今から90年ほど前、屏東県牡丹郷、四林社のパイワン族の頭目は部族の人々を率い、侵入してきた日本軍と勇猛に戦った。戦いには敗れたが、パイワン族の抗日の歴史に輝かしい一頁を残した。
数十年前、その頭目の曾孫に当る曹明生は、台湾の歴史上2人目の原住民出身の将軍となった。祖先の霊に守られてか、将軍は曽祖父の名「バカレファ・ルロン」を受け継いだ。二人は同じようにパイワン族の勇士として英気を漲らせてきた。
両親ともに原住民族という厳格な基準から見ると、今までに、我が国の軍に原住民族の将軍は2人しかおらず、将官全体に占める数は極めて少ない。1人目のアミ族出身の空軍少将、高巍和は1991年に退役し、96年に交通事故で逝去した。もう1人は2003年に陸軍将軍に昇格した曹明生、台湾初の陸軍作戦部隊出身の原住民将官である。昨年退役し、現在は退徐役官兵輔導委員会との合資で設立された欣欣バイオ食品公司で総経理を務めている。
我々が訪問した日、50歳近い曹明生はオフィスで忙しくしていた。来客に茶を勧めると、同僚と食品加工設備の購買を話し合い、忙しく別のフロアを行き来する。何事も自ら直接指揮を執っているようだ。日に焼けた肌は変わらないが、今の姿には戦場で指揮を執る将軍の勇ましさはない。以前より少し太り、やり手の企業経営者らしい雰囲気がただよう。

パイワン族の子供たちは、頭目将軍が語る軍隊のお話に耳を傾ける。
頭目の家に生まれた将軍
曹明生は、パソコン画面で、彼が軍で部下とともに製作したビデオ「バカレファ家の物語」を見せてくれた。
「バカレファ」というのは曹明生のパイワンの姓で、屏東県牡丹郷四林村の二大頭目家族のひとつだ。屏東県港口渓の傍らで、百歩蛇の祖霊と四林格山神の加護を受ける。曹明生は部落の頭目の身分を受け継ぎ、パイワンの精神を謳う軽快な「バカレファの歌」を作り、よく通る声で歌ってくれた。
正直でよく働き、誠意をもって人と向き合う。子孫は誇り高く生き、一族は末永く繁栄する
曹明生は1959年、4人兄弟の2人目に生まれた。多くの原住民の子供と同様、幼い頃から両親と一緒に山で柴を刈り、畑を耕した。しかし、集落の他の家庭と比べると生活はまだ楽な方で、一家6人は何とか暮らしていけた。
地元の牡林小学校と牡林中学では、成績はクラスで10位以内で、高校は家から遠からぬ省立恒春高校に合格した。原住民の集落から「省立高校」に合格するというのは大変なことで、狩りで大物をしとめて凱旋するのと同じぐらいの栄誉だった。四林村の部族の人々は曹明生の家に集まり、豚を締め、酒を飲んで祝った。
高校での成績は中の上で、先生は悪くない大学に進めるだろうと言ってくれ、彼は大学生になる日を夢見ていた。高校3年になるまで「軍学校」を受けることなど考えてもいなかった。

1996年に台湾海峡ミサイル危機が発生した時、曹明生は中国大陸に最も近い金門・馬祖の最前線で指揮を執り、上陸計画の演習を繰り返していた。
ペンを捨てて軍人の道へ
その頃、3歳年上の兄が台北の私立淡江大学に合格し、彼も進学の夢を膨らませた。だが高校3年になると、成績以外に気がかりなことができた。
「兄の学費や生活費だけで1学期に10万元になる。今は何とか払えるが、もし自分も私立大学に入ったら、親はどうやって金を工面するのだろう」と。
当時、村から軍学校に進んだ人はいなかったが、中学卒業後に一級下の士官学校に進んだ人はいた。曹明生が大学受験の準備をしつつ、学費のことで悩んでいる頃、高雄鳳山の陸軍士官学校が恒春高校に生徒募集に来た。その時はじめて、軍学校へ行けば学費も宿舎・食費も免除される上、毎月お小遣いまでもらえ、しかも大卒と同等の学歴が得られることを知った。
幾日か考えた後、彼は軍学校受験を決意する。「両親は、軍学校は大変だろう、17歳の少年に耐えられるだろうか、と心配しましたが、それでも私の選択を尊重してくれました」
1977年、陸軍士官学校に高得点で合格した。学校での4年間、学年によって違うが、毎月800〜3000元の俸給が支払われた。当時の小学校教員の月給5000元より少し少ないだけである。「今の志願兵は月給3万元で、集落では貧しい一家を養うことができます」と言う曹明生は、今も原住民青年に軍学校進学を勧めている。
優秀な成績で卒業した彼は、学校に残って教育班長を務めることとなり、ここから輝かしい軍人生涯が始まる。

