同じ台湾について書くとしても、文章だけでなく絵にすることのできる作家もいる。美術科出身の雷驤と、漫画家の魚夫は、代表的な例だろう。
作家、イラストレーター、ドキュメンタリー監督と、八面六臂の活躍をする雷驤は、足の向くままに眼前の風景をスケッチしてきた。それらは思いがけず、台湾社会変遷の記録となっている。
テレビ局の役職を8年前に辞め、台南に移り住み、台南を描き始めた魚夫は、台湾の古い建築物が失われていく速さに驚いた。そこで、台湾がかつて有していた美を、10年かけて絵にしようと決心した。
絵として記される台湾には、また異なる風情と美が感じられる。

見たものをそのまま描いた雷驤のスケッチは台湾社会の変化をよくとらえている。これは15年前の侯硐の街。(雷驤提供)
雷驤の描く「小歴史」
77歳の雷驤は、テレビ、イラスト、出版の各界で名だたる賞を受賞しており、その多才ぶりはまぎれもない。今なお精力的に執筆を続け、著書はすでに35冊、画作は数えきれない。
今年3月、掃葉工房から出版された雷驤の作品集『人間自若』3冊のうち、『画人之眼』には彼のスケッチの一部が納められた。迪化街、新店吊橋、侯硐街、八里海岸、駅、喫茶店、屋台、デパートなどでの人々の暮らしが描かれ、台湾社会の多様な風景とその変遷の記録となっている。

かつての「阿猜嬤」の絵と短文を取り出し、雷驤は20年前の華西街の美食の思い出を語る。
スケッチで台湾を記録
絵画は情況を最も直接的に記録すると雷驤は言う。「私にとって、空間に存在するものの関係を瞬間的に記録するには、絵にするのが最も簡単です。後でそれをじっくり見ると、描いた際には感じなかった微妙な感動があり、自分の経験や記憶につながるものが浮かび上がります」
雷驤は『画人之眼』の序文にこう書く。「これらの風景の中には、後に文章にしたものもあるが、うまくいったとは限らない。絵はやはり、瞬間的かつ凝固的なものであり、完全に視覚的性質を持つものなのである」
瞬間は凝固して永遠となる。「絵を見直すと、感動を生み出したものが何か、新たな発見があります」例えば2002年に描いた「吊橋を臨む小道」を見て、彼は昔のことを思い出したという。「碧潭の吊橋の近くに同級生の家の茶店があり、よく手伝いに行きました。ある日、私がいつもより早く帰ろうとするので何か腹を立てたのかと心配した友人が追っかけて来て、いっしょに汽車に飛び乗りました。汽車が出る寸前に、彼はまず穿いていた下駄を外に投げ、汽車を跳び下りた。で、私も続いて跳び下りた、そんな思い出です」
「私が描くのは名所旧跡ではなく、ただの『小さな歴史』です。たまたまめぐり合い、胸を打つものがあった。その一点を、その時空に広げて見せる、それが記録となります」雷驤は、「阿猜❊(」がその良い例だと興奮気に語り始めた。
先日ふと、万華の華西街の夜市に家族と食事に出かけた。「あそこには私の好きな味があるのです。牛モツ汁、豚足、おこわなど、市場の奥には甘い汁粉などを売る店もあります」
昔からの店がまだあり、20年前に戻ったような気がした。当時の汁粉屋のおばさんは今の店主の母親だった。当時、この店でおばさんを描いたことを思い出し、家で探してみると、1998年出版の『流動的盛宴』に絵と、こんな文があった。
「伝統屋台料理の集結地と言えるこの市場には、ずらりと炒め物や揚げ物の店が並び、最後に甘い物を専門に売る店がある。まるで、たらふく食べた後はデザートをどうぞという感じだ。落花生汁、米乳、ぜんざい、緑豆汁と、店のおばさんはたいていのデザートをそろえている」
妻にネットで調べてもらうと、この店は「阿猜❊(」という名で、なかなかの有名店だった。そこで彼は20年前の思い出を手紙にしたため、例の著作とともに、店主に送った。

