50年前、屏東県では1本の椰子の木の生産高で大学生一人を養うことができた。30年前、南投県竹山鎮では住民の7割以上が竹細工産業に従事していた。20年前、桃園県鶯歌鎮では陶磁器の輸出高が200億台湾ドルを超え、鶯歌は台湾でベンツが最も多い町となった。しかし時代は移って産業構造が変わり、かつて豊かだったこれらの町村は衰退していった。
製造業やハイテク産業は海外受注の動向や工場移転、国際的な貿易制裁などの大きな課題に直面するが、地方産業は違う。一本の老樹のように、時には害虫の被害にも遭うが、強い生命力と土の養分によって生命を保ち続け、地方に新たな価値をもたらし、まったく新しい産業のブームを巻き起こすこともある。
南投県魚池郷、深い山に囲まれた日月潭は有名な景勝地だ。その魚池郷の渋水地域は、ここを訪れる旅行者にとっては通り道に過ぎないが、実はここは日本時代に天皇に献上されたこともある紅茶の産地なのである。渋水の人々は今、かつての名声を取り戻そうと「森林紅茶」「膨鼠紅茶」「紅菓紅茶」といった新たなブランドを打ち出そうとしている。
魚池の紅茶産業は30年前に衰退した。当時、農家の人々は出荷量を増やすために新茶に古い茶葉を混ぜて品質を落とし、そのためにヨーロッパ市場を失ってしまったのである。また茶摘みの人件費が上って機械による収穫に変えたが、草刈り機のように茶葉を刈る機械だったため、茎が混入した。こうして魚池の紅茶は市場を失い、多くの農家が利益の上がるビンロウ栽培に切り替えた。

台湾にはかつて地方産業で栄えた地域がたくさんあり、その再興が待たれている。南投県魚池郷は、日本時代には天皇にも献上される上質の紅茶の里だった。写真は、農業委員会茶改良場魚池分場の紅茶畑だ。
山に育つおいしい紅茶
省道21号線から渋水へ向かうと山の斜面一面にビンロウ樹が植えられ、その隙間を縫うように茶畑が見える。だが以前は管理が悪かったため、ここの茶葉の値は低く、摘み取った茶葉をそのまま付近の製茶工場に売っていたが、こうした状況は少しずつ改善されつつある。
6年前の台湾大地震で、渋水地域の住居48棟のうち35棟が倒壊し、甚大な被害を被った。しかし地域の人々はすぐに復興委員会を結成し、本来の紅茶産業と陶土工芸を地域経済の柱として復興させることにした。
日月潭の湖畔にある農業委員会茶改良場魚池分場では、70年にわたり紅茶の新品種育成に力を注いできた。魚池分場製茶課長の黄正宗さんらが地元農家と話し合った結果「特色ある産業には台湾らしさが必要」ということになり、そこで独特の風味がある台湾の野生山茶とミャンマーの品種を交配させた「台茶18号」をこの地域で栽培することにした。
99年に「紅玉」と名づけられた台茶18号は、ニッキと薄荷の香りがする淡い褐色の紅茶で、砂糖もミルクも入れずに紅茶の香りを楽しめる。
茶改良場の指導の下、渋水の大雁村には紅茶生産販売班第六班が結成され、高品質のブランド紅茶を目指している。肥料や農薬を使わない有機農法で、手作業で一芯二葉の若芽を摘み取っている。
生産販売班長の葉金龍さんによると、かつて大量に紅茶を生産していた時には茶畑面積は1800ヘクタールに達したが、今は400ヘクタールしかなく、そのうち台茶18号は十数ヘクタールに過ぎないという。2年前、葉金龍さんは経済部中小企業創業補助経費を申請して製茶工場を建て、有機栽培の「森林紅茶」を生産している。昨年の生産量は4000キロと少なく、輸入物の高級紅茶と変わらない1キロ2000元という値がついた。