郷里の四林村に帰れば、将軍でも軍帽を取り、部落の伝統に従って部族の年配者に挨拶をする。
台湾海峡のミサイル危機
1979年、曹明生は金門の排長に任命され、戦闘部隊「無敵隊」の隊長も兼ねた。90年、上級士官を育成する三軍大学陸軍学院の研修生に選ばれ、翌年は金門の旅長に就任、95年には金門防衛司令部(今の金門防衛指揮部)の作戦処科長に命じられた。
96年、台湾海峡ミサイル危機が発生、共産党が台湾海峡でミサイル試射を行なった。ミサイルは高雄と基隆の沖に着弾し、一度は共産党軍が台湾の離島の一つに出兵するとの消息もあった。一触即発の状況に台湾人は不安に陥り、多くの人が海外に移住あるいは避難した。行政院主計処の統計によると、同年の海外移住者は11万9114人で、94年と95年の合計11万1494人より多い。
当時、金門防衛司令部にいた曹明生は、金門、馬祖、大胆、二胆などの離島の作戦計画を任されており、実践訓練も指揮し、台湾海峡の最前線の守りを固めていた。
「演習中、前線の軍人は何日も眠れませんでした」と言う。緊迫した状況に、多くの上級士官も体力が続かず、点滴を打ってしのいでいた。そんな中で彼だけは原住民としての体力に支えられ、明晰な頭脳と鉄の意志を維持していた。だからこそ、冷静に兵を指揮し、前線の兵士の気持ちを落ち着かせることができたのである。
曹明生は、牡丹社や霧社などの原住民族による抗日事件が証明するように、原住民には「命をかけて郷里を守る」血が流れていると感じている。多くの漢民族が海外へ逃れたのに比べ、原住民には「避難」という考えはなかった。「原住民にとって、台湾は最初から唯一の土地なのです。ここに残って戦う以外に道があるでしょうか」と曹明生は誇らしげに語る。
キャリアを積んで将軍に
98年まで、曹明生は台湾本島と金門島の間の赴任を繰り返し、排長、連長、営長、旅長と完全なキャリアを積んできた。そして2003年の元旦、ついに陸軍少将に昇格する。その翌日、彼は故郷に錦を飾る心持で軍服を着て部落に帰った。部族の人々は、自分たちの頭目将軍のために豚を締めて祝杯を挙げた。曹明生もパイワンの伝統衣装に着替え、人々と一緒に肉を頬張り、どんぶりで酒を飲んだ。彼の栄誉は、部落の栄誉でもあるのだ。
軍学校を卒業した少尉が、少将として肩章に星をつけるまで、昇格に「原住民」というエスニックの影響はなかったと感じている。ただ、プライベートでは、軍の仲間同士で互いの違いを暗示するような言葉でやりとりすることもあった。「各地から集まった若者たちは互いに冗談を言い合ってストレスを解消します。私のことを『番仔』とか『山地人』などと呼ぶ人もいますし、私も仲間のことを『大山東』とか『江西老表』などと呼んだことがあります。それは、まったく悪意のないやりとりです」と言う。
曹明生によると、軍に適応できずに辞めたり辞めさせられたりする人は、原住民族に限らず、どのエスニックにもいる。「原住民は身体能力が高いので、むしろ厳しい訓練に耐えられます」と言う。軍学校に入ったばかりの頃、毎日5000メートル走らされたが、それは彼には至極簡単なことで、いつもトップでゴールしていた。そして後ろを見ると、原住民ではない仲間たちが、倒れたり、吐いたりしていて、同情した。
親心で部下に接する
曹明生が軍学校に入ったばかりの頃、親は、彼が訓練で怪我をしていないかと心配し、しばしば面会に来てくれた。その気持ちが分かるからこそ、その後、曹明生も親の気持ちで若い兵士たちに接してきた。91年の頃、彼が苗栗県の後龍海防営の営長を務めていた時のある未明、無線連絡があり、義務兵が鉄道周辺巡回中に列車に接触して倒れたと知らせてきた。曹明生が急いで現場に駆けつけると、兵士は腸が飛び出るほど腹部に大きな傷を負い、意識不明だった。
「私は彼を抱きかかえてジープに乗り、病院へ着くまでの30分間、ずっと彼の腹部を押さえていました。両手は血まみれでした」と、痛々しそうな表情で語る。
それから半年後、曹明生は自らの手で、彼が救ったその兵士に除隊令を手渡した。「大難を乗り越えたのだから、必ず福が来る」と彼が回復を祝福すると、若者は目を潤ませて幾度も感謝の言葉を述べた。
昨年退役した曹明生は、退徐役官兵輔導委員会の手配で、欣欣バイオ食品公司の総経理に就任した。新しい仕事のために、彼は独学で食品化学と経営の知識を学んだ。デスクひとつとパソコン1台、それに椅子がいくつかあるだけのオフィスだが、いたるところに各種の専門書が置かれている。
自宅からは遠い職場なので、屏東に暮らす家族やパイワンの仲間に会えるのは週末だけだ。長女の偉玲は中国医薬大学在学中、二女の偉玲は中学生だ。娘たちに入隊を勧める気持ちはあるかと問うと「彼女たちの選択を尊重しますよ」と頭目将軍は答えるのだった。