人々が行き交い、出会い、別れる駅やホームを、雷驤は好んで描く。(雷驤提供)
市井の風景と人々
雷驤が描くのは市井だ。「市井とは客観的な風景ではなく、人情です」と彼は言う。
雷驤はポケットに大小のスケッチ帳を入れて持ち歩き、駅や喫茶店、デパートなどで描く。「人が多い所では、絶えず何かが生まれています」
では、彼はなぜ絵を描き、そして描きながら何を考えているのだろう。
草ぼうぼうの風景を描いた絵を指し、これは現在の台北市立美術館の隣、花博会場の辺りだと言う。昔はここに米軍顧問団の宿舎があったが、彼らが引き上げた後は放置されていた。1998年3月にここを通りかかり、雑草が生い茂る様を描いてこう書いた。「崩れかけた看板に『頤和園』とある。そういえば、米軍顧問団が引き上げた後、ここには聨合後勤司令部の経営するレストランが一時期建てられていた。60~70年代にはこの広大な土地に、木造平屋の米軍宿舎が並び、向かいの丸山動物園脇には米軍接待所があった。いずれも鉄条網と高い塀を巡らせ、憲兵が警備しており、一般人の入れる所ではなかった。だが今や人影はなく、塀の上も雑草で覆われている」

かつての米軍顧問団の宿舎は米軍が去るとともに放置され、荒れ果てていった。1998年、雷驤がこれをスケッチし文章にも記録した。
台湾史の記録
「理髪業」というスケッチは、台湾の理髪業史の記録となっている。自分の年代は台湾理髪業の変遷を目の当たりにしてきた、と雷驤は言う。昔は日本風の純朴な理髪店、それから豪華な店や風俗エステも兼ねた店が登場した。髪を長く伸ばしていた頃は自分で切っていたが、やがて再び理髪店に通うようになった。
「今、私は女性専用といった感じの美容院に、恐々と座っている。ここには複雑な一連のサービスがある。まず入り口近くのソファに座らされると、若い男の子がやってきて上着を脱がされ、青いガウンを着せられる。それから奥に案内され、後ろに倒れる椅子に座り、髪を濡らす。再び鏡の前に連れて行かれてタオルで髪を拭くと、コーヒーが運ばれてくる。また別の男の子が雑誌を持って来てくれて、しばらく待たされる。それからやっと美容師の登場だ。鏡に映る彼女の髪は濡れたように光り、部分的に色も異なる。流行のテクニックをすべて展示したかのようだな髪だ」
シリアスなものあり、ユーモアを交えたものあり、絵を通して雷驤は素材を汲み取る。
「匂いや温度、周囲の音も汲み取ります。描くには少し時間がかかりますから、カメラのシャッターでとらえるより多くを取り込みます」
77歳になっても筆は止まらない。執筆と絵画は雷驤にとって呼吸するように自然なことだ。「生きているのに息をしないわけにはいかないでしょう」学生からのプレゼント——「開心国小(ハッピー小学校)」と書かれたカバンを肩に掛け、雷驤は今日もスケッチに出かける。

迪化街(上)、オオカンムリワシ(左下)、農路風景(右下)など、雷驤は行く先々でスケッチを残している。(雷驤提供)
魚夫が描く幸福台灣
漫画家の魚夫も、絵で台湾を記録する。「ほかの芸術よりも、絵は直接思いを表せます。一筆一筆が作者の心血の結晶ですから」と彼は言う。

迪化街(上)、オオカンムリワシ(左下)、農路風景(右下)など、雷驤は行く先々でスケッチを残している。(雷驤提供)
台南への「移民」
「私の場合『移住』じゃなくて『移民』です」と言う魚夫は、テレビ局の役職の地位を捨てて台南に移り住んだ。シンプルな暮らしをしたかったからだ。
だが引退しても筆は衰えない。2013年、友人の依頼を受け、台南の食生活をつづった『移民台南』を出版した。「台南の朝食はすばらしいですよ。それで自然と早起きになりました」魚夫にとってのトップ5は、牛肉スープ、魚団子スープ、粥、落花生ちまき、鮮魚スープだ。
朝食だけではない。台南には、タンツーメン、虱目魚、肉チマキ、イカ・ビーフン、魚メン、炒めタウナギ、鶏と豚の胃とスッポンのスープなどの名物があり、それらの料理を魚夫は描くだけでなく、史料を調べ、訪ね歩き、料理の由来なども印象深く記す。
『移民台南』はよく売れ、紹介された料理店もますます客の入りがよくなった。彼の愛する「六千牛肉スープ」店にも、なかなか行けなくなった。毎日客が列をなしているからである。
「庶民は牛肉を食べないと言われますが、台南の人は食べます」彼は中国大陸の習慣も調べたが、台南名物の牛肉スープのような食べ方は、潮州だけにあるという。また「六千」という店名の由来は、おみくじの文から来ているそうだ。

