20世紀から21世紀へと移行する前後の数年、夜空は特ににぎやかだった。1996年には百武彗星が、1997年には四千年に一度というヘール・ボップ彗星が現われ、1998年にはしし座流星群の大出現が見られた。また94年にはシューメーカー・レビー彗星が木星に衝突し「もし彗星が地球に衝突したら…」というのが話題になった。台湾では各地の教育機関などが天体観測のサマーキャンプや天文関係の講座を次々と開いているし、エンターテインメントの世界では星占いが注目される。昨今の台湾では夜空に関する話題が絶えないようだ。
いま最先端の天文の話題だが、古代の中国では、超新星の爆発、太陽の黒点の分裂、七曜同宮、彗星の尾など、宇宙のさまざまな奇妙な現象が『周髀算経』『淮南子』『尚書』などに記録されている。
科学的な見地においては、古代中国の天文学は今日の研究の上でも重要な参考資料となるものであり、また人文学的な面では「天と人との感応」を基礎とした古代の記録は、政治、社会、文学、芸術、そして人の運勢や相性などの重要な指標とされてきた。では、古代中国の天文学研究はどの程度まで進んでいたのだろう。その発展は、なぜ近代になって衰退してしまったのだろうか。また古代天文学は今日の私たちにどのような影響を及ぼしているのだろう。21世紀を迎えた今、中国の古代天文学について振り返ってみたい。
聖書の「ベツレヘムの星」の物語はよく知られている。3人の博士が普段は見えない星を東方の夜空に発見し、それを追ってベツレヘムまで行き、キリストの誕生を知ることになったという話だ。本当にベツレヘムの星はあったのだろうか。あったとすれば、その星は何だったのだろう。
この点については、清華大学歴史学科の黄一農教授による考察がある。教授は、古代天文学の記載を調べ尽した結果、西暦元年前後の天体現象については中国にのみ詳細な記録があることを発見した。当時、夜空に現われた珍しい星については次の二つの記録がある。
『天文志』には、漢の哀帝の建平2年3月(紀元前5年3月)に「彗星、牽牛に出ること七十余日」とあり、また『哀帝本紀』には、建平3年3月己酉(紀元前4年4月24日)に「星孛、河鼓に有り」という記載がある。
中国では昔から「彗」という字は尾のある彗星を、「孛」の字は尾のない彗星を指して使われてきた。黄一農教授によると、建平2年に観察された牽牛の彗星は、日の出の1時間ほど前に東南から南の地平線上30〜40度のところに見えたということで、聖書の中の博士たちが東方に見た星の記載に一致するという。この彗星が肉眼で見えた期間は70日余りだったので、博士らがエルサレムからベツレヘムへ向う時に見たのは、もう一つの彗星で、位置から考えると、漢哀帝の建平3年に河鼓に出た第二の彗星と考えられる。これまで一般に、イエス・キリストの生誕の年を明らかにすることは難しいと考えられてきたが、黄一農教授の新しい仮説によってキリスト生誕の時期が特定できるようになった。これも古代中国の天体観測の資料が充実しているからだ。
「彗孛流隕」
西洋にもまだ天体を論じる専門用語がなかった時代、漢代の『史記・天官書』にはすでに1000以上の星の「学名」が記されている。中国大陸湖南省長沙の馬王堆から出土した前漢の29枚の「彗星図」にも、数十の彗星が描かれており、それぞれが尾を引いているのがわかる。それらの中には眉毛のようにカーブした尾もあれば、真っ直ぐの尾もある。この漫画のような彗星の絵を見て、今日の天文学者は会心の笑みをもらす。「細長く真っ直ぐの尾は彗星のプラズマの尾で、カーブしているのはダスト(塵)の尾です」と語るのは中央大学天文学研究所の孫維新教授だ。帯電したプラズマの尾は彗星の後ろに真っ直ぐに伸び、ダストの尾は太陽の力の影響でゆるくカーブするのである。
