建築による競争
19世紀、台湾の社会や経済が劇的な変化に直面したことで、建築にも大きな変化がもたらされた。そうした変化の推進力となったのは、洋行の建物だけでなく、世界の建築思想を吸収した近藤十郎、森山松之助、井手薫といった多くの日本人建築家たちだった。
当時の植民政府は、セメントやレンガの技術、或いは洗い出しや人造大理石といった画期的な建築技術を導入し、現総統府や公売局、台北賓館などの公共建築に応用していた。その影響で、街屋も2階、3階と高さを増しただけでなく、新古典主義や後期ルネサンスといった建築様式を模したスタイルが台湾全土でブームとなり、街屋の外観もさらに西洋化が進んでいった。
それが最も顕著に見られたのは、バロック建築の影響を受けて出現したペディメント(建物正面上部の壁面)だった。街屋の屋根の正面側は、それまでのシンプルで直線的なものでなく、半円形やピラミッド形といったさまざまな形で天空に向けて突き出すようになった。
ほかにも豪華になったのは2階部の正面で、美術展示さながらに各種装飾が施されるようになった。洗い出し技術によって石造り風にしたり、花や葉などの植物模様で浮き彫りのように飾られたりした。1階の店先の騎楼(アーケード)を支える円柱も、ギリシャ風のものが作られたり、円の3分の1や4分の1の形のレンガを積み重ねたものが出現したりしている。
こうして街屋のファサードは、商家が自らの富を誇示して競い合う手段となった。当時の商店街には大声で呼び込みをしてはいけないという暗黙の了解があったため、工夫を凝らしたファサードは、まるで一種の発信方法のように、どの商店が最も立派で注目を集められるかを競い合っているようだった。
李東明さんによると、日本政府は1912年に台湾全土で「市区改正」計画を開始し、各地の街屋にもその法令に準じた改修を義務付けた。
桃園市大渓の商店街も、1919年の再開発で下水道システムを整備し直したほか、道路幅を拡張したため、商店のファサードも改築されることになった。工事期間中はファサードに黒い布が掛けられて周りからは見えないようになっており、その背後で秘かに競争が繰り広げられていた。最後にベールがはがされてみると、勝利を収めたのは、大渓の名士であった呂鷹揚とその息子の呂鉄州が経営する「蘭室」だった。
「蘭室」の正面上部には翼を広げて飛翔する鷹の彫刻が置かれ、建築には森山松之助が当時常用したノーマン‧ショウのスタイルが取り入れられており、現在もなお多くの観光客を魅了する建築となっている。
戦後になると世界的にバウハウスのデザイン運動が起こり、そのモダニズムが台湾にも浸透してきた。街屋のファサードもそれまでの華美な様式は捨て、シンプルさを追求し始めた。だがこの時代になっても、ファサードによる商店の「発信」は続いていた。
例えば、台北の大稲埕にある「乾元薬行」の建築スタイルはモダニズムによる装飾でありながら、ペディメントに設けられた丸窓の周囲には漢方薬の人参の浮彫りが巡らされており、字の読めないお年寄りも一目で薬材が買える店だとわかるようになっている。

石柱と圧艙石(航行を安定させるため船底に積み込む石)で支えられた街屋は、台湾の西洋建築の先駆的存在だと言える。李東明さんによれば当時の石柱1本の価格は街屋1軒にほぼ等しく、この工法のぜいたくさがわかる。