ファッションの都パリに進出するというのは、すべてのデザイナーの夢だが、洪麗芬はそれを実現させた。
2010年に洪麗芬はパリのパレ・ロワイヤル前のリシュリュー街に、本名のソフィー・ホン(洪麗芬)をブランドとしたブティックを構えた。17世紀のフランスを思わせるレトロな回廊に、中国的味わいのエレガンスを展開する。
洪麗芬はファッション界では台湾の星で、世界共通の言語であるファッションで、台湾とフランスに交流の道を開いた。2012年にはフランス政府から長年の努力と貢献を評価され、シュヴァリエに叙せられた。ファッションに国境はない。洪麗芬は台湾で成果を挙げ、さらに世界の舞台に立ち、業績を上げてきたのである。
2012年9月末のパリは秋風が吹きすぎていたが、姿かたち、肌の色の異なるモデル26人が、ソフィー・ホンのデザインした湘雲紗のペザント風パンツ、コートや巻きスカート、ドレスを身にまとい、台湾の木製サンダルを履いて、朝の光の中、パレ・ロワイヤルからルーブルに姿を現した。
モデルが身にまとったすっきりとしたデザインのドレスからは、2013年春夏コレクションの息吹が感じられ、石畳を踏む木製サンダルの音が過去に引き戻される足音のようである。新旧が融合し、伝統的なのに独創性を感じさせるソフィー・ホンの美学が、行きかう人々の目を捉えた。
「日常生活が舞台なのです」と、2ヶ月に1度はパリを訪れるソフィーは話す。何気なく見える朝の散歩の演出も、フランスの舞台監督ジュリエット・デシャンと綿密に企画し、モデルを選び、稽古を重ねたものである。現場にはコーヒーの香りが漂う中、チェロの優雅な楽音が響き、街角からふっと現れるモデルが織り成すショーは、あくまでも新しく、それでいてパリの街角に溶け合っていた。

これほどの規模で、独創的なファッション・ショーをソフィー・ホンが企画したのは、まずは自分のブランドの知名度を高めるためだが、また年に一度のパリ・コレクションに狙いを定めたためでもある。「ここにベースを固めてからは、ショーがさらに有意義になりました」と彼女は言う。
わざわざ遠くのパリ、しかもパレ・ロワイヤル近辺にソフィーがブティックを構えたのは、何のためなのであろうか。
「それは世界に知らせるためです」と、彼女は答える。わずかに11平米の小さな店だが、ここに拠点を持つということは大変な価値がある。
ルーブル北翼のパレ・ロワイヤルは、17世紀にリシュリュー卿が10年をかけて建設したもので、その壮麗で豪壮なことは言うまでもない。数百年の間、顕官貴族、芸術家、社交界の花が行きかう場所だったが、現在はフランスの文化庁など、行政機関が入っている。その前のリシュリュー街は、フランスでももっともファッショナブルなストリートで、歴史ある遺跡でもあるので、ここに店を構えるには文化庁の厳しい審査に通らなければならない。
ソフィー・ホンがここに出店して、街は一層華やぎを添えた。ルイ・ヴィトンの観光案内のお勧めリストにも入れられ、「木製サンダルを履いてアベニューを行き来し、カフェに座ってコーヒーを飲むのです」という光景が人目を引いた。

尽きることのない闘志と創作力を持つソフィー・ホンは、さまざまな芸術団体とも協力している。台北芸術大学の張暁雄・副教授が振付けした舞踊劇『離騒』の衣装も彼女が手掛けている。
ソフィー・ホン(洪麗芬)は1956年に新竹に生れ、幼い頃から可愛らしく、その後の専門的訓練があって、さらに個性を磨いた。155センチと小柄ながらトレードマークの眉までの長さに揃えたおかっぱ頭に、自分でデザインした高い襟の衣服を身に着けると、まるで張愛玲の小説から抜け出してきた人物であるかのように見える。
母が中学3年のときに世を去ったため、独立心の強い性格が養われた。七夕生れの彼女は、自らを天性の織姫と見なしている。
しかし、ソフィーはファッション・デザイナーと言うより芸術家である。絵画、彫刻、彫金にも巧みで、永康街のアトリエ兼ブティックには様々な生地で作られた絵画が並び、鉄線を曲げて作った椅子や重厚なドアの取っ手、帽子掛けは自作である。
1977年に実践家政(現在は実践大学)服装科を卒業してから、牛耳時装公司を設立し、デザイナーへの路を進んだ。
彼女に言わせると、デザイナーになったのは「自分にも、家族や友人にも服を作る必要があり、スタイルの悪さをどう隠せばいいかよく分っていたから」と言う。台湾人は着こなしに特色がなく、まずは隣国日本に倣い、ついでヨーロッパの流行遅れのファッションを取り入れていて、自分にあったファッションがなかったのである。そこでソフィーは生活の中から素材を探し、原住民の織物や、閩;南、客家文化を取り入れ融合してデザインに使った。
ショーにも、自分用にも使う木製サンダルも、生活から来たものである。このサンダルは、子供時代の生活の一部だった。「台湾の魚市場は地面が濡れていたので、木製のサンダルを履いていました」と言うが、ハイヒールのように疲れないし、高く見せる効果もあり、しかも特色があるということで、彼女のもう一つのトレードマークになった。