中国では長期にわたって天文観測を続け、彗星を分類してきただけではない。世界の正史における、初めてのハレー彗星の記録、超新星の爆発、太陽の黒点に関する記載なども中国に残されている。中国の正史においては太陽の黒点に関して少なくとも120以上の記録がある。またハレー彗星は、あらゆる彗星の中で天文学に最も大きな影響を及ぼしてきたが、その周期が確認された時期も最も早く、二千年前には判明していた。中国では後漢の班固が『漢書』五行志の中で初めてハレー彗星に触れて以来、76年ごとに必ず歴史的記載が見られるのである。
実際、「天文」という言葉を含めて現代の天文学用語の多くは外国語からの翻訳ではない。彗星、隕石、流星などを中国では昔から合せて「彗孛流隕」と呼んできたのである。天文、すなわち天の紋様という言葉は、月の満ち欠け、太陽の黒点の変化、惑星の運行、彗星の形態や色、そして新星を発見した日時や位置などを、すべて長期にわたって規則正しく記録し、研究するというものだ。
夜空の突然の客
イギリスの漢学者ジョセフ・ニーダム氏は、著書『中国の科学と文明』でこう述べている。上古の天文学では、バビロニアの記録の大部分が失われているのを除けば、中国の天文学者がアラビア人よりも早くから最も強い意志をもって継続的に精確な記録を続けてきた。その最も顕著な例は、新星と超新星の発見であると。
北宋の至和元年(1054年)5月己丑日の明け方、東方の空に突然明るい星が現われた。星は赤白く強い光を放ち、昼間に見えたため、この奇妙な現象が人々を驚かせた。当時の国立天文台とも言える司天監の職員たちは、日夜休むことなくこの星の観察を続け、嘉祐元年(1056年)3月辛未日に星が見えなくなるまで643日にわたって詳細な記録を取り続けた。この新星は黄道(太陽の視軌道)にある天関星の近くに発見されたため、天関客星と名付けられた。現代の天文学者は、この星は星雲を残し、また中性子星を形成した超新星だと見ており、近年も国際的に議論が続いている。
新星や超新星というのは、恒星が末期を迎えた時に見せる大爆発現象で、爆発時には太陽の数十億個分に相当するエネルギーを放出し、同時に放射線や高エネルギーの宇宙線などを出すため、宇宙の変化を研究する重要な手がかりとなるものだ。
秩序ある星空に突然登場する新星のことを、中国では「客星」と呼んだ。古代からの記録の中で、明らかな移動が見られる彗星を除くと、爆発によって弱い光を放つこれらの星は、中国では90回記録されている。「超新星という壮大な宇宙現象は、ここ400年の間、銀河系では観測されていませんから、古代の天文学者は私たちより幸運だったと言えるでしょう」と語るのはアメリカで天文学を学び、超新星を研究している黄一農教授だ。そのため教授は古代の記録を調べるために、天文学から歴史研究の分野に移った。
誰もが天文の専門家
科学も器機も発達しておらず、多くの民族が天に畏敬の念を抱いてた時代に、中国ではなぜ系統だった天体観測が行なわれていたのだろう。
かつて農業民族は暦の制定のために天の現象を観察する必要があった。太陽と月と星の変化から季節の変化を掌握し、豊作を迎えるために種まきや耕作の時期を決めたのである。天体現象は人々の生活にも深く関わっていた。建物は南向きに建てれば陽光や風を十分に取り入れることができるといった居住条件の知恵も、天体と無関係ではない。周の時代に洛邑(今の洛陽)に都を移した時、周公は太陽の位置を観測するための土圭石(日時計の柱)を設置し、節気や方位を定めた。夜間の明りなどほとんどなかった時代、頭上は満天の星に覆われていたため、人々は自然に天文に親しんでいた。明末の顧炎武が「夏商周の三代の人は誰もが天文を知っていた。農夫は七月流火(さそり座の首星アンタレス)を論じ、婦人は三星(オリオン座の三つ星)を語った」と述べたのも決して誇張ではない。また唐や宋の詩詞でも星を用いた比喩が数多く見られる。例えば「人生相見ざるは、動くこと参と商の如し」というが、この参と商は、遠く離れた二つの星座に属する星の名なのである。
