天下の利を計り、万世の名を求む
于右任の多くの業績の一つが標準草書である。「草書というと、以前は書いた者自身しか読めなかったものです」と劉彬彬は言うが、それが標準草書により統一されたのである。父劉延濤は娘に標準草書制定のあれこれについて語ったが、「コピー機もネットもない時代、数人のチームで名家の草書を60万字集めて整理分析したのですが、どれを採るかで夜遅くまで議論し、時には言い争ったものだそうです。父は母と一緒にいた時間より長く、于右任先生と過ごしていたのではないでしょうか」と話す。
于右任が亡くなった時、劉彬彬は僅か10歳に過ぎず、多くの逸事は人から聞いたものである。たとえば、綿綿叔母が子供時代にコートを買えなかったという話は、叔母が母に話したもという。綿綿叔母とは、後に海外に移住した于右任の三女である。劉彬彬の記憶によると、その当時、綿綿叔母は青田街の官邸に住んでいて、寒くなったので父にコートを買いたいと頼んだが、父はコートを買うお金もないと答えたというのである。
于右任は一生を清貧のうちに過ごし、監察院の院長を34年も務めたのに、家計は苦しかった。そうは言っても要職にある国民党の元老で、裕福とは言えなくとも、そこまで貧しいはずはないと思うだろう。しかし、于右任が困窮していたのは事実である。「監察院の院長の給与でコート一着買えないなんて、信じられません。お金はどこに行ったのかと言うと、親戚や友人に貸し、医療費を払うため、前借することがよくあったのです」と劉彬彬は話す。
さらに彼女は、あまり知られていないエピソードを話してくれた。ある年、台湾南部のある青年が大学に合格した。その当時、大学合格は容易ではなかったが、青年の家は貧しく、学費を工面できなかった。親は于右任院長が人材を大切にすると聞いて監察院まで出向き、学費を貸してほしいと願い出たという。これを知った于右任は、副官に命じてメモを書き、翌月の給与を前借して、学費としてその親に渡したのだという。
「于右任先生は年老いてからもお金に困っていて、給与も多くはなく、家計は苦しかったのです。亡くなった後に借用書が残っていて、多くは副官から借りたものでした。借金も自分のためではなく、娘のコートは後回しで、人のために使っていました。国家民族への思い、友人への博愛を支えに、国の将来に希望を抱き、将来の主人公に資金を援助しようとしたことが、このエピソードから見て取れます」と、劉彬彬は言う。
于右任は書家であり、また教育者でもあった。後進の指導に力を尽くし、劉彬彬の父劉延濤は、北京大学在学中に于右任に見出された。于右任は早くから大陸において学校設立に尽力し、20世紀初頭に上海復旦公学(現在の復旦大学)、中国公学、西北農業大学、上海大学などの設立に関わってきたが、どの大学も今では有名大学として知られる。「于右任先生の人となりを理解すると、父がなぜ一生を傍に付き添っていたのか分ります。その人となりは暖かみがあり、国のために無私に尽くした中華民族の偉人です。後世に尊敬されるべき人です」と、彼女は力を込めて語る。
生前に有名となった于右任の書と言うと、上述した「為万世開太平」と、故蒋経国総統に送った「計利当計天下利、求名応求万世名(利を求めるには天下の利を求め、名を求めるには万世の名を求めなければならない)」であろう。劉彬彬から見る于右任は、確かに全身をもって天下の利を計っていたのである。
于右任は「草書」に優れたことで知られている。一字一字が独立し、筆の流れも美しい。