パイワン族の三宝の一つである琉璃珠(トンボ珠)、珠の図案は祖先からの祝福を表している。写真は、屏東県三地門郷のトンボ雅築ワークショップの施秀菊さんの作品だ。
101粒の真珠
酸性の土壌、昼夜の寒暖差、霧など、紅茶の生長に適した環境に恵まれた魚池郷の紅茶ブランドは国民の支持を待っている。
台湾には319の町村があり、どれもが台湾の生命力の源だ。50〜60年代の農業立国の時代、多くの地方が農林業で外貨を稼いだが、それがしだいに衰退し、地方の人口も減少していった。
しかし、ここ十数年、輸出志向のIT産業が注目される中で、政府は地方産業の復興に取り組んできた。製造業が中国大陸へ移転した後の、地方経済のエネルギーとして育成するためだ。そのために経済部は「商店街開発」「商業エリアイメージ改造」「地方の特色ある産業」などの計画を推進、また文化建設委員会は「町づくり」「文化の産業化、産業の文化化」、農業委員会は「一町村に一特産」などの計画を打ち出して指導してきた。これらの努力によって、すでに101を数える成果が出始めている。
地方産業活性化の重点は人と財を集めることだ。廉価な下請けではなく、地方の特色を打ち出してレジャーや観光と結びつけるか、あるいは科学技術によって付加価値を高めなければ、繁栄をもたらすことはできない。
政府の指導を受けて成功した例には、桃園県の鶯歌陶磁街、三峡の藍染、台中県大甲のタロイモ、南投県国姓郷のシトネラ油、中寮郷の植物染め、花蓮の石工芸、屏東県三地門の琉璃珠などが挙げられる。いずれも一つの地域あるいは町村を範囲とし、3年をかけて進められてきた。専門のチームが地元の文化関係者や飲食業者、農産物加工業者などと協力して人材を育て、創意と改善でブランドを確立し、付加価値を高めてきたのである。
経済部中小企業処の頼杉桂処長は次のような例を挙げる。50年前、南部では一本の椰子の木の生産高で大学生を一人養うことができたが、今はココナッツジュースと果肉を売ると、残った椰子の実はそのまま捨てられてしまう。そこで4年前、中小企業処は屏東科技大学や高雄区農業改良場などと協力し、屏東県老荘脚の椰子農家を対象として指導を開始した。まず椰子加工機器を開発することから始め、椰子の実を繊維と殻と果肉とジュースに分けることで、通気性の良いベッド、エッセンスオイル、椰子酒、さらに実の殻を使った楽器や風鈴、花器などを開発したのである。

竹は台湾でも最も生命力に満ちた植物の一つで、竹炭にすればそのまま健康商品になる。写真は苗栗県獅潭郷の竹炭焼場、4年生の孟宗竹を原料にしている。
スター産業の「黒いダイア」
先頃、経済部技術処と紡織研究所は竹炭のブランド「黒楽絲」を発表した。これは農業委員会林業試験所や工業研究院などが技術を寄せ合って成功した事例だ。
日本で竹炭が流行していることから、2年前に工業研究院は日本の竹炭の達人、鳥羽曙氏を台湾に招いて窯の建て方や焼成方法を学んだ。そして竹炭原料の品質を改善してポリエステルとの融合性を高めるなど、さまざまな技術的課題を克服した。そして台湾の孟宗竹を原料に、高温での焼成と乾燥を経て、竹炭をナノサイズに微粉砕し、ポリエステルに練りこんで糸を作り、その繊維を用いた下着やスポーツウエアの開発に成功したのである。
健康商品の「黒いダイア」と呼ばれる竹炭は多孔質で表面積が大きく、除湿、抗菌、遠赤外線による保温、マイナスイオン放出などの効果がある。
台湾には台北市6つ分に相当する15万ヘクタールの竹林があると言われ、竹の種類は24種に達する。竹は普通の樹木より生長が早く、4年で伐採できるため、台湾には豊富な「竹鉱」があると言える。現在、竹炭は苗栗県三湾、南投県竹山、嘉義県大埔の3ヶ所で作られており、1キロ5元にもならない生の竹が、付加価値を高めることで1000元以上の竹炭原料になったのである。
何美玥・経済相によると、台湾の繊維製品輸出高は年間125億元に達するが、価格競争に甘んじるのではなく、新素材、新ブランドで革命を起こす必要がある。

