アメリカは台湾にとって最も重要な友好国であり、貿易パートナーでもある。台湾と米国との関係は同盟から始まり、一時は援助関係となり、国交断絶があり、その後は社会・経済関係の深化という大きな変化を経て発展してきた。その間は起伏と挑戦に満ちていた。
これまでを振り返ると、アメリカは台湾の発展への道に多くの重要な足跡を残してきた。経済面では、農業から商工業への転換のための資源が投じられ、文化面では異文化の元素が持ち込まれ、台湾の学生たちに世界へつながる窓が開かれた。政治面では、国防と安全保障が固められただけでなく、間接的に台湾の民主化を後押ししてきた。今日、中華民国が国際社会に参画・貢献でき、台湾社会が多元的で開放的になったことの背後には、アメリカの少なからぬサポートがあったのである。
2012年11月から、中華民国が世界で37番目の米国入国ビザ免除措置を受ける国となったのは、大いに歓迎すべきことである。これによって、何年にもわたって進展のなかった二国間の貿易交渉が雪解けを迎え、民間の観光とビジネスの往来もより活発になると見られている。
「ディズニーランドへ行くと、ニューヨークの万国博覧会やリンカーン・センター、ロサンゼルスのミュージックセンターなど、アメリカの他の都市へ行った時と同じように、まず『羽振りのよさ』を感じる。つまり資金と智恵の結合ということだ」
「毎年夏休みになると、全米各地の留学生は男女ともにニューヨークやサンフランシスコ、ロサンゼルスへ繰り出すという。女子は結婚相手を探しに、男子は皿洗いに行くのだ」
――作家・林海音の1964年米国での見聞からは、当時の台湾と米国の経済状況の差がうかがえる。

数々の台湾のスターがアメリカの大舞台で活躍し、台湾の存在を世界にアピールしている。左は3D映画『ライフ・オブ・パイ』の宣伝のために帰国したアン・リー監督。右は大リーグで活躍するチェン・ウェイン選手。
1990年代以前は台湾社会の発展と密接に関わっていた米国への留学や移住のブームは、いつの頃からか冷め、それに代わって気軽に行ける遊学やワーキングホリデーや旅行が盛んになった。変わらないのは、アメリカに対する特殊な思いかもしれない。
2012年11月1日から、我が国の国民はノービザでアメリカに90日間滞在できるようになった。これによって、クリスマスから年末年始、そして春節前後にはアメリカ旅行がブームになると予想され、旅行業者はさまざまなツアーを打ち出している。
例えば「ジェレミー・リン応援ツアー」では、昼はテキサス観光、夜はNBAヒューストン・ロケッツのゲームを観戦する。東北のニューハンプシャーへ楓を見に行く旅もあれば、カリフォルニアのナパバレー・ワイントレインの旅もある。子供や若者にはディズニーランドと英語学習を兼ねたツアー、シニア世代にはアラスカ・クルージングもある。
米国も含めて、台湾からノービザで渡航できる国・地域が100を超えたことで、今後の海外旅行は軽薄短小化する(日数は短縮し、頻度が高まり、負担は軽減し、内容はシンプルになる)と予測するのは高雄餐旅大学の容継業・学長だ。以前、台湾からの海外旅行は団体旅行が中心だった。多くの人はアメリカ旅行やヨーロッパ旅行は一生に一度の機会と考えていたため、日数が長く、盛りだくさんのツアーが好まれた。その後、テーマを定めたじっくり楽しむツアーが増え、今後は創意とチャレンジ性を強調した個人旅行が増えると見られる。
米国入国ビザ免除が台湾で高い期待をもって迎えられた背景には、台米間の歴史がある。
「聯合報」の社説は次のように指摘する。1971年の我が国の国連脱退や79年の台美国交断絶、96年の台湾海峡ミサイル危機など、これまで内外の情勢が不安定になると、台湾では移民ブームが起こった。多くの人が台湾の情勢に不安を抱き、アメリカこそ安心して暮らせる楽土だと考えたのである。それが今日、アメリカの門戸が台湾に大きく開かれたことで台湾は安全で信頼に足る社会であることが証明され、国民は「不安感」を払拭できるようになった。

