過去百年間の台湾を振り返ってみると、頻繁に統治者が変わり、不安定な社会情勢を幾度もくぐり抜けてきたことがわかる。この激動の20世紀を、台湾人はどのようにして歩んできたのだろう。かつて何を所有し、また何を後世に残し、そして、何を失ってきたのだろうか。
光華では今月号より4回に分けて、今年1月に数回にわたって行われたシリーズ講演「台湾史を知ろう」を、洪健全文教基金会及び遠流出版社との協力で紹介していきたい。奥深い内容をわかりやすく説明したこれらの講演を通して、台湾の文学や経済、社会、先住民といった各分野の歴史が理解でき、台湾が歩んできた複雑な道のりや、その成果を見つめ直していただければと思う。
「台湾文化の復権」は単なる政治的スローガンであってはならず、それはまず、認識と理解から始まる。台湾史全体に対する正しい認識を深めながら、ある時代への記憶や感情を共有することで、私たちはより広い視野に立って、自分や自分の子孫のために、より良い前途を見つけ出すことができるはずである。
今月号はシリーズ第1回として、東華大学民族発展研究所の孫大川所長による『ネイティブの声――先住民の叫び』を掲載する。
台湾史において先住民のことが語られるようになったのは、ごく最近のことである。1970年代以前は、台湾史は常に中国史の流れの中で語られていた。それは大きな間違いとは言えないとしても、台湾がこの300〜400年に歩んできた道を、それによって詳しく描き出すことは不可能であった。ところが1970年代に台湾が国連を脱退したことで、政治社会は急激に変化し、それに伴い歴史研究も方向転換が始まったのである。
国連脱退後、中華民国政府の権力の合法性は、内外から脅威にさらされるようになった。
内部からの脅威とは、次のようなものだった。五権憲法に基づく中華民国政府は、中国各省から選出された議員によって議会を開くことになっていたが、1949年に国民党政府が台湾へ移転して以来、中国全体での議員再選は事実上不可能となっており、議会の合法性をいかに維持するかが問題となった。議員の高齢化に加え、国連脱退がさらに問題を浮き彫りにしため、国内で政権の合法性に疑問の声が上がるようになったのである。
外部からの脅威とは、国際的にも中華民国の合法性が問題になったことを指す。国連脱退後、中華民国政府はもはや中国全体を代表することはできなくなり、国外の駐在機関は「中華民国」の国号を掲げられなくなってしまった。国際的な催しに参加するにも、どのような国名を名乗ればいいのかという問題が常に浮上し、中華民国の合法性が対外的にも問題とされるようになったのである。このような内外からの衝撃に直面することで、台湾史のとらえ方は、初めて構造的な変化を迎えることになった。

今回の講演をした東華大学民族発展研究所の孫大川所長は、十年余りにわたって先住民文化復権のための運動を続けてきた。隔月間誌「山海文化」を創刊し、先住民に著述活動を奨励している。
「本土化」が歴史を動かす
国際情勢、もしくは大陸との両岸情勢の変動を前に台湾はなす術もなかったが、それに応じる形で国内では、新たな動きが生まれていた。台湾文化の復権を主張する「本土化」の叫びが上がったのである。大まかに言えば、この30年の台湾史をあらゆる方面で発展させてきたのは、「本土化」の力だと言えるだろう。
政治においては、当時行政院長だった蒋経国が謝東閔を台湾省主席に任命し、林洋港や李登輝、邱創煥といった台湾籍のエリートたちを党・政府人事に抜擢するなど、台湾出身者の登用が主軸となっていく。
経済においては、国防予算から多くが経済建設へと投入され、その後の経済の奇跡のために重要な基礎を築くことになった。
社会的な本土化は、長い間埋もれていた社会の潜在力が開放され始めたことであろう。党外雑誌が続々と登場し、社会改革が大きく叫ばれ始める中で、1970年代末には、雑誌「美麗島」の関係者が逮捕される。だが、彼らはまさに、80年代中期からの政党政治を支える重要な力となった。このような社会の大きな動きが、権威瓦解や権力交代を促し、台湾社会は次第に多元化への道を歩み始めた。
