台湾から来たカジノキ
考古学者の推論では、4000年前に台湾原住民族の勇者たちが太平洋に漕ぎ出し、風と海流と星を頼りに、現在のフィリピンに到着した。
その子孫たちがさらに未知の海に挑み、1000年余りをかけてマレーシアやインドネシア、ポリネシア、ニュージーランド、さらにはマダガスカルに到達したとされる。その移動ルートは地図をびっしりと埋め尽くし、八方へ放射状に広がっているが、その起点は台湾を指している。
これらの人々が話すオーストロネシア語族の言葉は、現在世界で使用人口が最も多い言語である。今では航海の技術を失った人々もいるし、現地の他のエスニックと融合した人々もいるが、先住民族の間には深い結びつきがあり、それは語彙や風習や儀式の中に残っている。
長年にわたり、民族音楽や台湾音楽史、原住民音楽を研究している台東大学音楽学科の林清財主任はこんな例を挙げる。パラオから訪れた芸術団の公演で披露された歌舞の形式や、歌の掛け合いなどは、台湾のプユマ族のみに見られるものだった。これは台湾とオーストロネシア文化との深いつながりを示す事例である。
もう一つ島と島のつながりを示す事例が2011年10月に発生した。林清財主任がニュージーランドのマオリ文化観光大臣をもてなして、台東のアミ族とプユマ族の集落を訪れた時のことだ。31日の夜、その大臣の夢の中に祖霊が現われて「おまえの祖霊はここから行ったのだよ」とほほ笑み、大臣は伝統の儀式を通して祖霊と交流したというのである。それ以来、台湾の原住民族委員会の官僚がニュージーランドを訪れると、必ず「兄弟が来た」と歓待してくれるそうだ。
林清財主任によると、この時の交流は台湾原住民族とマオリの関係を深めてくれただけでなく、間接的に台湾とニュージーランドとのANZTEC(経済協力協定)の締結を促し、同協定には先住民族間の協力に関する章も設けられた。
台湾史前文化博物館の王長華・館長は考古学の角度から二つの厳格な証拠を示した。一つは「台湾から来たカジノキ」だ。台湾、インドネシア、フィリピン、ハワイなどのカジノキの遺伝子配列を調べた結果、太平洋のカジノキの起源はすべて台湾にあることが発見され、またこれら地域の住民は同じようにカジノキの樹皮を使って衣服を作ってきたのである。
もう一つは台東の卑南遺跡から出土した精緻な台湾玉の彫刻だ。「すでに明確な考古学的証拠があり、今から2200~1000年前に、台湾の職人が台湾玉を持って海流に乗って南へと移動し、現在のベトナムやタイ、ラオス、フィリピンへ行ったとされます」と王長華館長は言う。
豪華朗機工は、廃棄物を再利用して台東の山並みのイメージを表現した。(荘坤儒撮影)