歴史作家の曹銘宗は著書『吃的台湾史(食の台湾史)』の中で、温州大餛飩(温州風の大きなワンタン)、牛肉麺、蒙古烤肉(モンゴル風焼き肉)など、よその土地から入ってきたように思われる台湾料理を多数挙げている。紆余曲折を経てきたこれらの料理は、実は正真正銘のmade in Taiwanなのだが、一般の台湾料理とは毛色が違い、また台湾以外の土地の名が冠されているため、多くの人が外来の料理だと思っている。
あなたも、これらは「異国料理」だと思っていないだろうか。なぜ、このような現象が見られるのだろう。
高雄市左営にあるレストラン「思想・起文化厨苑」を訪ねた。ここの経営者で高雄餐飲大学厨芸学院の元学院長(学部長)である楊昭景は、退任後、自宅をプライベートキッチンに変え、自ら厨房に立つとともに、大学の卒業生を招いて交代で調理の腕を振るってもらっている。
料理の説明の巧みさで知られる楊昭景は、その日のメニューを指差しながら、食材の由来や、それらを組み合わせた時の味、そして歴史や年代を考慮してメニューを組み立てていると語る。
まず最初に出されるスープは、長い歴史を連想させる。椀の中の福袋の中には、大航海時代に台湾近海でよく捕れたサワラやカジキ、マグロなどの魚とエビ、小イカなどが入っており、スープの中の緑のオランダ豆は17世紀にオランダ人が台湾に持ち込んだ食材である。アユの料理もある。アユは日本人の影響で台湾でも養殖されるようになったものだが、この料理は揚げてから煮込み、蒸し、焼くといった手順を経ており、さらに腹には客家の酸菜(酸味の強いカラシナの漬物)が詰められていて、別の風味も加えてある。続いて、海草風味の月亮蝦餅(エビのすり身を春巻きの皮で挟んで揚げたもの)、温州大餛飩(温州風の大きなワンタン)、原住民族の粟のチマキ(cinavu)などが供される。
物資が乏しかった農業時代、台湾人の飲食は素朴かつ質素で、魚には塩をふって油で焼くだけだった。このシンプルな旨味こそ台湾人が認める重要な食のスタイルである。その後、暮らしが豊かになるにつれて、魚を焼いている鍋に最後に醤油をたらし、香りを立たせるようになった。さらに豊かになると、ようやく醤油と砂糖を加えた汁で煮る「紅焼」という料理が作られるようになったのである。
食文化に造詣の深い楊昭景は、台湾でよく食べられている料理の生い立ちを語ってくれた。
台湾の味は移民の味
1949年、国民政府が台湾に撤退するとともに大陸各地の人々が台湾に渡ってきて、それぞれの出身地の食文化が持ち込まれた。そして大陸各地の故郷の調理方法に台湾の資源や物産を組み合わせることで新たな料理が生まれていった。これは台湾の食文化史における大きな変化と融合の時代である。牛肉麺や蒙古烤肉、左宗棠鶏など、今は誰もが知る料理の多くが、この時代に生み出されたのである。1970年代以降になり、台湾が農業社会から商工業社会へと転換するとともに、これらの料理が外食市場を通して一般大衆へ広まっていった。そして商業メカニズムを通して淘汰されるものは淘汰され、今日まで残っているものが定番料理となったのである。
「ですから、厳密に言うとこれらは『異国料理』ではなく台湾の新しい料理と言うべきなのです」と楊昭景は言う。
台湾人が好きなアユ料理は、日本の影響を色濃く残している。
アメリカから逆輸入された左宗棠鶏
中でも広く知られる新しい料理と言えば「湘菜厨神(湖南料理の名シェフ)」と呼ばれる彭長貴が生み出した「左宗棠鶏(揚げ鶏のピリ辛炒め)」だろう。記録によると、1953年、アメリカ軍のアーサー・W・ラドフォード最高司令官を国防部がもてなした際に、彭長貴がこの料理を生み出し、最高司令官に敬意を表して清末に湖南軍を率いた名将・左宗棠の名をつけて供したといわれている。