文化的な本土化も、さまざまな方面に出現した。例えば、言語的な美意識に変化が生まれた。私が若かった頃は、教師やアナウンサー、司会者などは必ず正しく美しい発音の国語(北京官話)を話さなければならなかった。ところが1970年代末期に起こった林洋港旋風が、新たな言語的美感を生み出した。林洋港の話す台湾アクセントの強い国語に、親しみあふれる魅力を一般大衆が感じるようになったのである。言語的美感の変化は、その後もさらに進み、もはや国語は正しいものである必要はなく、南語を混ぜたり、或いは先住民アクセントで話すことに、むしろ生き生きとした語感を感じるようになってきた。
音楽の世界にも変化は生まれた。以前は、閩南語の歌曲はどうしても、文化的に一段低いものとして見られがちであったが、1980年代になって鳳飛飛が閩南語歌曲を多く歌うようになり、そのイメージを大きく変えた。その後も、洪栄宏や江蕙などが閩南語で歌って人気をさらい、林強や陳明章、伍佰なども閩南語でポップスやロックを創作するようになった。先住民音楽をモチーフとして用いるミュージシャンも多く、本土化の中に音楽的インスピレーションを得ようとする創作態度がもはや珍しくなくなった。

台湾に移ってきた国民政府は、先住民の名前を「漢化」する政策を採ったが、それは先住民文化に大きなダメージをあたえた。80年代に入り、本来の名前を取り戻そうという運動が始まった。
「郷土論戦」
文学の世界でも同様のことが起こった。1970年代に入る前は、反共文学や大陸への郷愁文学、モダニズム文学などが主流を占めていた。当時の政治背景や、慌しく離れてきた故郷に対する思いが、反共文学や郷愁文学を生んだという事実は理解できるとしても、西欧文学や実存主義の影響を受けたモダニズム文学は、何ら体験のないところから無理に実存体験を描こうとした結果、作品は現実から大きく乖離したものとなってしまった。
1976年、台湾では郷土文学論戦が勃興する。王禎和、黄春明、楊青矗、王拓といった作家が「文学は現実の生活を描くべきだ」と主張したのである。この論戦は、以降の台湾文学の方向性を決定することになった。例えば昨今の「都市文学」「消費文学」にいたっても、現実生活の反映という方向性を離れてはいない。
1970年代以降の30年間、台湾の各方面で本土化が進められる中、歴史、文化、政治に関らず、あらゆる分野で本土化を切り離しての論述はもはや考えられないようになった。だが、いったい「本土」を代表するのは誰なのだろう。閩南人、客家人、それとも先住民だろうか。
1980年代から歴史研究は、中国史や近代史を台湾史へと方向転換しなければならなかった。そしてその過程で次第に、以前は歴史として正視されてこなかった日本統治時代の50年や清朝、オランダ、スペイン時代のさまざまな史料が明らかになり、台湾史というものが、たとえ中国史ほど膨大な史料を持つものではないとしても、やはりそれなりの史実根拠を持つということがわかってきたのである。
こういった歴史の見直しや、国内のエスニック問題が検討される中で、先住民問題は議論されるべきものとしてやっと公に扱われるようになった。それまでの先住民問題は、「マイノリティーに対する人道的援助」というような極度に単純化された視点でとらえられるか、さもなければ、漢人の行為を過度に非難するかのどちらかだった。だがこれより後は、より客観的、健康的な視点で先住民問題が議論されるようになっていった。
文字を持たない先住民の歴史は、かつては中国史の中で常に第三者の手によって記録されてきた。つまり、先住民に対する人々の理解は間接的なものでしかなかった。かつて先住民は、歴史における不在者であり、彼らがいかに苦しんでいようとも、人々がそれを知ることはなかったのである。
1980年代に入る前は、先住民についての学術研究は、各部族の社会制度や被服、神話伝説の研究といった、人類学の分野に限られていた。それは、先住民文化をすでに死亡した標本として博物館に飾るようなものであって、生きた先住民、つまり時代の変遷の中を暮らしてきた彼らの真実の姿への理解にはならなかった。
1984年、「原住民権利促進会」が発足し、先住民が自ら声を発するようになって初めて、彼らの経済、現代社会への適応、児童の学習障害といった問題に対し、社会の関心が向けられるようになったのである。そこから、社会心理や教育といった角度からも研究がなされるようになった。