鶯歌の台華窯は芸術家に創作の空間を提供している。(右)写真は鄭善禧の作品だ。
百年燃え続ける窯の火
新産業の研究開発は一地方でできることではなく、政府からの支援が必要だが、下請けをやめて新たな市場を開拓するには、業者の決意と思考の転換も必要だ。
鶯歌の陶磁器業界で「鶯歌の故宮博物院」と呼ばれる「台華窯」の年間売上は1億元に達する。この鶯歌のトップブランドは、どのような経営手法を採っているのだろう。
50歳前の台華窯の経営者、呂兆炘さんは鶯歌の女性と結婚してこの町の住民となり、83年に建設業から転業して台華窯を設立した。台華窯は鶯歌の他のメーカーと同様に、欧米メーカーの下請けで素焼きや淡色のものを焼いていた。しかし、呂兆炘さんはこれに危機感を抱き、転換を考え始めた。「毎日注文をこなすだけで創意は求められず、注文が入らなければ何もできない」と考え、ヨーロッパからの灰皿1000個の注文を断ったのである。
呂さんは、鶯歌を訪れる人々が陶磁器を買うとそのまま帰ってしまい、町や住民との交流がないことに気づいた。しかも多くの窯は技術を盗まれることを恐れて窯を開放していない。そこで95年、呂さんは自社の展示センターの階上に100人を収容できる陶芸教室を開き、小学生や観光客が自分で陶磁器を作れるようにした。焼きあがった陶磁器は後からその人に送るので、受け取った人は再び思い出を暖めることができる。台華窯は、無意識のうちに「エクスペリエンス・エコノミー(経験経済)」の観念を取り入れていたのである。陶土に触れる経験と完成した作品を通して、鶯歌での経験が人々の記憶に深くとどめられることになった。
産業の転換のために、呂さんは中国の広州や宜興などを見学に訪れたが、これら昔からの陶磁器の町も下請け作業ばかりになっており、まったく新しい技術は見られなかった。そこで彼は「異業種」からエネルギーを得ることにした。「陶磁器産業には研究開発の人材は集まりませんが、異業種と手を組むことで大きな可能性を見出せます」と呂さんは言う。台華窯は画家や書家や彫刻家を招き、陶磁器創作にチャレンジしてもらうことにしたのである。
こうして台華窯は現代創作陶芸の領域に踏み込んだ。現在の主力商品は、30軒を超えるファイブスター・ホテルからの注文食器、西洋人が好む染付け、外務省が外賓に贈る陶磁器、陳水扁総統が晩餐会で用いる食器、それに企業のギフト用陶磁器などで、その製品は実に多用だ。
7年前に呂さんが1000万元を投じて設立した芸術センターは台華窯と数百名の芸術家が協力するギャラリーとなった。呂さんは、画家の鄭善禧と郭博州の手描きのコーヒーカップ、1組8000元のセットを手にし、世界に二つと同じものはないと強調する。

2000年に開館した台北県鶯歌陶磁器博物館は、百年以上続く鶯歌の陶磁器の歴史を教えてくれる。館内では赤いライトが千度を超える窯の内部を演出する。
本来の味わいを大切に
地方産業はさまざまで、共通の成功モデルはないが、共通の課題は少なくない。資金、人材、社会からの関心の不足、それに経営知識が蓄積しにくいといった問題がある。さらに重要なのは、デザインとマーケティングだ。
しかし、これらの問題はマーケティングの専門家に言わせれば、たいした問題ではない。
かつて大手広告会社・聯広に勤務し、9年前に「道」コレクション社を創設した呉静鴻さんは、地方の特色ある食品の販売代理権を得て、それらを中正国際空港に集め、外国人観光客に展示販売しようと思ったことがある。すべての包装とマーケティングは彼が担当し、日本の料理の達人を紹介するテレビ番組のように、製造工程を撮影して観光客に紹介しようと考えたのである。
だが、彼は会社を経営する友人から「アイディアは良いが、二つの現実的な課題に直面する可能性がある」と注意された。一つは、台湾の地方業者に品質を一定に保たせるのはむずかしいこと、もう一つは、商品に人気が出たら、業者が販売権を回収しようとする、という点である。
この指摘は正しかった。数年前に、呉静鴻さんは、ある地鶏のブランド確立に協力したことがある。春節前に集中的に広告を打ったところ、たいへんな反響があったが、春節の後に、業者は販売権を回収してしまい、呉さんは販売ルートから罵られることとなったのである。
現在すでに成果を上げている地方産業も、成熟したマーケティングには馴染まない点が多く、専門のマーケティング業者が入り込めずにいる。
「ブランドでもマーケティングでも、有形の商品や無形のサービスを消費者に認めてもらわなければならず、それを支えるのは品質です。現地の人が現地の素材や技術を用いて、情熱を込めて作った本来の味わいを持つ商品なら、マーケティングの方法は問題ではありません」と、かつて鶯歌陶磁器カーニバルのイベントを請け負ったことのある呉静鴻さんは言う。宣伝は短期的なものに過ぎず、品質を保とうという態度こそが重要なのである。

