平埔族の物語を
美術館と北投のつながりの深さゆえに、「北投」は、人々が美術館を知る大切なコードとなってきた。それはまた、異なる北投を知りたければ鳳甲に行けばいいということになる。
例えば最近の展示「デイゴの家を尋ねて——平埔族はどこに」は、北投平埔族を主題にした美術展示で、会期3年のうちの第2ステージに当たる。
北投における最も古い住民——平埔族は、幾度もの居住地移転や土地の収用、また漢人化も進んだせいで、文化遺産が失われてしまった。
この展示のきっかけは、その何年か前に起こった抗議活動に始まる一連の出来事だった。平埔族であるケタガラン族北投社の墓地だった場所が、半ば強制的に収用されて「22号公園」が作られた。乱暴な形で歴史が抹消されたことに、北投社の末裔たちが抗議の声を上げたのだ。後に公園名は「北投社三層崎公園」と改称されたが、園内の50メートルにわたる「歴史文化歩道」にも、平埔族に関する記述はなかった。
彼らの怒りを和らげるため、文化局の委託により、鳳甲がプロジェクトを請け負った。展示やワークショップ、講座を催し、北投の歴史における平埔族の歩みを新たに語ることにしたのだ。
それには、まず辛抱強いコミュニケーションが必要だった。例えば「保徳宮」は、漢人化が進んだ後、北投社の人々の重要な信仰の拠り所だったが、それも上述の墓地さながら、都市鉄道の建設に伴い移転させられており、保徳宮側にすれば憤懣やるかたない思いがあった。「最初の頃は保徳宮に伺っても、何も話してはいただけませんでした」と蘇珀琪は言う。
キュレーターやアーティストは幾度も足を運び、次第に保徳宮側と打ち解けていった。そうして保徳宮は歴史的重要性もさることながら、鳳甲が進める芸術教育の重要な拠点となっていった。
アーティストの梁廷毓もワークショップを開き、保徳宮の人々に歴史を語ってもらい、地域の人々とともに「私にとっての保徳宮」というテーマで陶芸作品を作った。そして3Dスキャナーを用い、それらの作品を保徳宮の元の位置に合成しようと計画中だ。過去の傷がいくらかでも癒されるように、との願いが込められる。
美術を通し、地域の豊かな文化を掘り下げる。鳳甲美術館の存在は、すでに北投の暮らしを豊かにしている。
陶芸家の彭春栄は、生徒たちが待ち望んでいる作品を、窯からひとつひとつ注意深く運び出す。
復興高校演劇科の生徒たちは先生の指導を受け、学校の中に場面を探して創作する。
平坦で肥沃な北投では豊かな景観が育まれてきたが、鳳甲美術館へ行くと、その由来がよくわかる。