左宗棠鶏は、台湾よりも先にアメリカで有名になった。1973年、彭長貴がアメリカにレストラン「彭園」を開き、左宗棠鶏をメニューに入れたところ、これが大好評を博し、キッシンジャー元国務長官もこの料理を好んだという。現地の他の中華料理店も次々と真似をして同様の料理を出すようになった。こうして左宗棠鶏は「アメリカ式中華料理」となったのである。
そのため、左宗棠鶏をめぐるエピソードも少なくない。映画監督アン・リーの初期の作品『ウェディング・バンケット』や『推手』にもこの料理が登場する。
スープの食材のオランダ豆、サワラ、カジキ、マグロなどは、大航海時代の歴史を反映している。
「台湾の味」のイメージと境界
彭長貴が開いた「彭園」で、私たちは台湾に暮らす独立記者で台湾系アメリカ人二世の魏貝珊(クラリッサ・ウェイ)にお話を聞いた。
魏貝珊はテーブルに出された左宗棠鶏を食べるとかすかにほほ笑む。彼女が生まれ育ったロサンゼルス近郊のアルカディアはアジア系住民が多く、食の面では台湾との差はなかったという。その話によると、多くのアメリカ人は左宗棠鶏の背景を知らないだけでなく、台湾の食べ物のイメージと言えば豆乳や焼餅(パイ)、葱油餅(ネギ入りの薄いお焼き)などのほか、「台湾人は辛いものに強い」といったものだ。
こうした偏ったイメージを正そうと、台湾とアメリカの両方の文化に親しんできた彼女は「The New Yorker」や「Bon Appétit」などに食に関するコラムを書いてきた。また、外国人向けの料理教室「Ivy's Kitchen」を開いている陳淑娥とともに、台湾料理を中心とする英語のレシピ集『台湾製造(Made in Taiwan)』を出版した。
400ページもある写真も載せたハードカバーのレシピ集には、滷肉飯(ルーローハン)や蛋餅(小麦粉の生地を卵と一緒に焼いたもの)などの庶民の味から、煎虱目魚(サバヒーのソテー)や白菜滷(白菜の煮物)といった家庭料理、外省の料理である小龍包や葱油餅、客家の客家小炒(豚バラ肉やスルメイカの炒め物)や蘿蔔苗蒸肉(大根の葉と挽肉の蒸し物)、原住民族の阿拝(粟のチマキ)や樹豆排骨湯(樹豆とスペアリブのスープ)まで載っている。
『台湾製造』はレシピであるだけではない。魏貝珊は、この本を通して英語圏の人々に台湾料理を知ってもらうだけでなく、料理を通して台湾のエスニックや文化、歴史などの複雑さに触れてほしいと考えている。「台湾料理の最大の特色は、実はアメリカと同様、非常にfusionだという点にあります。私たちの食べ物は、さまざまな年代に外部から入ってきましたが、いずれも台湾の食材と調味料を使わなければならず、それによって唯一のものとなっているのです」と言う。
来賓をもてなす時や婚礼や祭りなどで供される原住民族のCinavu(粟のちまき)。
台湾でタイ料理と出会う
彰化師範大学地理学科の遅恒昌・准教授は、台湾のタイ料理の研究に注力している。その話によると、台湾で主流のタイ料理レストランの大部分は、戦後に台湾に移り住んできたタイ・ミャンマー華僑が開いている。これらレストランの料理は世界的に有名なタイ料理の名を冠しつつ、故郷の雲南やタイ族の食文化を融合しており、また台湾へ移住してくる間にミャンマーを経由してきたことからミャンマーの食文化も加わっている。
「タイは彼らのビジネスであり、雲南は彼らの文化的アイデンティティ、そしてミャンマーは家族の移転の歴史なのです」と遅恒昌はまとめる。そのためタイ料理レストランと銘打っているものの、提供するのはやはりfusion料理なのだ。タイ料理のトムヤムクンやグリーンカレー、ソムタムなどの他に、雲南の大薄片(豚の頭の皮の薄切り)や豌豆涼粉(豆の粉で作った冷たい麺)、耙耙絲(米粉の麺)、破酥包(肉まん)、それにミャンマーで流行しているインドのナンなどもある。「このようなタイ料理レストランは台湾にしかないでしょう」と遅恒昌は言う。
