新たな芸術の推進者
国立台湾美術館では、台湾文化協会設立百年を記念して「進歩の時代:台中文化協会百年の美術力」を企画した。キュレーターの林振茎は「台湾文化協会のメンバーは、台湾の民衆文化の向上に尽力するだけでなく、台湾の新美術も推進したのです」と語る。
14~15世紀、ヨーロッパのルネッサンスではメディチ家が芸術家を保護したように、1920年代の台湾でも、林献堂や楊肇嘉などの実業家や中央書局が芸術家の生活を黙々とサポートし、芸術家が才能を発揮できるよう援助した。
日本統治時代には、台展、府展、それに日本で開かれる帝展などがあり、これらに出展するためにはさまざまな援助が必要だったのである。
林振茎は散在する歴史資料から、当時林献堂が陳植棋や顔水龍、郭雪湖、李石樵など多数の芸術家を援助していたことをつきとめた。その援助額は少なくとも2700円にのぼった。教師の一ヶ月の給料が40円の時代である。また、台中の名家出身の楊肇嘉が関心を注いだ分野はより広く、音楽から美術、スポーツ、文学、飛行の分野まで支援していた。また芸術家の個展を開き、人脈を活かして有力者による援助の橋渡しもしていた。「当時の芸術家援助は、投資のためではありませんでした。あの時代、絵画には価格はなく、金をどぶに捨てるようなものだったのです」と林振茎は言う。当時は「大我」のために黙々と貢献する人がいたということだ。
当時、中央書局の営業部主任だった張星建は今で言うところのマネージャーのような役割を果たしていたと林振茎は言う。彼は無償で展覧会を催して芸術家を地方の有力者に紹介していた。こうして中央書局は台湾中部における芸術家の拠点となり、「文化発電機」と呼ばれたのである。
「こうした展覧会の開催は、民族運動、民族の自覚に呼応する動きでした」と林振茎は言う。コンクールなどで台湾の芸術作品が高く評価されれば名声を高められ、社会的に大きな関心を呼ぶことができる。つまり芸術家を援助することで台湾美術への評価が高まれば、台湾人も日本人と平等な扱いを受けられ、台湾人としての尊厳も高められるのである。
それから百年、私たちは台湾文化協会が台湾に何を残したのかを問い直そうとしている。「台湾文化協会の設立は台湾の主体性の萌芽であっただけでなく、台湾美術も台湾文化協会の貢献によって高められました。そのおかげで当時の芸術家は戦前から戦後にいたるまで創作を続けることができ、台湾美術に豊かな資産を残しました。これも台湾文化協会の重要な事績と言えるでしょう」と林振茎は語る。
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蔡蕙頻(左)と許美惠(右)は、台湾文化協会が当時議論した「台湾意識」は今日の台湾でも重要なテーマだと語る。