
台湾のシェルパと呼ばれる東埔のブヌン族は、ヒマラヤのシェルパと同様、数十年にわたり台湾で最も信頼されてきた高山ガイドだ。かつて玉山に住んだ祖先を持ち、山を知り尽くした彼らは、その登山能力の他にどのような特質を持っているのだろう。深山に暮らしてきた彼らは、どのような知恵を持って山林と向きあってきたのだろうか。
「静かに歩きながら、よく見てください」玉山国立公園の森林監視員でブヌン族の林淵源さんは、瓦拉米山で動物を見るのは難しくないと言う。午前7時から9時の間なら、動物が日を浴びに出てきて、餌を探すからだ。「運良く私たちが風下になれば、動物は人間の臭いに気づかないので逃げません。そうすればスイロクやキョン、ミカドキジなどが見られますよ」と言う。
瓦拉米の山小屋を出ると、林さんは先頭に立ち、両手を背で組み、力強い足取りで黙って歩き始めた。2キロにわたる山道で、林さんに教えられ、山腹にスイロクとキョンを見た。だが、この2度以外は林さんが振り返って「動物がいます」と小声で教えてくれても、都会暮らしで感覚機能の退化した記者には、どんなに探しても見えなかった。

ブヌンの人々は猟で捕獲したイノシシやヤギの下顎の骨を家の入口につるす。写真は南安遊客センターに展示されている石板屋。
猟の名手たれ
たくましく日に焼けた林淵源さんは幼い頃から父親について山で狩猟をしていた。50歳近い今も機敏で精悍な彼は、ブヌン族の優れた特質を感じさせる。彼は刀一振りと銃、それに一包みの粟だけで、馬西山で一ヶ月生活することができ、クロクマを2頭しとめたことがある。無口だが、話し始めると物語は次から次へと尽きることはない。
林淵源さんと同じく花蓮の卓渓郷で育った余明徳さん(ブヌン名はハイシュル)は、政治大学民族学研究所の博士課程に学んでいる。子供の頃から山に罠を仕掛けたり猟をしたりするのが好きで、ブヌンの狩人の生き方に影響を受けてきたと言う。
「小さい頃、山奥の渓谷で子供同士ではしゃいでいると、大人からひどく叱られました。大人について猟に行くと、何時間も歩く間、黙っていなければならないのです」と余さんは言う。こうした経験から寡黙な性格が培われたのだが、子供の頃は自覚はなく、大人になってから深い影響を受けていることに気づいたという。彼は現在フィールドワークをしているが、ブヌン族の長老にもこうした共通点があるという。「非常に知恵のあるお年寄りを何人か訪ねました。彼らは普段は寡黙ですが、深く掘り下げると、たいへんな知恵を持っていることがわかります」と余さんは言う。
ブヌンの人々にとっての狩猟の重要性は、今も各集落で「打耳祭」が行なわれていることがからもうかがえる。一年で最も重要な祭典の「打耳」とは、スイロクの耳を射るという意味だ。「スイロクはヤギやイノシシより体型が大きいため、ブヌン族は何としてもこれを射止めたいと思う」とブヌン族の教員である田哲益さんは『台湾ブヌン族の生命祭儀』で述べている。
打耳祭では、スイロクやイノシシなどの下顎の骨を祭り、幼い男子が親族や長老に抱かれて弓矢で耳の的を射る。続いて大人が交代で的を射て、肉を分け合って食べる。「猟槍祭」では武器を祭り、「猟首祭」では人骨と獣の骨を祭る。いずれも、子供たちが優れた弓矢の使い手になることを願うものである。
ほぼ毎年帰省して打耳祭に参加する余明徳さんによると、この祭りは日本時代に禁止され、1980年代にようやく復活したそうだ。普段はそれぞれ忙しい人々も、祭りの前の4〜5月になると活気付いてきて、現代社会においてはブヌン族の人々の気持ちを一つにする役割を果たしている。彼らにとって打耳祭はかけがえのない喜びなのである。