古代中国の人々にとって、天文は自然科学であるだけでなく人文科学でもあったと黄一農教授は言う。天文は中国人に時空の座標と基準を与え、人々は天文を通して自然と密接に関わり、すべての行ないが時空において調和していたのである。「天地人一体」という思想は、人と天とを統合し、宇宙の万物はすべて切り離すことはできないという自然観を育てた。
また「天の垂象に吉凶を見る」と言うように、昔の人々は掌握できない物事に畏敬の念を抱いていた。そのために、天文観測によって暦を作り、慎重に時刻や方位を選んで物事を執り行ったのである。朝廷には天体現象を観測して、その意味を解釈する専門家が仕えていたため、天と人との感応のレベルは一層深まっていった。
漢の武帝の時代、董仲舒は災厄を利用して皇帝の権力を制限し、中央集権体制が過度に膨らむのを防ごうと考え、そのために天体現象の異変を社会の変化や禍福の象徴とした。こうして天体現象によって人や社会の禍福が予測できるという占星術が、しだいに体系づけられ、それから次第に皇帝の権力や官僚制度に星の名が使われるようになっていった。
こうして中国では、天体現象は人間社会と自然との二つの面に影響を及ぼすと考えられるようになり、国家が専門家を集めて天文学を発展させるようになった。天文学研究機関は、中国において最も早くから国によって設けられた科学研究機関の一つであり、紀元前二千年に国立の天文台が設置され、秦の時代の朝廷の天文台にはすでに300人以上が勤務していた。そして時代がどう変ろうと、天体観測が途絶えることはなかったのである。
科学研究の発展には制度化と組織化が重要な要素となるが、中国では上述のような経緯から天文学が発達することになった。精密な観測器機が開発され、惑星の軌道や、さまざまな天体現象が現われる時間や方位の計算などの誤差は極めて少なくなり、また少なからぬ優秀な天文学者も生まれたのである。
天文学の始祖、張衡
台北市立天文科学館の展示ホールの入口、九つの惑星の模型が飾られた下に張衡の銅像が立っている。後漢の太史令張衡は天文暦法、気象、地震観測などを司り、長年にわたって金星、木星、水星、火星、土星などの運行を観測し、それらの軌道を精確に描き出した。張衡は洛陽の一ヶ所だけで2500の星を記録しており、これは現代の天文学者が同一時間に観測する六等星の数とそれほど変わらない。月食の時には民間の人々は悪い兆しだと騒ぎたてたが、張衡は『霊憲』の中で、月食とは月が満月の時に地球の陰に入るために起るものだと説明している。また月は太陽の光を反射して光って見えるので、日照面の変化によって満ち欠けするとも説明している。
張衡は自己の理論を証明するために天文観測器機を設計して実験を行なった。彼は角度を刻んだ円と星を見る筒とを組み合せた渾天儀(天体観測器)を発明し、天体の位置を観測するのに用い、後に天文学者の模範とされた。そして漢代から北宋、元と時代が進む間に一行、蘇頌、郭守敬、祖沖之といった優秀な天文学者が生まれ、中国の天体観測器はより複雑で精密なものへと発展していった。
ジョセフ・ニーダム氏は、宋の時代の天体測量器「水運儀象台」は、世界の天文学史と時計の歴史において重要な位置を占めていると述べる。水運儀象台の天井は取り外しができるようになっていて一昼夜でちょうど一回転するなど、今日の天文台の原形となっている。またその中に設置された「擒縦器」は時計の重要な部品であるため、時計の祖先とも言えるのである。
「古代の天文学者は一流の観測者であっただけでなく、自然科学、人文科学など幅広い知識を一身に集めた人材だったのです」と黄一農教授は言う。天文学は人々の生活にも関わってくるため、自然科学全体と密接な関係にある。画家でもあり文学者でもあった張衡は、地震を観測する「候風地動儀」も作ったし、また天文官は天と人との関わりも司っていたため、張衡は「占星家」でもあった。「古代の占星家は皆、天体観測者でしたが、今日占星術を行なう人はあまり星のことは知らないようです」と黄一農教授は言う。
