アフリカは楊西崑の外交の場であり、一度は我が国の外交の重点地域でもあった。林永楽・外交部長(外相)によると、1960年代、アフリカは台湾海峡両岸が国連における代表権を争う主たる戦場だったのである。
楊西崑とアフリカとの縁は、楊が中華民国の国連代表団専門委員を務めていた時、国連信託統治理事会の西アフリカ視察団に加わったことから始まる。以来、信託統治の下に置かれたアフリカ諸国を頻繁に行き来し、「ミスター・アフリカ」と呼ばれるようになった。
楊西崑は、外交部西アジア・アフリカ局長在任中に積極的に「先鋒プロジェクト」を推進し、西アフリカのリベリアなどへの農業技術支援を推進し、各地の農業発展に大きな成果を出すとともに、支持と友好を勝ち取ることができた。
1978年12月、台湾と米国の関係に大きな変化が生じた。米国が中国大陸との国交樹立を宣言したのである。この時、楊西崑は蒋経国総統の命を受け、台湾を代表してワシントンに赴き、二国間関係について協議した。そして1979年4月、米国国会は「台湾関係法」を採択し、後の台米関係に良好な基礎を築いた。
1979年9月、楊西崑は駐南アフリカ大使に着任し、当時の孫運璿行政院長の南アフリカ訪問や南アフリカ首相の訪台を実現させ、両国の友好関係は過去最高のレベルに達した。
生涯を外交に捧げた楊西崑は、賓客をもてなすメニューにも工夫をこらした。中でも東西の味を融合させたユニークな「八宝飯(甘いもち米で小豆餡を包んだ中華スイーツ)とアイスクリーム」の味は、林永楽外相や総統府の丁懋時・資政(顧問)、江丙坤氏らも忘れられないと言う。
楊西崑の長男である楊兆平氏によると、楊は生前、自らを「外交官」ではなく「公僕」と呼んでいたという。アフリカを奔走する生前の姿を振り返れば、心から尊敬の念がわいてくる。
数々の写真に残された往年の姿と、授与された勲章から、我が国の外交における楊西崑(1910-2000年)の貢献が見て取れる。