こうした背景から、広く知られる「椒麻鶏(鶏の唐揚げのスパイスソースがけ)」という料理が誕生した。本場のタイにはこの料理はないのだが、台湾のタイ料理店にはなくてはならないメニューである。
ミャンマー華僑の二代目で、プライベートキッチン「三季」を経営する楊萬利は、椒麻鶏はミャンマー華僑が発明した料理だと考える。この料理のポイントは鶏肉の下味で、これに使われる草果(ソウカ)と花椒は「どひらも雲南の華人が大好きな香辛料ですから」と楊萬利は言う。
「思想・超文化厨苑」の厨房では、高雄餐飲大学の卒業生が交代で腕を振るっている。
台湾の「月亮蝦餅」
では、月亮蝦餅(エビのすり身を春巻きの皮で挟んで揚げたもの)はどうだろう。
多くの台湾人は、月亮蝦餅はタイ料理だと思っているが、タイに旅行に行ってはじめて現地のものとは違うことを知る。現地のものはトートマングンという名称で、サイズが小さく、エビのすり身にパン粉をつけて揚げてある。そのため、月亮蝦餅は、正真正銘のmade in Taiwanだと言う人もいる。
そこで、この料理が生まれた経緯を知るために遅恒昌は台湾の複数のレストランのシェフに話を聞き、バンコクで実地に調査もした。彼が、シェラトングランド台北ホテルのタイ料理レストラン「スコータイ」のタイ人総料理長Sudsaidee Phonlaphatに話を聞いたところ、月亮蝦餅はタイ王室のレシピだということだった。また、台北市公館にある老舗レストラン「泰国小館」の二代目オーナー周瑪莉も、これはタイ料理だが、タイの現地では高級なシーフードレストランでしか食べられないと語ったという。これを確認するために遅恒昌はチェンマイとバンコクの高級レストランを訪れたところ、月亮蝦餅と同じ料理が提供されていたのである。
しかし、厳密に言うとレシピには著作権はなく、この料理が生まれたのがタイであれ台湾であれ、どちらの説にも確実な証拠はない。月亮蝦餅の歴史は謎のままなのである。だが、一つ確実に言えるのは、食文化は常に流動しているということだ。一つの料理がどこかに出現することは、人の移動に関わっており、その文化的背景や知識や技術の継承と革新にも関わってくる。誰の発明かにこだわるより、その背後にある意義を考えるべきであろう。
月亮蝦餅は台湾人の発明かも知れないし、そうでないかもしれないが、台湾では現地タイより流行していることは確かだ。台湾のタイ料理店に欠かせないメニューとなっているだけでなく、冷凍食品としてスーパーやコンビニでも売られていることからも、この料理がいかに台湾人の暮らしに根付いているかがわかるというものだ。
イギリスで生まれたカレー「チキンティッカマサラ」はイギリスの国民食とされているのだから、月亮蝦餅も台湾料理と言って何の問題もないと遅恒昌は考えている。小龍包や左宗棠鶏、椒麻鶏のように、すでに台湾人の暮らしに根付き、しかも世界に知られ、外国の人々がこれらの料理から台湾を連想するまでになっている。そうであるならば、これらが台湾料理であることに疑う余地はないだろう。
台湾で生まれながら「温州」の名を冠したワンタンスープ。刻み海苔をのせれば見た目もよく、おいしくなる。
曹藎茞に師事した彭長貴は台湾でレストラン「彭園」を開き、たくさんの有名な料理を開発した。生菜蝦鬆(エビと油條のレタス包み)、左宗棠雞(揚げ鶏のピリ辛炒め)、富貴双方(蜜漬け金華ハムと揚げ湯葉のサンドイッチ)などである。
外国人の台湾料理に対する偏ったイメージを覆すため、魏貝珊は台湾料理レシピ集『台湾製造(Made in Taiwan)』を出した。食を通して台湾文化の多様な姿に触れてほしいと考えている。
台湾のタイ料理レストランの多くは、タイ、ミャンマー、雲南の食文化を融合した料理を出しており、台湾の多様なエスニック文化を反映している。
台湾のタイ風料理の研究に力を注ぐ遅恒昌。
生まれた場所がタイであれ台湾であれ、台湾で大人気の月亮蝦餅は、すでに台湾人にはお馴染みの料理である。