かつて声なきグループであった先住民は、歴史上「先住民がどんな人々であったか」という事実を知るにも第三者の著述に頼るしかなく、このため先住民史の遡行は、さまざまな意見の入り乱れる興味深いテーマとなった。

日本時代の「皇民化」政策によって、先住民は初めて国家意識というものに触れた。写真は日本軍が台東で徴集した高砂義勇隊が南洋に出征する時の記念写真だ。(『台湾植民地統治史』より)
先住民とはどんな人々か
清の時代には、先住民は「番」と呼ばれていた。「番」という字は本来、野獣が通った痕跡という意味を表す。清朝の文献には、毛が長く、どちらかというと動物に近いような先住民の絵が描かれており、先住民が野蛮で未開のものとして認知されていたことがわかる。清朝は台湾の先住民を統治するうえで、漢化の度合いによって先住民を「生番」「化番」「熟番」の三つに分類した。このような分類は、「自分たちと似ているかどうか」を基準としたもので、当然、先住民側に立った見方ではない。
清朝が台湾東部を開山し、当地の先住民を制圧する政策を採ろうとしたのに対し、1893年、台東で代知県の任にあった胡鉄花(胡適の父親)は、上奏文の中で強く反対意見を訴えた。東部地方の先住民は種族も複雑で、漢人がそれを理解し統治するのは不可能と考えたからだった。1895年、台湾が日本に割譲された後、人類学者の鳥居龍蔵は「私の野外研究は、この暗黒の国土を光のように照らし出すであろう」と書き記した。これと比べると当時の清朝が、いかに台湾を僻地中の僻地として扱い、統治にも消極的で、先住民に対してもまったく知識のなかったことが見て取れる。
日本人の統治政策は、清朝とはまったく異なっており、したがって「先住民とはどんな人々か」という問題も、新たな展開を見せた。
19世紀末、明治維新後に国力を増強した日本は、16〜19世紀以来ヨーロッパ中心であった世界史観に挑戦し、大東亜共栄圏の建設を図った。日本の海外進出を強く主張する勢力にとって、台湾は大東亜共栄圏の中心に位置し、北東アジアと南太平洋全域をカバーできる地点として、積極経営に乗り出すべき土地であった。
台湾を統治するため、日本が帝国の威厳をことさらに強調した事実は、多くの史料に残されている。例えば、支配者の末端に位置する警察官の場合でも、制服にどのようなボタン、サーベル、靴などを合わせるかが細かく規定されていた。つまり一種のボディランゲージによって、威厳ある社会的ムードを作りあげようとするかのような、極めて注意深い統治が行われたのである。このような方法で「威厳」を表そうとする習慣は、現在もなお台湾の年配の世代に見られる。
日本は台湾で大規模なフィールド調査を開始した。人種、資源、言語、習俗などにわたり、徹底的に台湾を研究することによって、効率よく統治を進めようとしたのである。日本人による調査規模の大きさや詳しさは、日本統治終了後50年たった今も、それをしのぐものがないことからもわかる。しかもそれにとどまらず、台湾を起点に南太平洋の島々へと調査を拡大していき、日本は膨大な資料の数々を残すことになった。

十数年の努力を経て先住民運動はしだいに将来の方向性を見出し始めた。しかし現実的には、先住民の経済や教育などの面でまだまだ大きな課題がある。
「九族」の登場
「先住民とはどんな人々か」という問いに対する答えは、すでに日本統治時代に客観的な基準が作られていた。言語、体質、宗教儀式、社会組織(例えば、プユマとアミは母系社会であり、年齢階級制がある。ルカイとパイワンは貴族社会であるなど)などを基準に分類した結果、台湾の先住民は「九族」に分けられた。この分類は、先住民の自己認識に大きな影響を与えることとなった。つまり、自分たちの集落の範囲を越えた、より大きなエスニックグループとしての認識が初めて芽生えたのである。例えば、私の母は中年になってもなお、自分が九族の一つであるプユマに属するという事実を受け入れられず、自分はピナセキ(現在の賓朗村の人々を指す)だと感じていたが、このように古くは、集落を超えたより大きな単位に自分が属するという意識はまれだったのである。また当時、日本人は先住民全体を「高砂族」と総称しており、これによって、自分たちは大きなまとまりとしての先住民なのだという意識も生まれ、そこで初めて、部族同士の相違を意識するようになったのである。
