台湾高鉄は台湾に第三次空間革命を起こした。(台湾高鉄公司提供)
午前中は南台湾墾丁の熱帯の海でダイビングを楽しみ、午後には北回帰線を越えてダウンジャケットに着替え、北部の山間の小さな町、平渓で天灯を上げる。このように南北400キロにおよぶ日帰りの旅を可能にしたのは、『オズの魔法使い』に出てくるルビーの靴でもなければ、孫悟空の筋斗雲でもない。高速鉄道(台湾高鉄/THSR)のおかげで、一日のうちに多様で豊富な体験ができるようになったのである。
高速鉄道に乗ると、新しい窓が一つ開けられたような体験ができる。沿線の都市や山河、海岸線などから台湾の輪郭が見えてくるのである。そして、台湾高鉄の桃園駅5番出口、運務ビル内にある「台湾高鉄探索館」を訪れると、もう一つの窓が開かれる。台湾高速鉄道の当初の青写真から技術開発、安全で効率の良い運営まで、その誕生の物語が一覧できる。

白地にオレンジ色のラインが入った台湾高鉄の車両が台湾に到着した時の様子。台湾高鉄は日本の新幹線車両700T型を採用しており、日本にとっては初の新幹線海外輸出となった。(台湾高鉄公司提供)
空間革命
「台湾高鉄探索館」に足を踏み入れると、まず目に入るのは、鉄道による台湾の空間革命の歩みである。台湾の鉄道の歴史は清の時代に始まった。初代巡撫の劉銘伝は台湾に鉄道を建設したいと考え、西太后に上奏した。その際、劉銘伝は特に「官督商辦」の四文字を書き込んだ。つまり資金は民間で募り、政府が出資する必要はないという意味で、まさに台湾のBOT(Build-Operate-Transfer)の始祖とも言え、この方法で建設された台湾高鉄とつながる。その後、日本統治時代には404.2キロにわたる西部縦貫線が完成し、台北から高雄まで12時間ほどで行き来できるようになった。これが台湾の第一次空間革命である。
第二次空間革命は戦後になる。台湾鉄路の列車がジーゼル動力になり、1966年には台北から高雄までの光華号の運行時間は4時間半に短縮された。1979年に運行が始まったEMU100型自強号は、これをさらに4時間まで短縮した。
第三次空間革命は、高速鉄道の誕生である。1999年に着工し、2007年に開通した台湾高鉄は、台湾の鉄道技術に新しい時代を開いた。高速鉄道の時速は315キロ、台北から高雄までを最短で1時間34分で走る。全長350キロに12の駅があり、11の県と市、76の郷鎮を通る。2010年には乗客数がのべ1億人を超え、2024年にはべ9億人に達した。2025年の一日平均の乗客数は21万94人に達する。高速鉄道は、現在の台湾での生活に欠かせない存在となっている。

台湾高鉄は台湾の日帰り圏を大幅に拡大し、また南北の発展の差を縮小したと語る鄒衡蕪・副総経理。
現地を訪れ、リアルに体験
2007年、台湾は日帰り生活圏を実現した。台湾高鉄の広報‧PR処の鄒衡蕪副総経理は、高速鉄道の開通による最も顕著な変化は通勤圏の拡大だと語る。かつては新竹から台北までの通勤が限界だったが、現在では、台中から台北に通勤する人も少なくない。「台北から西部のどの駅に行っても半日または一日で余裕をもって自宅へ帰ることができ、効率が上がっただけでなく、生活も楽になりました」と言う。
スピードが距離感を縮め、台湾南北の発展の均衡も取れる。「例えば文化や芸術の分野でも、ここ数年は中南部の方が台北よりイベントが盛んなほどです」と鄒衡蕪さんは言う。
台湾旅行はまさに「高速スロー‧トラベル」という新たな時代を迎えている。高速鉄道のスピーディな連結によって、都市と地方の移動時間が大幅に短縮され、旅行者はより気軽に自分のペースで目的地を楽しめるようになったと鄒衡蕪さんは言う。台湾高鉄は移動手段の提供に留まるのではなく、旅行資源を統合するプラットフォームも打ち出している。各地の観光スポットと関連産業をつなぎ、交通と観光を統合した「高鉄假期」を打ち出している。外国人観光客に向けた「THSR Pass」という優待プランもあり、短時間で台湾各地の豊かな景観に触れることができる。
これも台湾高鉄の「Be There」というブランド精神と呼応している。外国の人々は、半導体で知られる台湾のTSMCや「台湾感性」という言葉を知っているかもしれないが、本当に台湾人の性格や考え方を知るには、自ら体験し触れ合ってみなければならない。「Be There」によってのみ、リアルな体験ができるのである。