台湾は世界で37番目に米国入国ビザ免除待遇を受ける国となった。その実施後の最初の便で渡米する人々。
戦後の台湾の歴史を理解するには、台米関係に触れないわけにはいかない。中でも「米国援助」「米国留学」「米国流行文化」がポイントである。
第二次世界大戦の主たる戦場だったヨーロッパでは、戦後はどの国も廃墟からの復興が課題だったが、本土が戦火に見舞われなかったアメリカと、この機に台頭したソ連が世界の二大強権となった。この時期、アメリカ政府は大規模で計画的な国際援助を開始した。1950年に朝鮮戦争が始まると、共産主義勢力の拡大を抑えるため、アメリカは東アジアの反共陣営の戦略を立て直し、台湾に対しては1963年までの間、合計36億米ドルの軍事および経済援助計画を実施した。
米国からの援助を受けていた時期、台湾の農業食糧政策がその後の農村発展を導き、医療衛生や地方の電気化も進められた。経済面では、石門ダム建設などのインフラ整備が推進され、台湾は対米輸出を主とする軽工業加工基地となり、当時始まった対米輸出という依存関係は今日も続いている。
政治面では、米国援助は民主主義意識をもたらし、1951年には一部で選挙が行なわれるようになり、それが民主化運動へとつながった。
戦後台湾の農業発展史を研究する劉志偉は、米国援助に関する著書の中でこう述べている。米国援助による台湾での物資提供や宣伝、教育推進などの過程には文化の差があり、意志の疎通が成り立たないということもあったが、台湾の庶民生活とアメリカとの間の緊密な繋がりは否定できない。例えばパン食も米国との関係によって普及した。

アメリカは建国二百余年の若い国だが、常にアメリカン・ドリームで多くの人をひきつけてきた。その多様な文化と自然景観に触れようと訪れる観光客も多い。写真はグランド・キャニオン国立公園。
1963年に米国援助が終わると、両国政府は米国留学計画に力を注ぐようになった。奨学金と公費留学制度を通して優秀な人材を米国で学ばせるというものである。
まだ戒厳令が敷かれていた当時、国内の思想や政治活動は厳しく統制され、研究機関は貧しく、志のある若者は米国留学を目指すようになった。60年代に台湾大学の兪叔平教授が呼びかけた「来い来い、台湾大学へ。行こう行こう、アメリカへ」という言葉は、当時のキャンパスの流行語だった。
米国留学が盛んになって国内の人材が流出するのではないかという懸念の声も出た。だが、米国で学位を取ったエリートたちは、そのまま米国で就職または起業し、あるいは学術界で優れた業績を上げるなどして、台湾の存在を世界に知らしめることとなる。その後、そのまま現地に根を張って暮らす人もいれば、帰国して重用される人もいた。新竹サイエンスパークの約120社は米国留学からの帰国者が起業したもので、李登輝・元総統や馬英九・現総統、それに民進党の呂秀蓮・元副総統や蔡英文・前主席も米国留学経験者である。
台湾の初期の民主化も米国留学生グループと連動している。例えば、民族意識を呼びかけた釣魚台防衛運動を発起した作家の劉大任や、「科学月刊」創設者の林孝信なども米国留学組で、海外の台湾人団体も積極的に台湾の権威体制を批判した。
1990年代、台湾経済がテイクオフすると社会は豊かになり、米国留学は1993年に3万7000人に達してピークを迎える。統計を見ると、1990~95年、海外から帰国した学者、専門家、留学生は3万人に上り、そのうち87.7%が米国の学位を持っていた。
米国の大学で専門知識を学んで帰国した人材は、台湾の産業が労働集約型から急速に技術集約型へと転換するに当って重要な役割を果たした。代表的な人物としてTSMCの張忠謀・董事長が挙げられる。彼は1964年にスタンフォード大学で電機学博士の学位を取り、テキサス・インスツルメンツなどで高い地位に就き、1985年に兪国華院長と李国鼎政務委員に招かれて帰国、工業研究院の院長に就任し、その後、新竹サイエンスパークを基地に世界シェア70%という半導体産業クラスターを築いた。
1970年代の留学ブームとともにアメリカ文化が台湾を席巻し、ハリウッド映画や米軍ラジオや台北市南海路の米国新聞処図書館などがアメリカの文化と知識を得るルートとなった。

数々の台湾のスターがアメリカの大舞台で活躍し、台湾の存在を世界にアピールしている。左は3D映画『ライフ・オブ・パイ』の宣伝のために帰国したアン・リー監督。右は大リーグで活躍するチェン・ウェイン選手。
社会評論家の楊照は、1950~60年代生まれにとって反戦や民権思想、実存主義やヒッピー文化など、最新の文学、音楽、映画はすべて米国から入ってきたものだったと指摘する。ただ、当時はまだ政府の統制が厳しく、5~10年の時差があった。
1980年代にアメリカで十数年放浪した作家の舒国治はある対談で、台湾ニューシネマに対するアメリカ文化の影響に触れた。台湾の戦後世代は統一入試制度による功名主義と個性抑圧による行儀の良さを身につけたが、それが60年代の外来文化によって解放され、80年代にニューシネマとして自分たちの成長の物語が語られたのだという。
一方、アメリカ文化を全面的に受け入れることへの反発もあった。1975年、フォーク歌手の李双沢は、なぜコンクールで英語の歌ばかり歌うのか、自分たちの歌を歌うべきだと呼びかけた。
楊照によると、80年代の戒厳令解除の前後、社会運動と学生運動は欧米の新たな知識の吸収を急いだが、台湾ではこの時に初めて「左派」の語彙を用いてアメリカ資本主義批判が行なわれたという。
1984年にはマクドナルドが台湾に進出し、消費者団体は、価格が不合理であることと子供の健康を害するという理由でこれをボイコットした。一部の学者も依存性という観点から、ファストフードによる台湾食文化の破壊や、強大な資本による独占などを警告した。

