1970〜90年代の30年は、長い歴史においてはごく短い時間に過ぎないかも知れないが、世界の動きと台湾および周辺島嶼にとっては、政治、外交、両岸関係、経済建設、社会発展などの面で、極めて重要な30年であった。
私と同じように60年代末に生まれた者にとって、瞬く間に過ぎていったこの一万日余りの間に、国の内外で歴史を動かすさまざまな出来事が起きた。台湾の国連脱退、十大建設、アメリカとの国交断絶、アジア四小龍への仲間入り、戒厳令解除、六四天安門事件、ソ連崩壊、東西ドイツの統一、湾岸戦争、アジア金融危機などである。
これらの歴史を背景に、戒厳令解除前後の緊迫した台湾社会において、文学や絵画といった分野の創作に比べて、台湾の写真家たちは、困難な現実や、内面に湧き起こる生への問いかけに応えるため、本島や離島、山や海で、閩南や客家、外省、先住民といったさまざまなエスニックに深く踏み入り、ファインダーを通して時代の悲喜こもごもと浮き沈みをとらえようと試みていた。
デジタルテクノロジーとネットが発達し、カメラが普及して写真のハードルが下がり、膨大な量の画像・映像が生産され、プラットフォームが合流する現在、構造的な理論整理が進み、解釈や評論の書籍も増え、写真の内容や形式、表現方法に実験的な、また本質的な変化が起きている。それに対し、1970から90年代の台湾の写真制作は、少数の写真家や専門的訓練を受けた者に限られ、表現も伝統的かつ純粋な時代の文脈に集中し、各地に分散して時間をかけて蓄積されていた。特に、写真家自身の思いから、台湾内部および周辺島嶼において客観的でリアルなシリーズ作品が多数生まれた。
ボーダレスな画像の時代、写真の類型や作品数が爆発的に増える中、当時の作品を識別し感じ取ることは難しくない。歴史の転換期の貴重さと重み、そして作品の内容と力を決めるカギは、器材や素材、技術やプラットフォームといったハードではない。それぞれの時代の境遇から起こる発展や衝撃が写真家に肥沃な土壌をもたらし、彼らはこの豊かな大地を踏みしめつつ、それぞれに何かを追求し、問いかけ続けたのである。
展覧会情報
『島の記憶−1970~90年代の台湾写真』
会場:日本 清里フォトアートミュージアム
期間:2018年12月2日まで
キュレーター:張照堂、沈昭良
キャップション:
56ページ
陳伝興は、農地の塩害や人口流出で寂れつつあった蘆洲の町の姿を記録した。観音山を覆い尽くす墓地を前に、農家は農作業ではなく葬送の仕事に就くほかなかった。
57ページ
謝三泰が澎湖の風櫃で撮った結婚式の記念写真。海と空、島と風と人々の表情や姿が自然にとらえられている。大海原と向き合って暮らす離島の民の敬虔さと謙虚さ、困難を乗り越えてきた逞しさと辛苦が見て取れる。島を離れて長い作者にとって、故郷からの優しい呼びかけでもある。
58ページ
報道カメラマンである何経泰は、繁栄する台北の路地裏をバイクで行き来し、社会の底辺で行き場を失った人生を見つめ、ポートレートシリーズ「都市の底辺」を制作した。
59ページ
宜蘭県の大工の家に生まれた阮義忠は、1970年代から台湾各地で庶民の暮らしを撮り始めた。「優雅さの喪失」は、かつての台湾にあった穏やかで温もりある暮らしをとらえたシリーズである。
60ページ
報道カメラマンだった林国彰は独学で写真を学び、社会や都市の表面からは見えない人々を繊細かつ精確にとらえてきた。「客家の出会い1995」は、桃園や新竹の客家集落で、屋外で行われる結婚披露宴の様子を独特のスタイルで表現している。
61ページ
1992年、29歳だった張詠捷はバイクで大安渓沿いをさかのぼり、苗栗県の天狗、象鼻、雪山坑、馬必浩などのタイヤルの集落で、刺青を入れた長老たちの貴重な記録を残した。
62ページ
1987年の戒厳令解除前後は、台湾の民主化にとって極めて重要な時期だった。当時20代で報道カメラマンだった劉振祥は、街頭での抗議行動の最前線の洗礼を受けた。彼にとって街頭は写真の腕を磨く場であるとともに、人生の競技場でもあった。
63ページ
潘小侠は、1980年代から離島・蘭嶼をさまざまな角度から記録し始めた。農務、漁、狩猟、舟、祭典など人類学的にも意義のある作品から太平洋に浮かぶ真珠の姿が見て取れ、オーストロネシア人とタオ族のつながりを伝える。
64ページ
高雄に生まれた林柏樑は、画家・席徳進を師として民間に深く分け入り、芸術は生活の中からくみ取るものであることを知った。これが写真家として大地や人々を見つめる基礎となっている。
「家園」シリーズを通して、謝春徳は己と故郷との関係を見つめ直し、大地との関係を進化させた。さらに重要なのは、写実主義が主流にだった写真界で、独特の美学を示したことである。