1930年代に始まる皇民化政策によって、今度は先住民に初めて国家という意識が生まれる。これはその後、太平洋戦争で先住民が天皇のために勇ましく戦うという行為につながっていく。残念なことに、日本人によって台湾の住民は上中下の三階層に分けられ、先住民はそのうち最下層に属していたため、自らが先住民だと意識することは、屈辱的なことだったのである。
戦後、台湾にやってきた国民政府は、先住民を「同胞化」する政策を採った。誰もが同じというのはよかったが、文化的差異を軽視するという欠点があった。なかでも影響の大きかったのは、先住民の氏名をすべて漢化したことである。日本時代にも同様の政策はあったが、徹底されたわけではなく、二種類の名前を併用することが許されていた。先住民の命名法には、彼らの宇宙観や価値体系が含まれている。氏名の漢化は、先住民文化を著しく損なうことになった。
例えば、蘭嶼島に住む人々は、本来なら一生の間に名前を3度変更する。蘭嶼島在住の作家、シャマン・ラポガンは、結婚前はシ・ヌライという名前だった。「シ」というのは、未婚であることを指し、結婚して子供が生まれると、父親であることを表す「シャマン」に変る。それに子供の名前である「ラポガン」をつけて、「シャマン・ラポガン」という名前になったのである。もし孫ができると、祖父であることを表す「シャプン」をつけて「シャプン・ラポガン」になる。息子が亡くなって以前の名前に戻ることは恥とされており、彼らが継嗣をいかに大切にしているかがわかる。父系の姓を中心とした漢人の習慣では、氏名を変えないことが大切とされるのと同じで、その名前がなくなってしまえば、姓名制度自身が瓦解してしまう。
「正名運動」
1980年代になり「本土化」の時代が到来すると、「先住民とはどんな人々か」という問題は、初めて先住民自身によって語られるようになった。この時代になると、中国語教育をきちんと受けて自由に文字を操ることのできる若い世代の先住民が登場し、「原住民権利促進会(原権会)」が設立され、「正しい名前を名乗ろう」「名前を返せ」「母語を返せ」「土地を返せ」といった運動が繰り広げられていった。
とりわけ「正名運動」において、原権会は1984年に「山地同胞」を「原住民」に改めることを提議した(「山地人」という名称が不適当というわけではなかったが、一つには山地に住む人々ばかりではないこと、もう一つには、「山地人」という呼称にはすでにマイナスイメージがまとわりついてしまっていた)。だが、当局や学術界の反対に遭い、幾多の曲折を経た後、1994年にやっと同法案は可決される。
先住民の主体意識がこれほどまでに盛り上がりを見せた今、これからはどのような方向に進むべきだろう。
私自身は、自らが先住民であると名乗るのを恥じる時代に育った。思い出すのは、台湾大学の卒業式だ。同級生の家族がみな卒業式に参加する中で、一人のタイヤルの同級生は家族を呼ぶことができなかった。本来なら家族の栄誉であるはずの卒業式にそれができなかったのは、彼女の家族の顔に先住民とわかる入れ墨があるからだった。
私より上の世代は、長い屈辱の時代を過ごした。老人たちが遠出をするために駅で切符を買う時のおどおどしたまなざしは、見る者の胸をつく。彼らはテレビを見ても、そこには理解できない言葉が流れているだけなのである。まるでこの世界は、彼らの存在と何ら関りがないかのように。
では、私より下の世代はどうだろう。1990年代になり、自分が先住民であることを堂々と名乗るようになってきたとはいえ、ではいった先住民とは何なのかと問われれば答えられず、文化を喪失した空洞の心を抱えているだけである。これが、現在先住民が直面している大きな問題である。
90年代にやっと憲法に
