての住民を中華民国の国民とみなす」とある。
「これらの文書は、一つまた一つと繋がっており、共通する源は『カイロ宣言』です。このことから、国際法上の効力があることは明確です」と馬総統は述べた。
北京大学法学院の饒戈平教授もこの考えに賛同する。その話によると、『オッペンハイム国際法』は条約の名称の多様性について、条約、協定、規約、宣言、議定書などが含まれるとしている。従って、文書の名称や形式は「カイロ宣言」の法的効力に影響しない。「過去70年、『カイロ宣言』をめぐる歴史論争は収まったことがなく、だからこそ現在もその権威性を護る必要がある」と述べた。
饒戈平教授はさらに、「カイロ宣言」にはマイルストーンとしての意義もあると述べた。先見の明のある大国が、悪を懲らしめ正義を貫く旗を掲げ、中国に国家権益を護る法的武器を提供した。第二次世界大戦の主要な参戦国で戦勝国である中国では、後の世代もこの歴史を覚えておくべきであると。

カイロ宣言70周年国際学術シンポジウムでは内外の学者を招き、戦争の教訓に学ぶため、カイロ宣言の歴史的意義を討論した。
国際政治は言ってみれば大国間の駆け引きであり、弱国は一つの駒に過ぎない。日本が富国強兵を推し進め、西洋の帝国主義に倣って侵略範囲を広げていく中、弱い中国は餌食となっていった。
中国は清末以来、敗戦によって領土割譲を余儀なくされたが、カイロ宣言で外交の舞台に上った。これは百年来の中国外交における一大勝利であり、まさに得難いものであった。
国史館の呂芳上・館長は、蒋介石の日記から、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相と交渉するに当っての蒋介石の複雑な感情を指摘する。
「蒋介石には『アジア・コンプレックス』があり、世界の四巨頭に名を連ねることを喜びつつも恐れていました。一つには、帝国主義に反対しつつそれに依存しなければならないこと、もう一つはアジアの民族国家独立支援に使命感を持ちつつも、自分はアジアのリーダーにはなりえないと考えていたからです」
当時蒋介石は、ルーズベルト米大統領は中国の独立と平等な地位の確立に協力したいという誠意を持っていると感じていたが、チャーチル英首相との間には、香港の主権問題やビルマ戦略などで意見の違いがあり、英国の非友好的な態度を感じていた。
特に、我が方の代表である王寵惠が英国のイーデン外相と米国のハリマン駐ソ大使とともにカイロ宣言の草案を作成していた時、英国側は、「東北四省と台湾・澎湖を中華民国に返還する」という文言を明記することを避け、「当然日本は放棄すべし」に改めるべきだと主張した。王寵惠が「曖昧な文言」は受け入れられないと強く主張したことで、ようやく原案が採用されたという。
呂芳上によると、蒋介石はカイロ会談の目的を「政治的収穫が第一、軍事は第二、経済は第三」とし、「いずれも相当の成功を収め得た」としている。この外交折衝の経験から蒋介石は、中国は大国だが弱国であることを深く認識し、「一枚の文章だけに頼ることはできず、今後一層奮闘努力しなければならない」と感じていた。
国連憲章へカイロ会談は蒋介石の外交生涯の絶頂であり、対日戦争と第二次世界大戦の後に中国が果たす重要な役割を世界に知らしめたとの見方にシンポジウム参加者の多くが賛同した。だが当初、英ソはカイロ会談への蒋介石の参加に反対しており、中国を三巨頭に加えることを強く主張したのは米国だった。
米国外交史の権威でハーバード大学歴史学科のErez Manela教授は次のように指摘した。アヘン戦争以降の100年、中国は国際関係において軽んじられ、強国の条件も備えていなかったが、そうした中で中国を世界の「四人の警察官」の一つとするために、米国は一部の対外援助を重慶に移すことも考えているとソ連を脅し、これによってソ連の態度はようやく軟化したのである。米国がこれほど強い決意を示したのは、ルーズベルトに、戦後の世界秩序に対するビジョンがあったからだ。
Manela教授によると、ルーズベルトの描く世界秩序はウィルソン大統領の反植民地主義を受け継ぐものである。植民地は住民の自治権を奪い、列強間の衝突が絶えない原因でもあり、平和のために英仏の帝国主義は瓦解すべきとルーズベルトは考えていた。そして、人口が最も多い「非白人国家」である中国とインドは国際舞台に加わるべきであり、その参画によって米国が主導する国際組織が支持されてこそ世界平和への希望が持てると考えたのである。国連憲章は、こうした理念の成果である。
「21世紀はアジアの世紀で、指導者が改革を導かれなければなりません。現在のアジア諸国はまだ過去の暗い影を引きずっており、相互信頼が不十分な状態は19世紀の欧州に似ています」とオランダのローレンス・ヤン・ブリンクホルスト元副首相は述べた。台湾は外交上困難な位置にあるが、台湾海峡両岸関係は対立から和解・協力へと転換し、今は週に数百の航空便が両岸の都市を行き交っている。これは大きな成功であるとブリンクホルスト元首相は述べ、世界的に相互依存度が高まり、国家利益が緊密につながっている時代、各国は戦争の教訓を忘れてはならず、馬総統の提唱する「東シナ海平和イニシアチブ」はアジア諸国の衝突解消の道になるだろうと述べた。
「カイロ宣言」70周年にあたってその法的効力と歴史的意義を振り返れば、これは中華民国が台湾・澎湖・金門・馬祖で存続し繁栄する基礎であり、また戦争と侵略に反対する国際社会の勝利の成果であることがわかる。