1994年から、侯孝賢の映画作品は黄文英が美術監督を務めている。台湾・日本共同制作映画の『好男好女』(1996年アジア太平洋映画祭最優秀美術賞受賞)、1996年の台湾・日本共同制作映画『憂鬱な楽園(原題:南国再見、南国)』『フラワーズ・オブ・シャンハイ(海上花)』(1998年アジア太平洋映画祭最優秀美術賞、ゴールデン・ホース・アワード最優秀美術設計賞受賞)、さらに2001年の『ミレニアム・マンボ(千禧曼波)』、2005年『百年恋歌(最好的時光)』、そして侯孝賢がアルベール・ラモリスの『赤い風船』(1956年)にオマージュを捧げた『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン(Le Voyage du Bal?on Rouge)』(2007年)、2015年の『黒衣の刺客(刺客聶隠娘)』といった作品を手がけてきた。現在は、三視影業と光点影業(Spot Films)の総経理、台湾電影文化協会常務理事を務める。
黄文英は、侯孝賢の映像美の追求に追随し、世界中の映画祭を転戦してきた。普通に考えたら、三面六臂か、よほどの辣腕でないかぎり、侯式美学がスクリーンに求めるレベルは達成できないと思われる。
ところが、目の前の黄文英は謙虚で親しみやすく、語り口も奥ゆかしげである。映画一本の設計とデザインに12年かけたことについも淡々としている。「12年は一人のデザイン人生においては、確かに少々長いかもしれません。でも、聶隠娘は長い歳月をともに過ごしてきた友人のようなものなのです」と何事もなかったように話す。
侯監督に負けない美の追求
脚本が37回変わり、黄文英自身のパソコンにも17バージョン入っているから、しまいにはもう読むのをやめたくなったという。読めば読むほど、どうしたらいいか分からなくなるからだった。
「侯監督はたびたび撮影の現場で変更を加えるので、プライドを傷つけられたと感じる人もいるかもしれません。でも監督のチームは十年、二十年と一緒に仕事をしているうちに、モノが悪ければ肩身が狭い思いをして、コソコソ隠れなければならないのは自分だというように訓練されてしまいました。暗殺を命じられた空空児が、仕事をしくじって一目散に遠く遠く逃げ去ったみたいにです」と話す。苦しみ足掻いたプリプロダクションの時期を思い返してみれば、黄文英には「侯監督に負けない」精神があったのだった。
「胸を張って言えることがあります。私は一緒に仕事する人を全部自分で見つけました。侯監督もその一人です。自分のボスは自分で選ぶのです」という。幼い頃、侯孝賢が脚本を担当した映画『桃花女鬥周公』を見た。作品のなんともいえぬ不気味なムードに、その夜は悪夢をみた。
大学を卒業して渡米し、舞台制作とデザインアートを学ぶ。『戯夢人生』以前の侯孝賢作品はとうに全て見ていた。ニューヨークで舞台と映画の美術デザインをしていたとき、あまりにも侯孝賢に惚れ込んでいたから、手紙を書いて侯監督に自薦した。「作品を見ただけで、一緒に仕事をする相手だということがわかってしまうことがあります。直感で。杜琪峰(ジョニー・トー)も一緒に仕事をしたい監督です。でも、もう若くはないのでやたらと手紙を書いたりしませんが」
小さい頃から、出かけるときにはく靴下も自分で選ばねば気がすまなかった。美学においては、黄文英自身の思い入れがある。侯孝賢は、特別な史料を読んだときには、コピーして会社のスタッフに見せる。黄文英もそれに従い唐代に関する史料を読み漁った。「映画は再創造の世界であって、過去の時代に完全には戻れないことはわかっています。それでも、優れた作品は、写実を底辺にして再創造をしているはずです」という。こうした認識は、侯孝賢のスクリーンの中のリアリズムと、その基底で一致しているのである。
映画『黒衣の刺客』に唐代を再現するために、数々のロケハンやデータ収集といったプリプロダクションが繰り返された。黄文英は、これが美術設計とビジュアルコミュニケーションの第一歩だと考えている。黄はいつも、故宮博物院の絵画を歴史の原始データ探しの足がかりにしている。
唐代を求めて世界中を探す
