啓蒙の書を模写した父の愛
1891年12月17日、胡適は江蘇省川沙県(現在の上海市浦東新区)に生れた。胡適の父である胡伝(字は鐡花)は50歳になって得た末の子を溺愛し、わずか2歳の胡適を連れて台湾に赴任し、台南と台東に駐在した。胡適の台湾との縁は、この時から始まる。
父は聡明な息子のため、手づから子供向けに四音韻文の読み本『学為人詩』を編集、書写し、3歳の胡適を抱きながら人としての道理を説いた。しかし、幸福なときはあまりに短く、4歳の年に父は病死した。
母は父の三番目の妻で、夫とはかなり年が離れていた。胡適の生家は徽州の名門だったが、清末の大家族の中にあって、幼子を連れた若い寡婦は、何事も控えめに分相応に身を処していた。こういった背景があり、母の姿から胡適は忍耐と寛恕を学び、人に誠実に穏やかに接する態度を身につけた。
母の息子への愛を、胡適は次兄への書簡に語っており、その書簡は記念館に収蔵されている。少年時代に胡適は眼病を患ったのだが、心配した母は直接舐めると効き目があると聞いて、自ら試したという。その深い母の慈愛は心に刻まれ、書簡にも投影している。
書簡に記されたあれこれには、勉学に励む胡適と賢い息子への母の期待と教えが見て取れる。記念館の所蔵品には、13歳の時に書写した詩の音韻のテキストが残っている。その端正な筆跡には、真面目な人となりがうかがえる。
一代の碩学である胡適は、後世に残る多数の名著を著した。