定期的な練習で子供に変化が
蔡義芳と呉聖穎は新たな方針を打ち出した。それまで学校の合唱団と言えば、音楽コンクール出場に合わせて臨時に結成されるのが常だったのを、新合唱団は定期的に週2回練習を行うことにしたのだ。
だが結成当初、遊びたい盛りの子供たちは練習をさぼることが多かった。蔡義芳の考えなど知るよしのない親たちにも「合唱の練習をして何になるんですか」と問い返される始末だ。「憎まれ役」を自称する蔡義芳は、仕方なく車を運転して集落を回り、練習に来ない子供を探し集めた。
蔡義芳と呉聖穎との二人三脚は内と外との役割分担になった。つまり、「音痴」を自認する蔡義芳は事務や渉外の担当、そして合唱指導の重責は音楽専門の呉聖穎に任せたのだ。だが蔡義芳は練習中いつも廊下でこっそり彼らの練習を聞いていた。やがて3ヵ月もすると彼らはすっかり上達し、蔡義芳はやっと安心できた。
歌だけでなく、子供たち自身にも変化が現れるようになった。さまざまな年齢の児童がいたが、どの顔にも集中力や自信が見て取れ、合唱を通して協力や団結の大切さを学んだようだった。
呉聖穎はこう説明する。合唱で大切なのは歌の技量だと考える人が多いが、実は「聞く能力」こそが合唱の良し悪しを決める。「耳を澄ませ、仲間の歌声に耳を傾けてこそ、ハーモニーが生まれるのです。そうでないと、それぞれがいくら上手に歌っても、ハーモニーにはなりません」
2012年、蔡義芳の定年退職が近づき、団員の多くも卒業が迫っていた。今後の発展を考えると、合唱団は学校所属でない方が都合がよかった。そこで独立を決め、パイワン語を用いた「プザガラン(希望)児童合唱団」と命名した。
学校という後ろ盾がなくなると、練習場所の手配と、月4万元近い運営費の捻出が問題となった。蔡義芳によれば、一度は合唱団継続をあきらめようと考えたこともあるという。だが幸いなことに、ことの次第を聞きつけた黄国光元校長が気前よく援助を申し出てくれ、合唱団は難関を乗り切ることができた。
その同じ年、練習を積み重ねてきたプザンガラン児童合唱団は、ある人物との出会いがきっかけで、世界の舞台に立つ道が開かれる。
その年、国際NGO「ワールド・ビジョン台湾」の招きを受け、彼らは台北で舞台に立つことになった。台北での空き時間に一行は、国立台湾博物館脇の広場で歌の練習を始めた。その軽快な音楽と澄み切った歌声に、そこを通りかかった台湾博物館の蕭宗煌館長が思わず足を止め、その場で彼らに博物館の開幕イベントで歌ってほしいと頼んできた。イベント当日、彼らの美しい歌声は、ドイツからの来賓を魅了し、それがきっかけでドイツのドレスデン・ミュージック・フェスティバルに招かれた。その後は続けて日本やハンガリー、韓国などで公演することになった。
これらいくつかのイベントの後、本格的に知名度が増したのは、2016年の総統就任式で歌を披露したことだった。パイワン族伝統の合唱方法で歌われた国歌は「今までで最もすばらしい」と称賛を浴びた。編曲は呉聖穎によるものだった。
呉聖穎は屏東山地門の地磨児(Timur)集落出身で、自らもパイワン族だが、彼女が伝統歌謡を取り入れるようになったのは2009年になってからのことだ。合唱団の仕事を引き受けた当初は先住民の伝統歌謡を扱おうとは考えていなかった。だが、合唱団が郷土歌謡コンテストに参加するようになり、思ったほど成績がふるわなかったため、パイワン族伝統の歌を取り入れようという考えが浮かんだ。そしてやがて、古い調べを新たな方法で歌うというやり方が生まれていった。
団長の蔡義芳は教育者としての理念から、2008にプザンガラン(希望)児童合唱団を結成した。(林格立撮影)