顧愷之の『洛神賦』は一般に東晋の作品だと思われているが、実際は北宋の時代の模写である可能性が高いという。黄文英は手がかりを元に、丹念にそれぞれの時代を研ぎ澄ましていく。多くの場合、絵画の中の服装から推敲していくことができると黄はいう。明代の人が唐代の人物を描いた作品であっても、ある程度の真実性が参考にできる。
「そうした研究は、私にとっては最も基本的なものです。デザインは視界、直感であり、また、普段触れている物事にソースがあるものです」という。黄文英は故宮博物院のドキュメンタリーフィルムを制作したことがある。そこで多くの研究員と知り合ったことで、相談にものってもらえる。
故宮には素晴らしい図書館があり、一般の人も資料を探すことができる。もちろん個人の蔵書もある。研究員が、奈良で1カ月にわたって開催される「正倉院展」には、毎年異なる唐代の文物が展示されると教えてくれた。彼女は毎年奈良へ飛ぶ。
正倉院には唐代の文物が数多く所蔵されている。黄文英は調査によってその理由を知った。日本は前後17回にわたり遣隋使・遣唐使を派遣していたのである。ひとたび出発すれば帰るのは15年後だった。船にはさまざまな人が乗っていた。学問の徒もいれば職人もいる。唐へ赴いて技術を学んだのは、現代の留学生にも似ている。唐は大国だったから、奨学金を与え、関連経費は唐の朝廷が出資した。優秀なら中国に残って働くこともできた。
「このような展覧会は、見るものをその時代に引き込みます。その後、日本でウズベキスタンの布の展覧会にもたどり着くことができ、正倉院の展示と重なる布の要素がたくさんあることを知りました。そこで、ウズベキスタンまで布を探しに出かけたのです」
黄文英は、この作品のために唐の影響があった他の国も数多く訪れている。例えば、玄奘はインドに行ったことがあるから、黄文英は玄奘が通った国を一つひとつ調査した。また、パリまで足を伸ばし、ギメ東洋美術館に所蔵品を見に行っている。調査期間中、デザイン画だけで数万枚を描いた。だが、侯監督はいつも図面を全く見ず、安心して黄文英に設計をすべて任せているのである。
想像をスクリーンに実現する
「図面やデザインを描けたとしても、作れるかどうかは別の話です」黄文英が最も心配するのはデザインではなく、セット制作に落とし込む段階である。道具を作り、布を探す。こうした煩雑な作業がとりわけ重要になる。聶隠娘の頭髪の短刀のようなかんざしは、原作では女道士が聶隠娘の後頭部を切開して中に隠した長さ3寸の匕首だった。
「2009年に朱天文のあらすじを入手して、侯監督がワイヤーアクションで飛び回る特撮には興味がないのだとようやく知りました。そこで、きっと武器の力を借りて力を発揮したいのだろうと考えました。例えば脚本に出てくる刀釘は、木の幹に突き立てると、そこから蹴り上がることができます。かんざしをそれに見立てることにしました」
あるとき北京の骨董市巡りをしていると、十里河にある花鳥魚虫市場で、脚本の描写にぴったりの刀を見つけた。しかし、重過ぎて役者の頭には載せられない。そこで、黄文英は設計図を描いて型を起こし、道具係に最初から作ってもらった。「作品の細部にもすべて根拠があるのです。決して空想の産物ではありません。手間のかかる作業ですが、帯紐一本も、髪を束ねる紐も、全て新たに設計・制作していきます」と語る。
作品には唐代の生活が細かく描かれている。唐代を描いた映画作品は少なくないが、黄文英は自らのデザインをもっと真実に近いものにしたいと願う。「こうでなければ12年待った意味がありません。誰かがやったものばかりではいけません」
シーンを積み重ねる侯式美学
作品中に見られる儀式や礼節について、唐代の人々の生活には遊牧民族の習慣が残っており、異民族と漢の文化が混交する時代だったと黄文英はいう。このために、台湾の中央研究院と中国大陸の人文社会学院の論文の数々を読破している。国学の師といわれる故・陳寅恪による唐代の人々の生活と居住に関する書籍も読んだ。「これほど長い時間、いつもずっと、唐代の人がどんな暮らしをしていたのだろうと考えていたのです」
