芸術におけるフォルモサの時代を
百年余り前にさかのぼると、台湾の画壇では、伝統の水墨画とも西洋画とも違い、色鮮やかな岩絵具を用いた、繊細なタッチと美しい色彩の絵画が一世を風靡していた。これが現在の「膠彩画」、当時は「東洋画」と呼ばれたものだった。
台北市立美術館アシスタント研究員で「喧囂的孤独:台湾膠彩百年尋道」展のキュレーターを務めた陳苑禎さんは、こう説明する。当時の日本の美術体系と日本画発展の背景を探ると、日本は、西洋画と肩を並べる独自の絵画スタイルを発展させたいと考えており、そこで東西の技法を融合させた新しい日本画が生み出された。この流れが日本統治時代に台湾にも伝わったのである。
1927年、台湾では台湾美術展覧会(略称「台展」)が開かれた。当時、台湾にいた日本人画家は学校での美術教育に携わり、また政府主催の美術展の審査員などを務めていたため、その創作スタイルと思想が台湾人画家にも影響を及ぼした。これにより写生が奨励され、地元の景観などを観察する習慣ができた。例えば、日本人画家の郷原古統の作品は、色遣いが華やかで日本画の装飾性を備えている。その作品「麗島名華鑑」は台湾の植物を描いたものだ。このような身近な風土や人間模様から題材をとった創作が盛んになり、「ローカルの色彩」をとらえた作品が生み出され、細密で厳格な写実性が追求されるようになる。例えば、郭雪湖の「圓山附近」や蔡雲巌の「竹林初夏」などからも、対象を細密に、なおかつ画面いっぱいに描くスタイルが見て取れる。
しかし、膠彩画が本格的に台湾に根を下ろしたのは、台湾人画家の台頭があったからである。陳進と林玉山、郭雪湖の3人の新鋭画家が第1回台展に入選し、「台展三少年」と称えられた。以来、膠彩画は台展で勢いを持つこととなる。
台湾人画家が描く風景や人物、動植物などは、独特の「ローカルの色彩」を持つものとして日本の美術界でも評価され、台湾独自の膠彩画のスタイルが形成されていった。これは「芸術におけるフォルモサ時代の到来を期待する」と述べた芸術家‧黄土水の言葉と呼応する。

林玉山の「蓮池」が、政府文化部によって国宝に指定されてから十年目、国立台湾美術館は「芸術を暮らしに」という理念を実践し、同作品を用いた磁器を制作した。(国立台湾美術館提供)