迪化街(上)、オオカンムリワシ(左下)、農路風景(右下)など、雷驤は行く先々でスケッチを残している。(雷驤提供)
楽居台南
2冊目のイラスト入り書籍『楽居台南』では、それぞれ手描きで、地図6枚、台南の古い建物16棟、飲食店50数軒を紹介した。
「地図6枚のために苦労しましたよ」と言うのは魚夫の妻、陳文淑だ。店の位置を確認するため、夫婦で何度も出かけたり、料理や食材のルーツを探るため、中国大陸の福州にまで赴いた。
簡単な食べ物を描くにも、魚夫は本物らしさを求めた。「カニをどう描いても、それらしくならないので、もう一度食べに行って、やっとカニにも毛穴があるのに気づきました」と笑う。
料理や建物を描き始めて、魚夫には変化が生まれた。伝統建築が急速に失われるのを感じ、それらを描くことに力を注いだが、描けば描くほど驚きが生まれ、また描くほど怒りも生まれたのだ。
すでに百棟余りの伝統建築を描いた。「台南だけでなく、台湾全土のものを描きます。特にすでに壊された建物は優先して描き、よみがえらせます」台湾にかつてあった建物を10年かけて全てよみがえらせることで、当時、建築がどれだけ重視されていたかを皆に知ってほしいと言う。
なぜ建築物に魅せられるのだろうか。
「建築物は、一般市民の暮らし、つまり文化や歴史です。鉄道ホテルなどは、当時のホテルのレベルの高さを表しています。また花蓮駅周辺を見ると、あの時代に台湾東部がどのように開発されたのかわかります」ただ、そうした魚夫の考えを理解せず、「日本崇拝だ」と非難する人もいると言う。
「日本人がこんなに多くの立派な建築物を建てたのは、台湾人に幸せに暮らしてほしいからではなく、植民支配が目的です。ただ、残されたものは我々共通の財産であり、歴史です」

散髪の順番を待つひとときにも、雷驤は美容院の光景をスケッチする。(雷驤提供)
桃城著味
2015年、魚夫は嘉義市のライター・イン・レジデンスに招かれ、執筆や講演を行い、嘉義にかつてあった公共建築物13棟を描いて『桃城著味』という本にまとめた(桃城は嘉義の別名)。
「嘉義の人は、冷麺にはマヨネーズをかけ、おぼろ豆腐は豆乳に浮かべます。そしてチリソースは必ずチキン印です」と魚夫は、笑いながら嘉義人独特の食習慣を語る。だが、嘉義の古い建築物の多くが失われていることとなると、表情が変わった。
「嘉義では本当にたくさんの建物が取り壊されました。あの13棟が、もしまだ嘉義にあれば、観光にもずいぶん貢献したでしょうに」
建物を描くのは容易ではない。細かい観察が必要で、目にも悪い。魚夫は、同じ建物をさまざまな角度から描き、全体像をつかもうとする。
現存するものは比較的描きやすいとはいえ、部分的に欠損や変形もあり、本来の姿を調べなければならない。例えば台南県知事官邸は、現在は低くなっている妻壁の本来の姿を調べて描く必要があった。林百貨店も、元は黄土色に近い建物だったが、ある年、隣の警察署が赤に変わった際に、こちらも赤壁に変えられてしまった。それを魚夫は元の黄土色に戻して描いた。

漁夫は十年をかけて、台湾で失われ、また姿を変えつつある古い建築物を描こうとしている。
鑑往知来
台南に引っ越す際、魚夫は100箱ほどになる蔵書を売り払った。だが、建築物の資料集めで、家の中は再び本が山積みだ。「それでも今は、図書館でデジタル資料が閲覧でき、中央研究院でも多くの資料が公開され、資料集めも以前より楽になりました」と魚夫は言う。
なぜ建築を、過去を記録するのか。何か我々の役に立つのか。台湾意識の確立や、共通認識に役に立つのだろうか。魚夫はこう言う。失くしたものを建て直すことはできない。だがかつて美しきものが存在したことを人々に知らせ、将来歩むべき方向を考えてもらいたいのだと。 □

台南駅近くにある台南知事官邸は1899年に完成したバロック様式の建物で、今は雰囲気のあるカフェとなっている。(下は漁夫提供)

台南駅近くにある台南知事官邸は1899年に完成したバロック様式の建物で、今は雰囲気のあるカフェとなっている。(下は漁夫提供)

漁夫が自分の自転車散策コースを描いた美食マップ。台南に「移民」してからの生活の軌跡である。(漁夫提供)

漁夫が自ら味わったボリュームたっぷりの料理の数々。見ているだけで楽しい。(漁夫提供)