打耳祭の最後にマラスタパンという儀式が行なわれる。男性が一人一人その年の狩猟の功績を報告し、一言報告するたびに、掛け合いのように周りの人が言葉を返すというものだ。そのリズミカルな喜びの声は祖先の加護を祈るもので、祭りはクライマックスを迎える。

剽悍で団結力の強いブヌン族は、日本時代には数々の抗日事件を起こして警察を苦しめた。写真はカシバナン事件の後に日本が建てた殉職者の慰霊碑だ。
勇気を尊ぶ
深山に分け入り、常に厳しい天候と環境に直面しなければならないブヌンの狩人には、鋭敏な観察力と判断力の他に勇気も必要だ。
林淵源さんは幼い頃、父親からよく夜に墓地に包みを持っていくように言われた。翌朝、父親がそれを見に行き、見つからなければ罰として朝食を食べさせてもらえなかった。これも子供の勇気を培うための訓練なのである。
学術探検が盛んだった日本時代の初期、ブヌンの頭目が日本人の森丑之助に敬服して友人になった。
楊南郡氏が訳した森丑之助の「南中央山脈探検」によると、1906年、植物の調査中に大崙坑社に立ち寄った時、人の首を手に持ち、彼の首を狩りに来たという大分社の頭目の弟アリマン・セクンに出会った。大分社は拉庫拉庫渓流域で最も剽悍な部族だ。アリマンは兄や仲間を殺した日本の警察を憎み、日本人の首を狩ろうと考えていた。近くの大崙坑社に日本の役人が来ていると聞き、アリマンは大崙坑社の頭目に、森を引き渡すよう要求した。だが頭目は、友人である森は引き渡せないと強く拒んだ。するとアリマンは待ち伏せして森を殺すと言い残した。
北も南も危険だと考えた森丑之助は大分社の領地で調査を続け、5日間、昼は隠れて夜に活動し、ついに大分社の追っ手から逃れた。森が無事玉里に着いた時、地元の警察官は彼を幽霊かと思ったという。この一件にアリマンは悔しがったが、森の度胸に敬服せざるを得なかった。
こうして「ブヌンの友」森丑之助の武勇談は各集落に広まった。「後に森の人となりを知ったアリマンは、森を殺さなかったことを幸いに思った。2年後、森が再び大分社の境界を通った時、アリマンは森の荷物を背負い、彼を守りながら送った」と楊南郡氏は「学術探検家森丑之助」に書いている。
だが残念ながら、このような異民族間の友情も、植民地における階級の違いから長続きはしなかった。
1915年、アリマンと兄の頭目は日本当局に抵抗して「大分事件」を起した(6頁の記事参照)。日本の警察に追われて二人は西南の荖濃渓上流へ逃れ、崖に囲まれた玉穂社を基地として10数年も戦い、少なからぬ集落がこれに加わった。
台湾の高山を深く理解していた日本の博物学者・鹿野忠雄と人類学者・森丑之助は、ブヌン族は高山原住民の中でも特に血族意識が強いと指摘している。タイヤル族は群雄割拠し、同族間の戦闘の歴史もあるが、ブヌン族は固く団結して一体となって外部と戦う。ブヌン族が最後まで帰順しなかったわけである。
自然への畏怖の念
だが、これほど戦闘意欲の強い剽悍な民族が、なぜ山林の大自然に生きる他の生物にはかくも優しく、畏怖の念を抱いているのだろう。
初めて山で猟をするブヌンの人は、必ずこう戒められる。渓流で水を飲む時は屈み込み、身体を水面につけてへりくだれ、勢いよく渓流に飛び込んで騒ぎ立てるのは不敬である、と。また、動物の繁殖の季節である春の猟は禁じられており、クマ狩りも冬にしか許されていない。
「打耳祭」の祈りの歌は、「動物よ、願わくは我が家に来たまえ、我が銃の前に来たまえ、あらゆる動物よ、ここへ来たまえ」と歌う。こうした歌や禁猟の規則、それに多くの神話などの背後にあるのは、狩猟における自然や山林資源への感謝と共有の精神だ。それは、人間だけが強い立場から利用するという考えとはまったく違う。
ブヌンの勇士の精神は、彼らの生活の場が変ったことによって昔ほど顕著ではなくなった。だが、今日の「環境を破壊せず、自然から学ぶ」というエコツーリズムにおいては、貴い参考になるに違いない。