資料を探していたとき、唐の時代の居住空間は、必ずのれん、すだれ、竹簾、とばり、垂れぎぬ、屏風扉などで仕切られていたことに気づいた。日本の伝統建築の空間の仕切り方は、唐の影響を強く受けており、空間を自在に組み合わせることができる。
そこで美術班は中影文化城の撮影所に大きな室内セットを2つ建て、屏風や扉をたくさん作り、繊細な彩色とデザインを施した。監督は、役割に応じて大小さまざまな空間を組み替えることができる。これが、侯孝賢作品の得意とする遠近・大小さまざまな層がスクリーンに現れる視覚効果になる。「新しいシーンの撮影に入ろうとするたびに、侯監督が頭を抱えている場面に出くわすのは、監督にとってもどれもが模索と挑戦だからです」
嬉しくて憎らしいぶつかり合い
作品の中で左相、右相、家臣、田元氏、田季安が登場する場面は、実は同じ空間で撮影されたものだと黄文英はいう。毎回新たに垂れ幕で空間を並べ換えるのが最も困難だった。役者が余裕を持てるよう気を配りながら、照明技師が照明を当てられるよう注意し、カメラの場所も確保しなければならない。一筋縄ではいかない仕事である。
スペース全体を凝縮して監督のロングショットの長回し撮影に収めるためには、セットの奥行きを考えつつ、充分な華麗さも必要とされる。もちろん予算も考えなければならない。「『黒衣の刺客』の制作は、嬉しくて恨めしい過程だったといえます。侯監督は現場での調整力が強く、事前の意思の疎通はたいていありません。このような監督に対して、私は臨機応変さが求められますし、スタッフのプレッシャーもたいへん大きくなります。時には私も困ることがあります。この作品は侯監督初の時代劇で、事前には監督が考えている画面が見えず、先に自分で考えなければならなかったからです。本当に、衝撃の過程でした」
とにかく、歴史がどんなに面白くても、映像のビジュアルにリアルに表現するには、一切のディテールが監督の目にかなわなければならないのである。
『沈黙』とバッティング
今年の初め、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙SILENCE』が台湾ロケに来て、美術デザインに黄文英を指名してきた。『黒衣の刺客』はクランクアップしていたものの、計画は変化に追いつかないものである。
黄にはある予感がしていた。「『黒衣の刺客』は何度もクランクアップしました。クランクアップしてから、またセットを組んでは撮り直していました。侯監督は台湾の役者のレベルの高さを見ていましたから、1%の不完全も許せなかったのです」と言う。張震(チャン・チェン)の腰掛ける姿に威厳が足りないと言って、クランクアップの半年後というのに、監督はそのシーン全体を撮り直したのである。
そのために、田季安(張震)が会議をする間を組み直したのだが、非常に複雑な工程である。黄文英は侯監督のリテイク・リストを思い返す。ほとんどのセットが組み直しだった。「『沈黙』に着手してからも、『刺客』が舞い込んでくる気がしていました」偶然にも、どちらの作品も中影文化城にセットを組んでいた。黄は『沈黙』のプロデューサーに『黒衣の刺客』のリテイクがあるだろうと説明し、二大監督も知り合うことになった。その経緯は忘れがたいものとなった。
「『沈黙』のイタリア人芸術総監が話してくれました。スコセッシ監督は99%の完璧だったら撮影しない。それは、100%だけを求めているからというのです。私が仕事を共にする監督は誰もがこの調子です」と笑って話す。黄文英は、スコセッシ監督と侯監督の制作スタイルは似ているという。ただ、侯監督は自身がスター性を持ちながら、また特に目立たないようにしているのだという。
侯監督はいにしえ人のように慎ましく
侯孝賢監督と共に働いた20年で、本当にたいへんな思いをしたのは『黒衣の刺客』だけだという。「監督も私も細部まで要求しますし、監督がそうでなければ侯孝賢ではありません。私が侯監督を好きなのは、その正直なところです。私の祖父もそういう人でした。人生の波風を乗り越えて、その言葉はいつも『慎ましやか』でした。昔の人が含みを持たせた話し方をしたように、核心に触れるだけで、相手のことを考えます。指摘をする際にも、その人の反省の機会を奪ってしまわないように気をまわすのです」
