陳添順だけではない。MOXAという会社そのものもユニークな物語に満ちている。

農家に生まれた陳添順は、幸運にも台湾の経済成長の波に乗って理想の仕事に就いた。34歳で外資系企業の総経理になり、後にグローバル副総裁にまで昇進した。41歳の時に台湾企業のMOXAに転職、CEOにまで上りつめて会社の業績を十億から百億規模にまで成長させた。

メディアからも前途有望と評価されるMOXAは「隠れたチャンピオン」で、独自の経営理念を持つ。株式を上場せずに社員に利益を分配し、社員の健康や家庭、自己成長を重視する。社内のルールにより、月曜の朝はコンピュータを使わず、電話にも出ない「働かない読書の時間」としている。5人から成る経営層は互いのルールとして、55歳でリタイアして若手に主導権を譲ることとしており、陳添順もその中の一人だった。

理工系の道を歩みつつ文化芸術を愛してきた陳添順は、ライフプランにしたがって早々とリタイアし、文化クリエイティブ事業を興して故郷･新竹に恩返しをしている。

感性豊かなITパーソン

このように非凡な経歴を持つ陳添順だが、有名校出身の典型的なエリートというわけではない。中学を出ると技術職業系の五年生専科学校に進み、卒業後に兵役を終えてから、台湾工業技術学院（現在の国立台湾科技大学）に入った。

社会に出てからは、一般の人と同じように一歩ずつ昇進していったが、子供の頃から文化芸術が好きで、一度は音楽家になりたいと考えたこともある。農業を営む両親は開放的な考えを持ち、芸術を学ばせる財力はなかったものの、彼にやりたいことをさせた。そこで学生時代は楽器をやり、合唱団にも参加した。「成長過程で、大きなプレッシャーを感じることはなく、好きなことをやってこれました」と言う。

その後、順風満帆な人生を歩み、十分な資金と人脈を蓄積してきた陳添順は、親と社会に感謝し、リタイア前から両親の名をとって「鴻梅」という基金会を設立した。教員を務める兄嫁の影響で、新住民（外国から移住してきた人々）二世の教育という課題に取り組み、それから文化芸術の分野へも範囲を広げ、若いアーティストを対象に「鴻梅新人賞」を設けた。

書店を開いたのは予定外のことだった。2015年、彼は妻とともに新人賞を取った若い芸術家を率いて日本の越後妻有アートトリエンナーレに参加した。その途中「世界で最も美しい20の書店」の一つとされる蔦屋書店に立ち寄った。

蔦屋書店に行く途中、強い日差しの下で道に迷い、人に尋ねると「Bookstore」という単語を聞いて、その人はすぐにわかったようで、目的地まで案内してくれた。この小さな出来事に感動した彼は、故郷に書店を開きたいと思うようになったのである。

新竹の新瓦園区にオープンした「或者書店」。緑の多い心地よい環境で、休日には多くの人が訪れる。

書店からスタートする

「テクノロジー‧タウン」として知られる新竹には、理工系トップの2大学とサイエンスパークがあり、テクノロジー系のサプライチェーンが完備している。だが、その一方で文化の砂漠とも言われ、実は百年の歴史と豊かな文化を持つ地域であることは忘れられがちだ。

その新竹に2017年、「或者書店」がオープンした。新竹駅で高速鉄道を降りて近くの新瓦屋客家園区へ行くと、芝生の向こうに2階建ての或者書店が目に入る。すっきりした明るい外観の書店に、旅人は魅了される。

多くの独立系書店では狭い空間に書籍がひしめいているが、「或者」はそうではない。3軒の古い家屋の壁を打ち抜いてつなぎ、床までの広い窓を多く採用し、温もりのある木の内装にした。この空間に1万冊近い書籍が並び、居心地の良い読書空間も設けている。さらに高齢者や障碍者のためのエレベーターもあり、2階のベジタリアンレストランと通じている。

投下した資金は少なくないが、独立書店として精確な仕入れを行なって独自のスタイルを打ち出している。エリート路線ではなく、理念も標榜しない。積極的に地域住民とのコミュニケーションの機会を作り、住民のニーズをくみ取って、それに合致する良質の図書を揃えている。

書店は竹北にあり、知識人や若い世帯が多いため、扱う書籍は人文関係が多い。また2階のベジタリアンレストランに合わせて、エコロジーや農業、サステナビリティといったテーマの本も多く扱う。地域の属性から、親子で読める絵本などの教育·教養関係の図書も少なくない。

