観光スポット「台北霞海城隍廟」のすぐそばに建つ「屈臣氏大薬房」は、かつて火災に見舞われたものの、子孫の尽力で現在の姿へとよみがえったことで知られるが、この地区の街屋文化復興にとっても重要なシンボルだ。
店主が忙しそうに商品を運ぶそばで、観光客たちが店を眺めながらゆったりと歩いている。台湾各地に古くからある商店街では、現代的でありながら伝統を感じさせる独特の光景がある。そんな風景の中でとりわけ伝統文化の象徴とされるのが「街屋」だ。現代建築と比べると素朴なものだが、それらはその歴史的意義により、今も輝き続けている。
古代中国の都市では商業区と住居区が比較的明確に分けられていたが、やがてそうした区分は厳密に行われなくなり、1120年頃からは商店と住居の機能を兼ね備えた「街屋」が、福建や広東地方で次々と出現し始めた。
伝統建築が中庭をぐるりと囲むような間取りで間口も広いのと比べると、街屋は奥に細長くて間口が狭い。とはいえ、その内部はかなり凝った構造になっている。
建物の正面側に位置する一つ或いは二つある「坎」と呼ばれる空間は、客を迎えたり商品を置いたりする商売のためのスペースだ。その奥に進むと中庭によって店先と隔てられた二つの「落(居住空間)」があり、そこは主に生活空間として使われた。
また中庭の端には「過水」と呼ばれる小さな空間が巧みに設計され、台所や収納スペースとして活用できるようになっている。
こうした街屋建築は、中国の福建や広東地方から台湾やシンガポール、マレーシアなどに移り住んだ華人によって各地に広まっていった。台湾の街屋を研究する李東明さんは、『百年街屋』や『街屋視野』といった多くの著作を執筆しているが、こうした街屋は「僑郷建築(華僑居住地域の建築)」と呼べると言う。

台北の大稲埕では街屋の中に入ってみよう。隣り合う街屋が共同で作った中庭を発見できるかもしれない。
素朴な「僑郷」から豪華な洋式へ
台湾で初期に作られた町の中で、商業の中心となった地区には、必ず通りを挟んで街屋が並ぶ商店街があった。当時の人々は十分な資金があるとは限らず、お金を出し合って共同で家を建てた。したがって街屋は隣家と共通の壁を持って連なっており、密集しながらも整然とした街並みを形成していた。俯瞰すれば、その連なりはまるで大きなムカデのように見えるが、武装集団による襲撃なども多かった時代に、こうした作りは盗難や攻撃を防ぐ役割も果たしていた。
また初期の街屋は、工法や建材も簡素なものだった。例えば、土壁を保護するために、壁の外側に瓦を魚のウロコのように貼り付けた工夫があり、これは「穿瓦衫」と呼ばれる。ほかに、現在も鹿港に残る「甕窗」は、陶器のカメを並べて窓の格子代わりにしたもので、使えないカメを捨てずに装飾として再利用する、いわば資源の活用という目的があった。
台北の大稲埕に現存する街屋の中には、後に発展していく華麗なファサードを持たない建物が残っており、台湾の街屋の最も初期の姿を知ることができる。
1858年に台湾のいくつかの港が開港されて通商が始まると、洋行や領事館、倉庫などにコロニアル様式の回廊を持つ建築が出現し、その影響を受けて1860~1895年の貿易港一帯では、レンガ造りのアーチ形回廊を持つ建築が流行した。
とりわけ、手すりや花台でよく用いられた花瓶形の欄干は、西洋建築の影響を受けたものだ。李東明さんによれば、「西洋の建造物とその商いの豪華さを目の当たりにした当時の台湾人は、我も我もと西洋建築を模倣し、街屋のファサードを洋風にしていきました」と言う。
台北市南京西路と塔城街の交差点辺りにも、当時は欧米の商人が建てた洋館が6棟あった。そのためこの辺りは「六館街」と呼ばれており、台北大稲埕の街屋の洋風化に影響を与えた場所の一つともされている。