古代の知識人は「上は天文から下は地理まで」に通じると言われたが、これも誇張ではなかった。司馬遷も天文学者の家の出身だったし、戦国時代の屈原の詩「天問」には、宇宙の構造や天地の変化に対する疑問が歌われているが、今日の天文学者も、これらの疑問は深遠で軽視できないとしている。また、宋代の文人の家には天体観測器があり、学生も天文を学ばなければならなかった。『朱子大全』によると、朱熹も家にある教育用の渾天儀を使って学生たちに北斗や北極星の見分け方を教えていたという。
宇宙の時間の尺度
「馬王堆の彗星図を描くためには、どれだけの時間の蓄積が必要でしょうか」と問いかけるのは孫維新教授だ。中国で長年にわたって蓄積されてきた天文の記録は、後の人々が宇宙について理解する際に大きな意義を持つ。宇宙の時間の尺度と視野は極めて大きなもので、宇宙の現象の大部分は、人の短い一生では見ることができないのである。そのため、長年にわたる記録によって初めて分析が可能になるわけで、古代からの長年の記録は極めて重要なものなのである。
例えば古代の彗星の記録を見ると、1986年までにハレー彗星が35回記録されている。その2600年にわたる記録では、ハレー彗星には大きな変化が見られないことから、その質量がまだ損なわれていないことがわかる。これは彗星や太陽系の変化を研究している人にとっては重要な情報となる。
宋代の1054年には、超新星の爆発が記録されており、23日にわたって昼間に観察されたとある。その当時の記録から、この超新星の光度が推算でき、さらに光度曲線からどのようなタイプの新星かが分析できる。また中心核が一つなのか二つなのかも判断できるという。このように、天文研究の領域において、中国の観測史料は「宝物」なのだと孫維新教授は言う。ただ残念なことに、中国語の天文用語は現代人にはわかりにくく、また今日では天文学者の多くは西洋人だ。そのため、黄一農教授は中国古代天文学の研究に取り組むことにしたのだと言う。
五星連珠、熒惑守心
中国の天文学史料は天文学研究の上で価値があるだけでなく、人文科学研究にも新しい視点を与えてくれるものだ。最近黄一農教授は、古代天文学史料の研究から、歴史に新しい見方を提供している。
古代中国では天体観測に政治的な目的も課されていたため、天空における珍しい現象の観測が捏造されることも少なくなかったのである。例えば、近年話題になっている五星連珠(太陽系の五つの惑星が一列に並んで見える現象)や、熒惑守心(火星が心宿という星座の中に見える現象)などは、昔は朝廷の人事に影響を及ぼしたため、政治闘争の道具として利用されることもあった。
1973年に中国大陸の長沙で出土した馬王堆の帛書(絹に書いた書)には、惑星が一列に並んだ現象の「行星連珠」に関する記載が少なくない。例えば、太陽と地球と金星が一直線に並ぶ周期は584.4日、また太陽と地球と土星が一直線に並ぶ周期は377日などと書かれているが、これらの数字は今日の科学的なデータとそれほど大きな誤差はない。また漢の高祖の時代には、より複雑な「五星連珠」の周期に関する記載があり、五つの惑星にさらに太陽と月とを加えた「七曜同宮」については、七曜は経度30度以内の同じ星座の中に現われると書かれている。
五星が地平線の彼方に一列に並ぶ現象は、3日から5日にわたって続き、この現象は占星では「明王の出現」を象徴するとされてきた。黄一農教授が天体運行からこの時期を推算したところ、唐の時代の韋后の時に五星連珠の現象が生じたと考えられる。しかし、この女性による政治干渉が劣悪だったため、後の天文官はこれを論じなくなったものと考えられると言う。
これとは逆に「熒惑守心」の方は、最高統治層にとっては不利な現象と見られてきた。「熒惑」とは火星のことで、かつて中国では火星は眩惑という意味を持たされ、謀反、殺害、病などの悪い兆しとされていた。これは古代ギリシアの占星術で火星が戦いの神、人類に災難をもたらすものとされてきたのと一致している。火星は687日をかけて太陽の周りを一周し、地球から見ると一時期「心宿」という星座の中に見える。心宿というのは古代中国の28の星座の一つで、心宿の首星は地上の帝王と感応すると考えられてきた。