南投県中寮郷の女性たちが山で採集した植物を使って染めた布が、ファッショナブルな服飾に姿を変える。
現地の情熱を
2004年、経済部中小企業処は18の地方産業、合計380社を指導し、売上総額は前年比1.3億元増、雇用人数は400余り増えて1400人になった。
地方産業の多くは中小企業で、従業員5人以下のところも多く、こうした企業に地方経済の牽引役を期待するのは難しいが、現地の雇用機会を創出し、Uターンの流れを作る役割は期待できる。ただし時間が必要だ。
魚池の紅茶生産販売班の人数は10人に満たず、少なからぬ農家はまだ傍観している。今の茶畑を植え替えて、新しい管理方法を取り入れれば3年は収穫できず、その間は収入も得られないからだ。万一、紅茶市場が盛り上がらなければ、すべてが無駄になってしまうのである。
「地方の特産品を全世界で売るという事例は多くありません。特に台湾は、国際的ブランドマーケティングの力が弱く、むずかしいと思われます。それよりも、地方の特色を『現地化』し、観光やレジャーと結びつけるべきです。観光業が盛んであれば地方の特産品はよく売れます」と話すのは政治大学商学部の呉思華教授だ。商品を売ることだけを考えるのではなく、エクスペリエンス・エコノミーや文化クリエイティブ産業などの新しい思考と結びつけ、地域の魅力を作り出すことから着手し、旅行客にその土地に留まりたいと思わせることが大切なのである。「地方の業者は国内観光客の気持ちを理解し、この土地へ来て何を見たいのか、何を提供できるのかを考えれば、新しい可能性が開けるはずです」と言う。
呉思華教授も、地方文化にはあまり多くの専門的マーケティングは必要なく、重要なのは、その地域に対する情熱と関心だと考えている。情熱さえあれば、多くのエネルギーが生まれる。例えば、自転車で日月潭を一周する大会などを催すとして、付近の景勝地や産業集落と協力したり、いくつかの町村が共同でマーケティングを行なったりすれば、話題作りになり、マスコミも現地の人々の物語を扱うことになる。こうした活動によって、現地の人々は誇りを持てるようになり、観光客も集まってくるだろう。

竹炭に絵を描いてきれいなストラップをつければ、愛らしいギフトになる。
スモール・イズ・ビューティフル
呉思華教授は、現地の人々が仕事に対するプライドと使命感を持てば、若者も地元に残ろうと思うはずだと言う。こうしたプライドや誇りは、地方文化の独自性から生まれる。
この点で、経済部中小企業処が良い例として挙げるのは、屏東県三地門のパイワン族の女性、施秀菊さんの物語だ。
パイワン族の集落で託児所の先生をしていた施秀菊さんは、集落に伝わる琉璃珠(トンボ珠)作りの伝統が失われてしまうのを心配し、1983年に夫や叔父と一緒に「トンボ雅筑ワークショップ」を設立した。
パイワン族の琉璃珠製作については文字による記載が何も残っていないため、はじめは材料や道具なども自分たちで模索するしかなかった。二人はたくさんのガラス珠を焼いては失敗し、手には数え切れないほど火傷を負った。理想のために奮闘している時、施秀菊さんは夫を事故で失い、それからは一人で頑張ってきた。20年にわたる苦労の末、ようやく暮らしていける程度の収入に過ぎないが、ワークショップの従業員は30人を数えるまでになり、全員が、これは集落の伝統を守るための誇りある自主的な仕事であることをよく理解している。
「経済はある程度までしか発展できず、生命はある程度までしか複雑になれず、効率や生産力はある程度までしか追求できず、人間は細分化された作業にある程度までしか耐えられない」
30年前、英国の経済学者シューマッハーは著書『スモール・イズ・ビューティフル』の中でこのように主張した。高度経済成長を経験し、資本集約・技術集約型のIT大国となり、グローバル競争の中で製造業の海外移転という課題を経験してきた台湾にとって、この言葉は深い意味を持つ。
「スモール・イズ・ビューティフル」という観念は、現代経済の主流である「マキシマイゼーション(極大化)」とはまったく違うものだが、地方産業の文化価値には符合する。資本主義社会において高度な分業化が進み、人と人との関係が薄れている今日、標準化や量産化ができない地方の特産物は、かえって人と人、人と土地を近づける作用を持ち、生産者と購入者の間に親密な関係をもたらす。購入者が手にするのは商品ではなく、本来の姿にこだわった人生の物語だからだ。