1851年落成の林五湖祖厝は、台北市迪化街で最初の街屋だと考えられ、保存状態の最も良い閩南式街屋でもある。
建築による競争
19世紀、台湾の社会や経済が劇的な変化に直面したことで、建築にも大きな変化がもたらされた。そうした変化の推進力となったのは、洋行の建物だけでなく、世界の建築思想を吸収した近藤十郎、森山松之助、井手薫といった多くの日本人建築家たちだった。
当時の植民政府は、セメントやレンガの技術、或いは洗い出しや人造大理石といった画期的な建築技術を導入し、現総統府や公売局、台北賓館などの公共建築に応用していた。その影響で、街屋も2階、3階と高さを増しただけでなく、新古典主義や後期ルネサンスといった建築様式を模したスタイルが台湾全土でブームとなり、街屋の外観もさらに西洋化が進んでいった。
それが最も顕著に見られたのは、バロック建築の影響を受けて出現したペディメント(建物正面上部の壁面)だった。街屋の屋根の正面側は、それまでのシンプルで直線的なものでなく、半円形やピラミッド形といったさまざまな形で天空に向けて突き出すようになった。
ほかにも豪華になったのは2階部の正面で、美術展示さながらに各種装飾が施されるようになった。洗い出し技術によって石造り風にしたり、花や葉などの植物模様で浮き彫りのように飾られたりした。1階の店先の騎楼(アーケード)を支える円柱も、ギリシャ風のものが作られたり、円の3分の1や4分の1の形のレンガを積み重ねたものが出現したりしている。
こうして街屋のファサードは、商家が自らの富を誇示して競い合う手段となった。当時の商店街には大声で呼び込みをしてはいけないという暗黙の了解があったため、工夫を凝らしたファサードは、まるで一種の発信方法のように、どの商店が最も立派で注目を集められるかを競い合っているようだった。
李東明さんによると、日本政府は1912年に台湾全土で「市区改正」計画を開始し、各地の街屋にもその法令に準じた改修を義務付けた。
桃園市大渓の商店街も、1919年の再開発で下水道システムを整備し直したほか、道路幅を拡張したため、商店のファサードも改築されることになった。工事期間中はファサードに黒い布が掛けられて周りからは見えないようになっており、その背後で秘かに競争が繰り広げられていた。最後にベールがはがされてみると、勝利を収めたのは、大渓の名士であった呂鷹揚とその息子の呂鉄州が経営する「蘭室」だった。
「蘭室」の正面上部には翼を広げて飛翔する鷹の彫刻が置かれ、建築には森山松之助が当時常用したノーマン‧ショウのスタイルが取り入れられており、現在もなお多くの観光客を魅了する建築となっている。
戦後になると世界的にバウハウスのデザイン運動が起こり、そのモダニズムが台湾にも浸透してきた。街屋のファサードもそれまでの華美な様式は捨て、シンプルさを追求し始めた。だがこの時代になっても、ファサードによる商店の「発信」は続いていた。
例えば、台北の大稲埕にある「乾元薬行」の建築スタイルはモダニズムによる装飾でありながら、ペディメントに設けられた丸窓の周囲には漢方薬の人参の浮彫りが巡らされており、字の読めないお年寄りも一目で薬材が買える店だとわかるようになっている。
石柱と圧艙石(航行を安定させるため船底に積み込む石)で支えられた街屋は、台湾の西洋建築の先駆的存在だと言える。李東明さんによれば当時の石柱1本の価格は街屋1軒にほぼ等しく、この工法のぜいたくさがわかる。
亭仔脚の日常と多様性
現地の風土に合わせて無数の変化を生んできた街屋は、まるで大型キャンバスのように、台湾でも時代の変化を描き出してきた。それを語るには前述のファサードのほかに、「亭仔脚」にもふれないわけにはいかない。
街屋の1階の表側は騎楼(アーケード)になっていて、この部分は台湾語で「亭仔脚」(tîng-á-kha、或いは「亭仔跤」、現在は「騎楼」と称されることが多い)と呼ばれる。
この建築の起源は定かではないが、多雨多湿の気候が関係しているとされることが多い。とりわけ激しい夕立や雷雨に襲われることの多い台湾では、店先のこの小さなスペースに入って人々は雨をしのいできた。
亭仔脚は清の時代にはすでに商店街の普遍的な光景となり、店先を後退させて作り出したスペースだった。そのほかにも、港の近くなどでよく見られる「軒亭式」は、商店街両側の店の中間に設けられたものだ。つまり通りの屋根としてアーケードを巡らせ、完全に雨風を避けて商店街を歩けるようにしたもので、「不見天(天を見ない)」という別称もある。この形式は、鹿港の町のものが特に有名だった。