1990年代から現在にいたるまで、先住民運動はさまざまな議論を経て、すでにいくつかの新たな構想が生まれている。それらは、先住民が今後発展していくべき方向だと言えるだろう。その一つが、先住民に関する法的制度である。かつて先住民に関する法令は、行政命令だけに限られており、全国に40万人いる先住民については、省政府民政庁第四科が管轄していた。1991年の憲法改正によって、憲法に先住民の存在が記載され、ついに先住民の土地や経済、教育などについての権利や利益が、法的依拠を持つようになったのである。
1996年には、行政院に「原住民委員会」が、また台北、高雄両市にも「原住民事務委員会」が設けられ、個別の予算が編成されるようになった。その後数年間で、先住民教育法、身分法、姓氏条例、労働権保障法なども相次いで成立した。これら法制度による保障があってこそ、先住民問題は将来にわたって検討され続けることが可能だと言える。
発展するべき方向の二つ目は、先住民文化である。それは非常に広い範囲を含む。まず、先住民文学を確立することだ。現在、台湾には30名余りの先住民文学創作者がおり、すでに出版物は100冊以上に上っている。また、今年は「原住民文学選集」全四巻の出版が予定されており、大学でも先住民文学のコースを設けるところが出てきた。文学は多くの内容を表すことができる。人と宇宙、自然とのふれあいなど、文学によって自分たちを語ることができるのである。したがって先住民文学は、学術論文に劣らない重要性を持つと言えよう。
また、彫刻や刺繍、瑠璃工芸などの創作においても、先住民は大きな潜在力を秘めている。市場としてはまだ安定していないものの、今後、ポスト工業時代に突入した台湾が、レジャー産業を発展させ、生活の質や居住環境を高めようとする際に、先住民文化は新たな方向性を提供することができるだろう。
先住民音楽にも、その力強さや感化力によって、まだまだ発展の余地が残されている。映像分野でも、ここ数年、アミ・フィルム上映会や、公共テレビによるジャーナリスト養成などが大きな成果をあげ、異なった角度から台湾を理解できるような場を提供している。
これら先住民文化の発展は、今はまだ安定した足取りとは言えないながらも、強いパワーを感じさせる。
三つ目は、学術分野の発展である。この10年で、先住民研究は人類学の範疇を越え、さまざまな領域へと発展した。すでに何千編という学術論文が著されており、「原住民学」は学術的基礎を確立したと言える。東華大学には「原住民民族学部」が設立され、現在2学科2研究所からなるが、今後更に2学科と博士課程を増設する予定である。20数ヘクタールある学部キャンパスから、1年間に300名、10年で3000名に及ぶ先住民学専門家たちを送り出せることになる。彼らはまさに、将来の希望を担う若者たちだと言えよう。
地域に根ざす
四つ目は社会経済の発展であるが、これは最も脆弱な分野だと言えよう。
先日、ある友人がドイツ留学から台湾に帰国し、感慨深げにこうもらした。近年、台湾の先住民運動はかつてない盛り上がりを見せている。だが、彼が7〜8年前にフィールドワークのために先住民集落へ戻った際に目にしたのは、あいかわらず人影のまばらな集落に暮らす孤独な老人たちであり、学校を中途退学した青少年であった。「この落差に気づかないのかい?」と彼は訴える。
実は私もまったく同じことを感じていた。先住民集落の復興には、全体的な村おこしが必要で、そのためには多くの問題が解決されなければならない。政府や研究者はそれに協力することはできるが、最後にはやはり先住民自身の強い意識がなければ実現できないのである。そのうえ、資金や資源の運用も順調にいっていない。先住民には経済力がまだ不足しており、多くは融資を受けて事業を起こす。だが、うまく運用できずに、かえって巨大な債務を抱え込むことになってしまうのである。経済問題は、先住民が立ち向かわなければならない最も困難な課題であろう。
今回の講座は、台湾史への反省から始め、「先住民とはどんな人々か」という疑問を遡り、そのうえで、先住民の意識――迷いや矛盾、悲しみといったものを紹介させていただいた。これら先住民の世界を深く理解すればするほど、さらに細かく、そして「人」としての視点から先住民問題を見つめることができるのである。先住民問題は言いかえれば、台湾文化の優良性を示す試金石であり、また、先住民問題をいかに解決していくかで、台湾社会の文化的レベルが推し量られるのだと言えるだろう。