準備期間には戦略を練り、会社の経営と映画の資金調達を同時に解決しなければならなかった。企画書を書いて資金を集めるわけだが、それは美術デザインよりはるかに難しかった。黄文英は振返っていう。「侯監督に早く撮るよう何度も催促しました。国家発展基金の助成案が失敗に終わって、ようやく監督は目が覚めたようです。クランクインするぞと勢いよく決めたのはいいのですが、これほど長く待って、まさか資金のせいでクランクインできないというわけにはいかないでしょう」黄文英は、美術班は骨身にしみて感じているだろうという。クランクインする前から支出が始まっていたからである。スコセッシ監督との仕事では、予算の心配をする必要は一切なかった。だが侯監督の映画制作では、黄文英は自ら節約を心がけ、緻密に予算を組んだという。
『黒衣の刺客』には「青鸞舞鏡」の故事が伝える孤独のイメージが見え隠れする。作品に出ているのは、侯孝賢監督が歴史と政治に対して抱いてきた感情であり、造型は長年探し求めた後の沈殿、熟成であり、層を一つひとつ重ねて、時間をかけて形成されたものである。黄文英は感慨深く話した。「そのような作品ですから、深く理解したいと思うなら、一度見るだけでは足りません」
12年の歳月をかけた。美術監督の黄文英は分厚いデザイン画をめくる。その一枚一枚が唐代の歴史考証を経た努力の結晶であり、これによって映画『黒衣の刺客』のリアリズムが実現した。
12年の歳月をかけた。美術監督の黄文英は分厚いデザイン画をめくる。その一枚一枚が唐代の歴史考証を経た努力の結晶であり、これによって映画『黒衣の刺客』のリアリズムが実現した。
美術監督には多方面の知識と技術が求められ、すべてのシーンのディテールをゼロから創り出さなければならない。写真は、黄文英と美術スタッフが垂れ絹に金色の層を塗る様子。
『黒衣の刺客』の精巧なセットは台湾の建築チームによって撮影所に建てられた。写真は聶府の外観。
唐代の建築物と人々の暮らしのディテールを描き込んだデザイン画は撮影の背景設定に用いられた。右上は藩鎮節度使の家の中、聶隠娘が梁の上に潜んでいるのが見える。
唐代の建築物と人々の暮らしのディテールを描き込んだデザイン画は撮影の背景設定に用いられた。右上は藩鎮節度使の家の中、聶隠娘が梁の上に潜んでいるのが見える。
美術のデザイン画は、人物の役割を表現するために幾度もの調整を経て完成される。黄文英によると、侯孝賢はその過程に口をはさむことはなく、完全に美術チームを信頼して任せてくれるという。写真は『黒衣の刺客』に登場する人物の服装のデッサン。
美術のデザイン画は、人物の役割を表現するために幾度もの調整を経て完成される。黄文英によると、侯孝賢はその過程に口をはさむことはなく、完全に美術チームを信頼して任せてくれるという。写真は『黒衣の刺客』に登場する人物の服装のデッサン。
美術のデザイン画は、人物の役割を表現するために幾度もの調整を経て完成される。黄文英によると、侯孝賢はその過程に口をはさむことはなく、完全に美術チームを信頼して任せてくれるという。写真は『黒衣の刺客』に登場する人物の服装のデッサン。
美術のデザイン画は、人物の役割を表現するために幾度もの調整を経て完成される。黄文英によると、侯孝賢はその過程に口をはさむことはなく、完全に美術チームを信頼して任せてくれるという。写真は『黒衣の刺客』に登場する人物の服装のデッサン。
黄文英は永楽市場の玉鳳旗袍社の陳忠信と協力し、空空児の衣装に装飾を施す。陳忠信は『フラワーズ・オブ・シャンハイ』以来、侯孝賢の仕事をしており、『黒衣の刺客』では衣装監督を担った。
侯孝賢は光と影、そして蝋燭の形にまで特にこだわった。美術班は事前に大型の蝋燭を購入し、蝋をすべて溶かしてから監督が求める形と寸法に作り直した。
侯孝賢の映画に対する要求の高さは人を感動させると黄文英は言う。侯監督の仕事をしてきて20年、そのうち12年を『黒衣の刺客』に費やした黄文英は、この作品の深みと余韻は絶対に観る価値があると言う。写真は夜間の撮影現場。(Spot Films提供/蔡正泰撮影)