独自のスタイル
一人の画家にとって、自身のスタイルを確立するのは、容易なことではない。1963年に王南雄が師範大学芸術学科に進学した当時、学科は専門毎に分かれていなかったので、黄君璧、林玉山、張徳文などの大家が指導し、水墨画も西洋絵画も併せて学び、学校は学生にスケッチと創作を推奨していた。
欧米では現代美術の機運が高まった時期で、台湾もその思想の影響を受け、伝統と現代、東洋と西洋をいかに融合させ、自身をいかに定義づけるかの議論が盛んだった。王南雄は現代絵画の手法による表現を志し、同期の蘇新田、呉炫三、李長俊などと「画外画会」を結成した。視覚的実験を提唱した彼らは、「展覧会ではテーマを決めて、様々な手法や形式を用いて、コンセプトを表現しようと試しました」という通り、水墨画、油絵、エアブラシ、版画などの技法を実験した。「西洋と伝統絵画の間を行き来し、どこに行くべきか真剣に向き合いました」と画家は言うが、それも自身の芸術表現を考える芸術家が通る過程であったのだろう。
1980年に王南雄は教職を離れ、縁あって恩師である黄君璧の元に戻った。毎日師を送り迎えしながら、共に展覧会を見にいったり、お茶を飲みながら、生活から芸術まであれこれを語った。「現代絵画から伝統的な水墨画に戻るきっかけは、黄先生との触れ合いの中からでした」という。黄先生と長時間ともに過ごして、師と自分の審美観との相違に気づいた。自分がいいと思うものに対して、師は度々首を横に振る。その差異はどこにあるのかを突き詰めようと、王南雄は再び故宮の画集の模写を基礎から始め、伝統的な山水画を描き始めた。こうして、新たに書き上げた作品を黄君璧に見せると、師は一目見て、ほかにはないスタイルだから個展を開くように励ましてくれた。こうして王南雄は、自分の現代水墨画のスタイルを確立していったのである。
伝統的な水墨画は意を移すもので、描くのは画家の心の山水である。一方、王南雄は大学時代に西洋絵画のスケッチ、デッサン、透視画法などの訓練を受けており、これを水墨画に応用した。スケッチにより大自然を師とし、水墨により自然を歌い上げる。黄君璧はかつて「王南雄の絵は動きがある。雲も風も水も動いていて、静から動を生み出す画法は容易ではない」と語った。王南雄はさらに顔料を用いて色を添え、春の新緑、夏の青空、秋の紅葉、冬の瑞雪を画布に載せた。世界各地を歩き回り、各国の風景も題材に取り入れた。台湾の伝統的な赤煉瓦の家と田園風景に加え、大阪城の絢爛たる桜、ヨーロッパの荘厳な古城、モロッコの魚市場の賑わい、厳粛なガンジス川の雰囲気が画仙紙を彩った。しかし、彼は顔料に墨を加えて明度を下げ、派手な色彩を抑え、筆墨の味わいを残すことに心を砕いたのである。
色彩豊かな水墨画が市場に受け入れられるには時間がかかり、斬新な構図に反発を受けることもあったが、王南雄は諦めることなく作品を美術コンクールに出展し続けた。最初は排斥していた審査員だが、次第にその評価が好転していき、彼のスタイルが世に受け入れられることとなった。その間、王南雄は常に心に抱く美を追い求めていったという。画家の基準は常に美であり、彼は自分を唯美主義者と定義する。学生時代に美を提唱すると、美には個性はないと言われた。「美には無論個性がある」と、王南雄は反駁したが、美を表現するには当然ながら技術が必要となる。単なるインスピレーションで表現できるものではなく、しっかりした基礎の技術の上に、自由に表現できるのである。
北宋汝窯の天青燻炉を手にする王南雄。美のコレクションもその趣味である。