文学の旅の終点:東華大学楊牧書房
アメリカで30年にわたって教鞭を執ってきた楊牧は、1995年に台湾へ戻り、東華大学での人文社会学部創設に協力し、さらに華文創作研究所(MFA degree)を創設した。全国で初めて、著名な作家を大学に招いて住んでもらうライター・イン・レジデンス制度を導入し、瘂弦や黄春明などの作家を招き、学生の間に文学創作ブームを巻き起こした。
文学部2階の渡り廊下を通って、清潔でシンプルな学部長室へ行くのが、楊牧のお気に入りのルートだった。ここを通る人は少なく、その光景は教師や学生の間で「東華の風景」と呼ばれていたと許又方は言う。楊牧の〈兎-七月廿日東華大学所見〉という詩を読むと、楊牧が東華の三宝とされるキャンパスの風景、野生のウサギやキジを描いていることがわかる。
もう一人、楊牧の熱烈なファンである和碩(ペガトロングループ)の童子賢董事長は同じく花蓮の出身で、若い頃から楊牧の作品を愛読し、台北工専の学生だった時には『台北工専青年』誌の編集を担当していた。この文学青年出身の企業家は、ある講演で楊牧の作品〈花蓮〉を暗唱して声を詰まらせた。楊牧の詩の多くを暗唱できる童子賢は、楊牧は自身の人生において重要な詩人で、多くの困難を乗り越える力になったと語る。
東華大学に足を運んだら図書館にある楊牧書房を訪れるといいだろう。公開されている公共空間には楊牧の直筆の原稿や作品、蔵書、タイプライターのほかに、すでに絶版となった最初の詩集『水之湄』も展示されている。
楊牧は台湾で晩年を迎えた。16歳から76歳まで詩や文章を書き続け、「楊牧現象」を巻き起こし、多くの作家にとって超えることのできない目標となった。研究者にとっても、楊牧は探求し尽くすことのないテーマである。文学の旅を通して、私たちも再び楊牧の作品に触れてみようではないか。
『山風海雨』によると、楊牧は3~4歳の頃に花蓮市南京街91号へ引っ越した。この古い家屋の家主は幾度も変わり、今は扉は閉ざされている。
光復街57号にある「旧書舗子」は、本を愛する花蓮の人々にとって重要な場所である。
楊牧は太魯閣峡谷を訪れ、〈俯視-立霧渓一九八三〉を書いた。
木瓜渓の谷の方向を望めば、奇莱北峰を目にすることができる。(崔祖錫撮影)