ソフィーの座右の銘は「正しい人が正しい衣服を正しい時間に着る」である。
いま何が流行しているのかとよく聞かれるが、ソフィーは何でも流行していると答える。デザインは流行を追って毎年変更する必要はない。シャネルのスーツは4つポケットで、バッグは格子のステッチである。買う方も流行を追うのではなく、自分に似合ったファッションを選べばいい。
ソフィーのデザインはシンプルながら極めて個性的である。それは彼女が独自に開発した湘雲紗の質感を使いこなしていることと、そして、ゆったりとシンプルなラインが構成するまっすぐでエレガントなスタイルが特徴的だからである。
「私の創作理念では、シンプルが原則です」と言う通り、ファッションは実用芸術で、美しく、着やすく心地よく、洗濯しやすくなければならない。
ソフィーはスタンドカラーを好む。襟を立てると顔が浮かび上がるからで、立体裁断で女性の肩、背中から腰のラインが優雅に表現できる。
ソフィー・ホンのデザインは建築的で、流れるように伸びていく空間を生み出すという人もいる。
林清玄は、東洋芸術では線の美を強調し、西洋芸術では立体と空間を重んじると述べ、一文に「ソフィー・ホンの特殊なところは、西洋芸術を使って東洋の伝統を表現したところにある」と書いた。
線や空間の美の素人であっても、ソフィー・ホンのデザインの繊細な技術は理解できる。どれもリバーシブルで、黒に青緑を組み合せていたりする。またコーディネートが自在で、ベストに上着、さらにベストを重ね着できる。

尽きることのない闘志と創作力を持つソフィー・ホンは、さまざまな芸術団体とも協力している。台北芸術大学の張暁雄・副教授が振付けした舞踊劇『離騒』の衣装も彼女が手掛けている。
1990年に、ソフィー・ホンは人生の新しい段階に足を踏み入れた。台湾大学フランス語科のフランソワ・ジルバーバーグ教授(フランス書籍の書店ル・ピジョニエの創設者)と知り合い、ここからフランスとの繋がりが始まったのである。さらにこの年、湘雲紗の古い製法の研究を開始し、幾多の改良を経て、様々な色彩の手触りがよく皺になりにくいソフィー紗を生み出した。
湘雲紗は明朝の中国東南沿海部に始まる伝統的な製法の紗で、皮のようにしっかりした質感なのに、羽のように薄い生地である。昔ながらの製法は複雑で、当時、その技術はほとんど失われかけていた。これは白い絹地を地面に敷き、植物の根からとった染料をかけ、太陽にさらして色を定着させ、さらに川底の泥をかけて出来上がる。
ソフィー・ホンは、湘雲紗で縫製した衣服を纏った古人を古書籍で見て、その鮮やかでしっかりした質感に感銘を受け、どのような生地で出来ているのかと好奇心がわき、あちこち探し回った。そこで湘雲紗に出会ったのである。伝統的な製法では硬くなりすぎる紗を柔らかくする製法を考え、またコーヒー、ワインレッド、翡翠などの色彩を加えた。こうして改良を加えた湘雲紗は、ソフィー紗と呼ばれるようになった。
製造段階はすべて手作業とソフィーは言う。機械で染色すると、立体感が出ないのである。さらに手づから染料の桶を運び、50メートルの長さの生地に大きな字を書くように染料を載せていく。
湘雲紗はソフィーの創作ではないが、古い製法に新しい生命を吹き込んだのは彼女である。そのため湘雲紗は彼女の作品には欠かせない素材となった。