書店内には腰かけられるコーナーが多数あり、親しみやすい読書空間となっている。

企業化経営

「地元の人が誇りに思い、旅行者が憧れる」書店だ。木漏れ日が差し込むウッドフロアで、親子が微笑みながら本を読む光景を見れば、陳添順が求めていたものが実現したことがわかる。

かつて大企業で陣頭指揮を執っていた陳添順は資金力もあり、「或者」はかなりの規模でオープンした。経営面でも綿密な計画を立てている。「文化クリエイティブ産業とは言っても、経営者の情熱や理想だけに頼るわけにはいきませんし、奉仕という態度で経営することはできません」と言う。営利を最重要目的とするわけではないが、「効率的かつ合理的で、さらには自給自足できるビジネスモデルを見出し、しかも独特の創意を生み出せればと考えています」と言う。

家庭や故郷に感謝している彼は、新竹をホームグラウンドとしている。「以前のように海外に暮らしていたら、寄付や賛助といった形でも構わないのですが、故郷で土地と深くつながっているのですから、困難や挫折、孤独を感じてもやり続けます」と、かつてアメリカに10年暮らした陳添順は深い思いを込めて語る。

彼の最終的な理想の未来図は、衣食住や教育、レジャーなどさまざまな面から五感の体験をもたらす「分散型ミュージアム」の構築である。文化に消費する人々をメインターゲットに、ニーズを満たす場をシリーズで打ち出し、最終的には新竹の文化の美のレベルを高めていく。

「或者」という店名の「或」は可能性を示し、「者」には人を核とするという意味が込められている。60人以上のチームに明確な事業プランを示し、それぞれの能力を発揮させる。人を中心とするという理念はMOXAと一致する。

書店は客家文化保存区にあることから、客家をテーマとする書籍も多数扱っている。

文化で新竹を輝かせる

この事業が経営上自給自足できるようにするには規模を具えなければならない。そこで書店を開いてから間もなく、第二の「或者」をオープンした。新竹の旧市街地にある「工芸櫥窓」である。陳添順が所有する4階建て、築60年の古い建物を利用した。

古い建物の雰囲気を残すために、模様入りの窓格子や研き出しの床、梁や柱などを残した。ここのテーマは「適切な日常」というもので、新竹や台湾各地、あるいは日本で探した工芸品を扱っている。飽きの来ない雑貨類は暮らしの質感を高め、工芸品に触れるきっかけにもなる。

書店をオープンしてから4年、「或者」は新竹一帯で書店と工芸櫥窓の他に、民宿やレストランも展開し、2021年には影像博物館と料理美術館も開幕する予定だ。

美を感じさせるこれらの拠点は互いに呼応するもので、内部の陳列や細部には陳添順の人生の軌跡が隠されている。学生時代に好茶集落でボランティアをした経験から原住民芸術と縁を結んだ彼は、自分が所有する原住民アーティスト、イタン‧パヴァヴァロンの絵を「工芸櫥窓」に飾っている。民宿の「或者風旅」のロビーにはアフリカの太鼓やレコードなどがあるが、これらも陳添順がアメリカから持ち返ったものだ。こうして作られた空間から、人々は美しい暮らしに触れられ、個人のコレクションを多くの人とシェアしようという陳添順の思いにも感動する。新竹に吹き始めた文芸の風は、このように、一人で楽しむより多くの人と一緒に楽しみたいという気持ちから生まれたものなのである。

陳添順が信頼する若いチームは期待に応えて業績を上げ、「或者」の評判を高めている。

「工芸櫥窓」では主に台湾の工芸家の作品を扱っている。すべて陳添順夫妻とチームが各地で探してきたものだ。

古い家屋を修復･整理し、レトロでエレガントな雰囲気を残しながら新たな生命力を持たせる。

「工芸櫥窓」の4階にはカフェスペースがあり、消費者は手作りの工芸品の良さに触れられる。

「工芸櫥窓」は展覧スペースとしての機能も持つ。

工芸を推進する企業全体の理念から、民宿「或者風旅」では台湾の工芸家の作品を揃え、宿泊者が自分で使用する日用品を選べるようにしている。

五感の体験を謳う「或者風旅」は、宿泊者に新竹の文化の美を感じさせる。

「或者風旅」の1階にある拾肆味（MUI 14）では、新竹の14の市町村で作られた漬物を扱っている。