高速鉄道を利用すれば、台湾をより深く知ることができる。Be There――現地でリアルに触れることで台湾が見えてくる。(台湾高鉄公司提供)
台湾にふさわしい高速鉄道
世界で高速鉄道が発達している国と言えば、日本とフランスが有名で、それぞれに異なる特色と強みがある。「台湾は当初、欧州と日本のシステムを参考にして台湾にふさわしい部分を採用したので、台湾高鉄は台湾特有の高速鉄道システムになっています」と鄒衡蕪さんは言う。
例えば、運営面では欧州システムの双方向運転を採用している。これにより一つの軌道を双方向に走ることができ、調整の効率が高い。
一方、車両は日本の新幹線700T型を採用。これは新幹線の500系と700系を組み合わせたもので、台湾のために製造された。日本にとって、初の新幹線の海外輸出となった。700T型は動力分散式の電車で、全12両編成のうち9両に動力があり、各車両に4つのモーターを搭載している。つまり12両編成全体で36のモーターがあり、駅を出発した後の加速効率が良く、駅間の距離が短い台湾にふさわしい設計となっている。

「台湾高鉄探索館」を訪れれば、台湾における高速鉄道誕生の物語が理解できる。
安全こそ最大の使命
時速300キロで疾走する高速鉄道にとって、最も重要なのが安全性であることは言うまでもないだろう。
台湾高鉄公司は1998年に政府の交通部(交通省)と契約を交わしたが、翌1999年に台湾大地震が発生したため、台湾高鉄公司はすぐに全高架線の耐震係数を調整し直した。これにより、2007年に開通して以来、2010年にはマグニチュード6.4の甲仙地震、2016年にはマグニチュード6.6の美濃地震が発生したが、高速鉄道の土木構造物は全く影響を受けておらず、現在も時速300キロで運行されている。
鄒衡蕪さんは「台湾高鉄は非常に高い安全性を確保しています」と言う。例えば、ATCシステム(Automatic Train Control System/自動列車制御装置)によって、自動的に列車の走行速度をコントロールし、速度の出し過ぎによる追突事故などを防いでいる。またDWS(Disaster Warning System/災害警報システム)は、地震や強風、豪雨、地滑り、土砂崩れ、落石、洪水などの状況を検知してリアルタイムで列車と運行管理センターに伝え、減速するなどの安全措置を迅速に採ることができる。
列車の定期的なメンテナンスも非常に重要だ。日検や月検、台車検査、全般検査を慎重に行なっている。また、軌道の部分では、信号や通信、電力およびレールなどの保守点検作業があり、終電の後の夜間に作業員が繰り出し、すべての運行の安全を守っている。

高速鉄道の建設が始まった当初から、台湾高鉄はさまざまな文物を収集してきた。レール関係の消耗材や作業車のタイヤなども重要な歴史的器物としてコレクションしている。
国境のない高速鉄道
台湾の南北を結ぶ高速鉄道は、土木、軌道、基地施設、駅舎建築、機電系統など、さまざまな分野の多数の英雄に支えられてきた。中でも大きな力となったのは、海外からの協力と経験のシェアであろう。
台湾高鉄の建設に携わった国内外の企業は4000社を超え、建設、設計、監督などに関わった技術者は5000人を超える。建設段階では26ヶ国のエキスパートが台湾に駐在し、高速鉄道の建設に協力してくれた。
台湾高鉄の全長350キロにおよぶ土木建築、橋梁、トンネル、駅舎建築、メンテナンス基地などの工事は、わずか4年9ヶ月で終了した。「台湾高鉄探索館」には、それらの工事に関する説明があり、携わった国々の文化的特色も展示されている。例えば、ドイツ企業と台湾の大陸工程公司が協同で請け負った最長の八卦山トンネル(7357メートル)の工事期間中は、工事の安全を祈願してドイツの建築の守護神である聖バルバラを祀っていた。また、林口トンネルの工事に加わった日本の建設会社は、山の神を祀って酒と塩を撒き、最後の掘削で出た岩を「貫通石」として御守りにするといった伝統も見られた。「台湾高鉄探索館」では、こうした多様な文化に関する解説もあり、これらに関する記念品は高鉄の文物として収蔵されている。
台湾高鉄探索館の一角には、各国の技術者や作業員が使ったヘルメットや、台湾駐在のための就労許可証や健康保険証なども展示されている。タイから働きに来た人々の宿舎にはタイの国王と王妃の写真が飾られていた。これらも高速鉄道建設の過程における忘れてはならない歴史の一部分なのである。
台湾高速鉄道は非常に台湾的であり、また国際的でもある。建設工事には多くの国が参加し、台湾の建設会社はこれを通して最新の技術や管理思想を学ぶことができた。技術面では、各国の専門家同士がどのようにコミュニケーションをとり、どのように問題を解決したのだろう。こうした経験も、台湾の国際化と国際交流に大いに役立つものと言えるだろう。