逝去した友人、台湾大学フランス語学科のフランソワ・ジルバーバーグ教授のル・ピジョニエ書店(信鴿書店)を引き継ぎ、またフランス政府からシュヴァリエ勲章を授与されたソフィー・ホンは、今後も台仏間のコミュニケーションと交流の架け橋の役割を務めていく。
ソフィー・ホンの作品はすべて手作業で、生地も厳選しているため、1点少なくとも1000米ドルとお安くはないが、パリのガリエラ美術館にコレクションされており、また忠実なファンも少なくない。
カンヌ映画祭で主演女優賞を2回受賞しているイザベル・ユベールは、ソフィー・ホンの服を身に着けると、明朝宮殿のお姫様になったような気がすると語る。
台湾文化を愛するフランス在台協会学術、教育及び文化事務所のクリストフ・ジゴドウはソフィーのファッションを絶賛し「生地1センチ毎に着る者の気持ちに合わせて動き、灰色の思考の中で波打つ。裁断した絹の道を縫製したかのようで、質感ある生地の皺が意外な出会いとなる」と記した。
重要なレセプションで、多くのセレブがソフィーのドレスを纏っている。
2000年には中国の映画女優チャン・ツィイーが、ソフィー・ホンのドレスを着て日本で映画「グリーン・デスティニー」の宣伝にやってきた。コン・リーがベニスの映画祭で着ていたのも、ソフィー・ホンのブランドだった。
ファッション・ショー向けデザインばかりではない。ソフィー・ホンの豊かな創造力は故宮博物院や歴史博物館のスタッフの制服デザインから、「マクベス」の舞台衣装や人形劇「秋夜梧桐雨」の衣装などにも発揮された。また台北芸術大学舞踊学部准教授張暁雄振付で、4月に台北芸術大学で上演された舞踊劇「離騒」の衣装も、ソフィー・ホンのデザインしたものである。

昨年9月、洪麗芬(ソフィー・ホン)はパリのファッションウィークで、一味違う街頭のショーを行なった。歴史的建築物が並ぶコレット広場に緩やかな音楽が流れ、カフェのコーヒーの香りの中、2013年春夏の新作を発表した。
「私のファッションは、着てもらう事を求めていません」というように、ソフィー・ホンは他のデザイナーのようにブランドとしてデパートにテナントを設置せず、オートクチュール・クラスの芸術品としてデザインされたドレスを、路地裏のブティックにひっそりと隠している。
創作は自己一人の力でもできるが、流通チャネルの管理はそうはいかない。「対外的なチャネルをどこに求めるか」と、流通チャネルの模索がソフィーと台湾デザイナー共通の問題だった。
1994年にオルセー美術館の傍らに台湾文化センターがオープンし、これを祝って「台北の魅力」と銘打った台湾のデザイナー11人のファッション・ショーがパリのホテルで開催された。無論、ソフィー・ホンもこれに参加した。
その後、ソフィーは1994年から96年に奨学金を受けて、フランスで時計の構造とデザイン、アクセサリーとの組合せ、ファッションデザインを学ぶことができた。
1996年にソフィー・ホンは初めてパリ・コレクションに参加し、フランスと台湾との間にファッションの架け橋を渡した。その後はパリから世界の市場に乗り出し、1999年からニューヨークの春夏コレクションに参加し、2000年には東京コレクションに参加し、日本のファンも獲得した。
2010年にはパリに自分のブティックをオープンさせ、ソフィー・ホンの世界市場への足がかりとなった。台湾から始まり、東京、ニューヨーク、パリと駆け抜けてきたが、ソフィーは台湾から完全に離れることはない。
永康街のブティックは、あたかも俗世と離れた静けさに佇むかのようである。ブティックオープンから20年余り、親友のフランソワの没後に、ソフィーはその残したル・ピジョニエ書店を引き継いだ。ファッションと出版の二つを手がけるが、実は両者の内面に差異はない。現在、台中にもブティックをオープンする計画だが、台中店はファッションと書店を結合する予定である。ソフィー・ホンは常に交流を続け、ファッションとそれ以外の世界とを結び付けてきたからである。

逝去した友人、台湾大学フランス語学科のフランソワ・ジルバーバーグ教授のル・ピジョニエ書店(信鴿書店)を引き継ぎ、またフランス政府からシュヴァリエ勲章を授与されたソフィー・ホンは、今後も台仏間のコミュニケーションと交流の架け橋の役割を務めていく。

尽きることのない闘志と創作力を持つソフィー・ホンは、さまざまな芸術団体とも協力している。台北芸術大学の張暁雄・副教授が振付けした舞踊劇『離騒』の衣装も彼女が手掛けている。

尽きることのない闘志と創作力を持つソフィー・ホンは、さまざまな芸術団体とも協力している。台北芸術大学の張暁雄・副教授が振付けした舞踊劇『離騒』の衣装も彼女が手掛けている。

昨年9月、洪麗芬(ソフィー・ホン)はパリのファッションウィークで、一味違う街頭のショーを行なった。歴史的建築物が並ぶコレット広場に緩やかな音楽が流れ、カフェのコーヒーの香りの中、2013年春夏の新作を発表した。

昨年9月、洪麗芬(ソフィー・ホン)はパリのファッションウィークで、一味違う街頭のショーを行なった。歴史的建築物が並ぶコレット広場に緩やかな音楽が流れ、カフェのコーヒーの香りの中、2013年春夏の新作を発表した。