亭仔脚は昔から、洗濯物を干したりするのにも使われるし、旧暦の1日と15日に神を祀る儀式なども行われてきた。商いが盛んになるにつれ、そこはさまざまな商品の陳列場所や出入荷の一時保管所となり、茶商なら茶葉を選んだり乾燥させたりする場所となった。客が訪ねてくればそこに腰掛けを出してきて、茶を淹れて接待する場ともなった。
いわゆる「鹿港三不見」とは、鹿港には「不見天」「不見地(石畳で泥の地面が見えない)」「不見女(纏足の女性が輿で移動していたため女性の姿が見えない)」の三つの「不見」があるという意味だが、そのうちの「不見天」は、市区改正計画の実施に伴う道の拡張で取り壊され、記憶の中だけの光景になってしまった。だがその一方で、亭仔脚は法規によって形式やサイズが統一されるようになり、おかげで人々の行き来しやすい、まっすぐに続く亭仔脚が誕生し、台湾の街屋風景を象徴する存在となっていった。それに対して東南アジアでよく見られる騎楼「五脚基」は統一性に欠けており、台湾の亭仔脚とは対照的だ。
ちなみに当時の建築技術の限界もあって、初期の亭仔脚はアーチ形の設計、或いはレンガ造りであることが多かった。高雄市旗山区にも石造りのアーチ形をした亭仔脚が残っている。旗山で採掘した石を積み上げて形作ったもので、一つのアーチに平均33個の石が用いられ、当地の特色ある建築となっている。
モダニズムがブームになると、華やかなペディメントは流行しなくなり、目立たない方法で店の特色を出すようになった。写真は乾元薬行のペディメントで、人参の模様に囲まれた窓がある。
街屋でつながる台湾と世界
台湾の街屋の魅力は、その歴史の積み重ねだけではなく、この地で出会って融合してきた多様な文化が感じられる点にもある。
街屋の研究をする李東明さんも次のように語っている。街屋には、清の時代の伝統的なスタイルや、日本統治時代に導入された各種の西洋的な設計、そして戦後のモダニズムによるシンプルな様式など、異なる時代や地域の建築スタイルが見られ、いずれも台湾と世界との密接なつながりを示している。「これらはすべて、私たち台湾だけが持つ独自の特色です」
台北の大稲埕は、異なる時代に建てられた街屋が1ヵ所で見られるという台湾でも数少ないスポットだ。そこを見て歩く場合は、決して急ぎ足で通り過ぎたりすることのないようにと、李さんは注意を促す。延々と続く亭仔脚を歩きながら、それぞれの時代に台湾の人々が、世界中の文化や美意識を取り入れながら築き上げた建築美を堪能できる。そしてそこに集まる台湾各地の、または世界からの数多くの豊かな味覚を味わってみてほしいと言う。
「大稲埕迪化街での試食は、商品のほんの少しをくれるのではなく丸ごとくれますよ。だって、ここの商人たちは遠慮なんてしませんからね」と李さんは笑いながら言った。
食べることも見ることも終わった後は、これらの商店に伝わる数々の逸話に耳を傾けてみるのもいいだろう。
例えば、布屋で商いを始め、後に食品を売るようになった「義裕商行」のペディメントには、パイナップルの装飾が彫られている。これはまるで台湾のパイナップルが後に世界に名を馳せるようになることを、同店創設者の謝成源が予告したかのようではないだろうか。
または、迪化北街にある「聯華食品」のファサードは、5棟から3棟のつながりに縮小されたとはいえ、日本統治時代には総督も訪れたというダンスホールがあった時代の華やかな面影を今も残している。
楽しく語らいながらのこうした逸話の一つ一つに、誰もが時空を超え、贅沢に酔いしれた黄金時代を垣間見る思いがするだろう。そして台湾がいにしえより、世界と密接につながっていたことも実感できるはずだ。

壁の洗い出しやギリシャ風の浮彫りから、当時の台湾の建築家が伝統様式や西洋の工法を工夫して組合わせていたことが見てとれる。

華やかな装飾とさまざまな曲線を持つペディメントが、空を背景に変化に富んだ風景を生んでいる。

李東明さんは近年、数冊の著作を出版し、大稲埕の豊かな街屋建築文化を保存して故郷の文化を守るために尽力している。

長く続く騎楼は、雨の日でもゆっくりと歩けるし、歴史をかもし出す格好の背景となるため、多くの人がここで写真を撮っていく。

所狭しと商品の並ぶ騎楼や絶え間なく出入りする客たちを見ていると、ここが商業の要所だった頃の繁栄が戻ってきたかのようだ。

所狭しと商品の並ぶ騎楼や絶え間なく出入りする客たちを見ていると、ここが商業の要所だった頃の繁栄が戻ってきたかのようだ。

台湾各地にある古い商店街を訪れるなら、食べ物やおみやげを買うだけでなく、そこにある建築物を見上げ、それらが留める歳月を味わってみよう。