学術知識の追求は昔から変わらぬアメリカン・ドリームである。写真はスタンフォード大学のロダン彫刻庭園。
経済的な依存度を見ると、台米関係はより緊密であることがわかる。
1980年代、台湾の対米貿易黒字が大幅に成長し、87年には160億米ドル超のピークに達した。アメリカは、台湾の輸入開放と台湾ドル切上げの圧力をかけ、台湾の産業も労働集約型からテクノロジー主導へと発展していった。
2002年まで、我が国の三大輸出相手国は米国、日本、中国大陸(香港を含む)で、対米輸出が最も多かった。それから十年、大陸は世界の工場となり、2009年には台湾からの輸出の4割以上を大陸と香港が占め、対米輸出は1割まで減少した。
2011年、米国は我が国第三の、台湾は米国にとって第十の貿易相手国となったが、米国は台湾にとって常に最大の外資の源で、累積投資額は224億米ドル、主な投資項目は金融保険、電子製造である。
米国企業にとって、台湾企業とのビジネスには特別な思い入れがある。
台湾駐在アメリカ州政府協会会長でワシントン州在台貿易発展事務所の代表でもあるフォガティ氏は、シンガポールや香港と違い、台湾人はアメリカン・イングリッシュを話すので親しみやすいと言う。
また、台湾人は米国のマネジメント文化をよく理解しており、米国での留学や仕事の経験がある人が多いため意志の疎通がしやすい。最も重要なのは、米国企業にとって台湾は中国大陸やアジア進出のための重要な足がかりになるという点だ。
「台湾の製品は非常に競争力があるので、米国各州から台湾に製品やサービスを売るには、付加価値が高くなければなりません」と話すフォガティ氏は台湾人の購買力にも驚いている。ワシントン州から来たCOSTCO台北内湖店の1平米当りの売上は、世界400店のトップなのである。
ペンシルバニア州貿易投資事務所の蔡宜玲処長によると、同州の化学気体メーカーであるエアープロダクツ社は、20余年前に台湾の三福化工と合弁で三福気体を設立し、台湾の半導体産業に化学気体を供給している。近年、同社は2億5000万米ドルを投じて南部サイエンスパークに工場を拡張し、アジアで成長する半導体と薄膜トランジスタの市場に供給している。「同社の社長には当初からずっと台湾人を任用し、副社長がアメリカ人です。これは信頼と尊重を意味しています」と蔡宜玲氏は言う。
裸一貫で事業を起こした台湾の中小企業経営者の多くは、激しい競争の中で透明性の高い経営を行ない、新しい観念や新しい製品を次々と吸収しており、適応力が非常に強いので、外国資本をひきつけるのだとフォガティ氏は言う。

アメリカが風邪を引けば世界中がくしゃみをすると言われる。写真は世界経済の中心、ニューヨーク証券取引所。
過去を振り返るとともに将来を展望すると、現在の台米間の社会関係は「平等と正常化」へ向っており、それは民間とビジネスの往来に顕著に現われていると楊照は指摘する。
文化面での米国の影響力は1970年代のように大きいものではあり得ない。「いわゆるアメリカ文化も、グローバル化した今日では多様な文化をアレンジしたものに過ぎない」と言うのである。
中央研究院社会学研究所の呉介民研究員はこう指摘する。冷戦が終結して国際情勢が大きく変化したことで、台湾は非常に不確実な状態に陥った。まず、米国は中国大陸との盟友関係を強化するようになり、新たな世界情勢が中国大陸を資本主義発展へと向かわせ、台湾海峡両岸のパワーバランスを変えた。一方、両岸の経済関係の発展によって台湾の国家の位置付けが不明瞭になり、それが社会の集団的な不安をもたらした。
「台湾が覇権競争の狭間に置かれるというのは歴史的宿命であり、我々はポスト冷戦時代の発展の方向を全面的に見直さなければなりません。国の位置付けと国際地位の追求はその一環と言えるでしょう」と言う。
台湾は艱難の時代を経て経済の奇跡を起こし、民主主義を発展させる中で多様な文化と経済の資産を蓄積してきた。映画監督のアン・リー、現代舞踊の許芳宜、大リーグのチェン・ウェインらが米国を舞台に台湾の存在を世界にアピールしてきた。
かつて、台美間の経済・文化・人材交流は忘れられない歴史を残したが、世界的な経済競争が激化する中、台湾は今後も米国と協力し、発展への安定した道を切り開いていかなければならない。

台湾に対する米国入国ビザ免除が決まり、我が国もアメリカ人旅行者のノービザ滞在日数を90日に延ばした。中華文化の精髄に触れられる国立故宮博物院は欧米人観光客に人気がある。