台湾高鉄探索館にある列車の模型では、子供たちも運転士の気分を味わうことができる。
Going the Extra Mile
台湾高鉄のサービスは、台湾人らしい人情味に満ちたのもである。例えば、一人で乗車する高齢者には改札口で特別な案内を提供する。鄒衡蕪さんによると、このようなサービスは交通運輸業界では比較的めずらしく、海外では特別料金を払わなければならないことが多い。台湾高鉄では、乗客を家族のようにとらえ、何かできることはないかと考えているのである。
外出すれば、何かしら大切なものをなくしたり落としたりしてしまうこともある。そこで台湾高鉄では「going the extra mile」という理念で貴重な遺失物を探すのにも協力している。例えば、受験生が受験に必要な書類を高鉄の車内に忘れてしまったことがあり、時間が迫っていたので緊急事態として処理し、2時間で乗客に届けることができたそうだ。
台湾高鉄は、乗客に対してだけでなく、環境や文化にも配慮している。
台湾高鉄探索館では、台南市官田に生息する水鳥のレンカクの保全における台湾高鉄の実績を見ることができる。高速鉄道建設の過程で、それまで計画していたルートが台湾の固有種であるレンカクの生息地を通ることが分かり、台湾高鉄はどのように対応するべきか現地の自治体と話し合った。その結果、林務局が11ヘクタールの土地を提供し、台湾高鉄が6000万元の費用を拠出して人工生息地を造ったのである。これにより、当初は50羽しかおらず、絶滅の危機に瀕していたレンカクは新たな生息地を得ることができ、現在では2600羽まで増えた。世界的に著名な動物行動学者のジェーン‧グドール氏もここを訪れ、生態保全の成果を評価している。
また、新竹ではクスノキの老樹のために計画されていた路線を少し動かした。この老樹は住民の信仰の対象でもあったため、地域の人々と話し合い、老樹がそのまま人々の暮らしとに寄り添えるようにしたのである。

一歩ずつ歴史を歩む
「台湾高鉄探索館」は、開通十周年を記念して2017年に開館した。ここに収められている器物や文物、資料の収集には、台湾高鉄の初代董事長である殷琪氏が当初から力を注いでいた。殷琪‧元董事長は当初から、台湾高速鉄道の歩みの記録を可能な限り残そうと考え、それを展示することで、多くの人に高速鉄道についてより深く知ってもらいたいと考えていたのである。
台湾高鉄探索館の他に、もう一つ見逃してはならないのは台湾高鉄‧台南駅の外にある「花魁(おいらん)車地景公園」である。
日本は高速鉄道を生み出した国であり、その世界最初の車両は、新幹線「0系」電車である。現在、その0系車両は世界に2両しかなく、1両は日本がイギリス国立鉄道博物館に寄贈し、もう1両は台湾にある。「台湾にあるこの1両は、非常に特別なものです。これは台湾高鉄の建設期間中に日本から贈られたもので、線路の周りの建築限界が保たれ、列車が障害物に接触しないことを確認する作業を行なう『建築限界測定車』と呼ばれます。線路周辺の建造物が列車と適度な距離を保っているかどうかを確認するために、建築限界測定車には外に向けて多数の針状の装置が取り付けられ、それが江戸時代の花魁(おいらん)のかんざしのように見えるため『花魁車』とも呼ばれてきたのです」と鄒衡蕪さんは説明する。この車両は任務を終えた後も台湾に残され、メンテナンスを経て、現在は台湾高鉄‧台南駅の外に展示されている。貴重な収蔵品であると同時に、台湾と日本の縁を物語っている。
2027年、台湾高鉄は開通20周年を迎える。「高鉄の新車両は現在日本で製造中です。日本で最新のN700Sをベースにした新型車両で、2027年に運行に加わります」と言う。新世代の車両も、台湾の大地を走り、ここの物語を発掘していくことだろう。

台湾高鉄の彰化駅。構内の柱は花びらを、屋根は風にたなびく稲穂をイメージしたデザインになっており、生花産業の盛んな彰化県を象徴している。

何よりも大切なのは安全である。作業員は細心の注意を払って保守点検を行ない、すべての列車運行の安全を確保している。(台湾高鉄公司提供)

(台湾高鉄公司提供)

台湾高鉄は世界各国の技術者による専門的な協力を得て開通した。台湾高鉄探索館には各国の作業用ヘルメットも展示されており、舞台裏で支えてきた英雄たちに敬意を表している。

台湾高鉄の現場では、しばしば指差し確認を行なう姿が見られる。

高速鉄道が開通して17年、すでに台湾での生活に欠かせない存在となっている。


台湾高鉄はgo the extra mileというサービスの精神で乗客を家族ととらえ、少しでもできることをしようと配慮している。(台湾高鉄公司提供)

環境や文化にも関心を注ぐ台湾高鉄は、台湾固有種の水鳥であるレンカクの生息地保全にも力を注いでいる。(潘桐錫撮影)

台湾高鉄の台南駅前にある「花魁車地景公園」には日本から贈られた新幹線の0系車両が展示されており、台湾と日本の特別な縁を物語っている。(台湾高鉄公司提供)