鶯歌の古い町並みにある富貴陶園レストランでは、新しい感覚で陶磁器を使い、目を楽しませてくれる。
台湾の紅茶には輝かしい歴史がある。日本統治時代の1916年、日本政府が高雄の鳳山に設けた熱帯園芸試験所が、山の中で野生の茶の木を発見した。葉の大きさがアッサム茶に近いため、日本の製茶技師が簡単な機械で紅茶にしてみたところ、味も色も台湾北部の茶葉より優れていることがわかった。
1926年、日本人はインドから葉の大きなアッサムの純粋種を台湾に持ち込み、茶葉の専門家を派遣して、台湾各地の環境や土壌、気候などを調査した。そして、南投県の魚池、埔里、水里で試験栽培し、広めていったのである。
1930年になると、紅茶の主たる生産地であるインド、セイロン、ジャワなどが生産制限協定を結んで輸出量を制限したため、台湾紅茶に大きなチャンスがめぐってきた。紅茶の輸出量は一時329万キロに達し、ウーロン茶や包種茶と肩を並べた。この時期、魚池の紅茶は天皇の御用に供され、アメリカやイギリス、香港などにも大量に輸出された。
戦後、国民政府は魚池の紅茶産業を接収して台湾農林公司茶葉分社の経営下に置き、戦乱で荒れていた茶畑を積極的に整備した。1961年、台湾種アッサム茶の作付面積は1800ヘクタールに達し、そのうち南投県が1700ヘクタールを占めた。1980年代になると全台湾の茶畑は3万8000ヘクタールに達したが、アッサム茶の作付面積は増えなかった。政府が資源の多くを、国民が飲み慣れている半発酵のウーロン茶に注いだからである。
魚池分場製茶課の黄正宗課長によると、80年代以降に生まれた人の大部分は台湾紅茶を飲んだことがない。生産量が少なく、ほとんどが輸出されるからだ。当時、魚池や埔里の農家にとっては紅茶は主要な収入源で、ヨーロッパの競りでは等級分けしていない茶葉が1キロ1米ドル、作業員の日当2人分に相当する値で売れた。
その後、台湾経済がテイクオフして国民所得が上り、農村の労働力も都市へと流れていき、紅茶の生産量は減っていった。茶葉専門家もウーロン茶の改善に力を注ぎ、茶芸の流行などもあって、ウーロン茶が台湾茶の代表となったのである。
紅茶とウーロン茶の製造工程はほぼ同じだが、紅茶はウーロン茶と違って夏と秋の品質が良い。夏と秋は日差しが強くてカテキンの含有量が高まり、紅茶にすると濃い色と香りが出るからだ。
現在、台湾の紅茶畑の8割以上に大葉種が植えられているが、すでに樹齢が高過ぎるのが問題だ。新品種を植えれば、生産量も品質も高まると見られている。

独特のスタイルを見せる台北県三峡の藍染。
鶯歌の陶磁器200年の歴史
1804年、福建省泉州の職人・呉鞍が台湾に渡ってきて鶯歌に居を構え、窯を作って陶磁器の生産を始めた。日本時代、清朝の末期になると福建省からさらに陶磁器職人が渡ってきて大型陶器の生産を始め、その後、戦時中には人手不足から電動の轆轤が使われるようになった。
戦後になると、鶯歌の陶磁器産業は飛躍的に成長し、建築用タイルや浴室衛生設備などの生産を開始する。この時期、台湾と中国大陸との往来が断絶し、日本と大陸からの陶磁器の供給が途絶えており、その不足を補う形で鶯歌の陶磁器産業は急速に成長し、1950年以降は現代的な生産規模を備えるようになった。
1970年代に入ると、陶磁器の貿易黒字が大幅に増える。円高ドル安が輸出にさらに拍車をかけることになり、1987年には貿易黒字200億台湾ドルという記録を更新した。この20年が、古物を模した鶯歌の陶磁器輸出の黄金期だった。
その後、中国大陸の経済成長が始まり、海外からの注文は減少し、以前からの規模を備えるのは市拿陶磁公司と台華窯だけとなった。
1990年代になると、鶯歌は転換期を迎える。人材の断層という課題を抱えてはいたが、昔から鶯歌で生産してきた業者は、多様な芸術分野との協力を通して、陶磁器の芸術的価値を高めていった。
1999年、鶯歌の古い町並みは美しい商店街へと生まれ変わり、陶磁器博物館も誕生して、古い町並みの商店街が文化の香りに満ちたレジャー空間となった。ここに個人の陶芸アトリエが林立するようになり、芸術と観光レジャーの一体化によって、鶯歌の陶磁器に芸術化と生活化という契機が訪れたのである。

「紅玉」と名づけられた台茶18号は魚池経済復興の支柱だ。農家の人々は一芯二葉の若芽を手で摘んで「森林紅茶」を作っている。

竹炭は遠赤外線とマイナスイオンを放出する。経済部が台北動物園で開いた竹炭カーニバルでは竹炭を使った看板を設け、子供たちが竹炭の導電機能を体験できるようにした。

「紅玉」と名づけられた台茶18号は魚池経済復興の支柱だ。農家の人々は一芯二葉の若芽を手で摘んで「森林紅茶」を作っている。

鶯歌の台華窯は芸術家に創作の空間を提供している。(右)写真は鄭善禧の作品だ。