黄一農教授の研究によると、中国では「9050惑守心」の記録が合計17回も捏造されているという。例えば漢の成帝の綏和2年、成帝は後宮の趙飛燕に夢中になり、外戚の王氏が権力を掌握していた。これを何とかしようと、大臣は熒惑守心を捏造して災厄の恐れを口実に皇帝に建言しようとした。しかし成帝は、災禍の原因は大臣にあるとして、大臣の翟方進を自殺に追い込んだのである。
このように天体現象がしばしば政争の道具とされたため、唐や宋の時代以降、民間の人々が天体観測によって皇帝の運命を予測することを防ぐため、天文学に関する知識が外部に漏れないよう措置が取られるようになった。こうして占星の専門書は禁書となり、天文官は世襲されるようになったため、天文官の研究意欲は減退し、能力も後退していった。その後、明、清の時代になると、西洋の科学が急速に発達し、宣教師が西洋の暦や天文学知識をもたらしたため、中国で蓄積されてきた天文学資料もしだいに重視されなくなっていったのである。
代数学は幾何学に及ばない?
日本の天文学史学者の薮内清氏は、中国には膨大な天文観測の記録があるが、それらを帰納して天体現象を解釈することが十分に行なわれてこなかったため、科学理論へと発展しなかったと指摘している。古代中国において、天文現象は常に人間社会への影響という点に関心が集まっていたのである。そのため今日の科学者の多くは、中国の天文学は「真の科学」へと発展しなかったと考えている。
天文学史学者の間では、中国天文学の没落の原因が議論されたこともある。中国大陸の天文学史学者の席沢宗氏は、中国の天文学は天体現象の人間社会への影響を予測するという使命を負わされたために限界があったという点の他に、次のように指摘している。中国では代数学が高度に発達し、惑星の位置が精確に計算できた他、信頼性の高い暦が制定されたが、中国にはギリシアのような幾何学の概念が欠けていた。平面の幾何学において角度の概念が導入されなかったため、直角三角形の線と線の計算関係はあっても、辺と角度の計算関係は存在しなかったのである。
「ギリシアでは幾何学を応用し、観測を通して模型を作りました。模型を用いることによって、観測資料を解釈でき、さらに模型を使って天体の今後の位置を計算し、それを観測によって検証することができます。観測結果が予測と違えば模型を手直しし、しだいに完全な模型へと改善することができるのです」と席沢宗氏は言う。幾何学的な模型は思考の助けになり、宇宙の物理的図像を理解し、その物理的メカニズムを考えるのに役立つ。中国の伝統的な代数学だけではコペルニクスの地動説、そしてケプラーの惑星運動の三法則といったものは生まれにくかったのだと席沢宗氏は言う。
だが、黄一農教授は違う角度から考えている。古代中国の人々は天は丸く大地は四角いという考えを受け継いでいたが、彼らにとって地球の形はもともと問題ではなかったのだと言う。実際、コペルニクスの太陽中心宇宙説もケプラーの惑星軌道距離の計算も、どれも精確なものではなかった。「純粋に数学的な角度から見れば、代数学であれ幾何学であれ、どちらの方向からでも正確な天文学へと発展させることは可能です。どの方法で進めても、すべての自然周期を正しく掌握することができるのです」と黄一農教授は言う。科学の答えは一つだとしても、そこにたどりつくまでの研究方法はたくさんあるのである。
西洋における望遠鏡の発達
一方、中国科学史の研究に力を注いでいる歴史学者の劉君燦氏は、西洋の天文学が大きく発展した理由は、望遠鏡の発明にあり、中国には望遠鏡がなかったために後れを取ったと考えている。中国の天体測量器機は優れたものだったが、天体を見るためのパイプに凹凸のあるレンズがついていなかったため、肉眼での観測しか出来なかったのである。レンズのもととなるガラスの原料は砂漠地帯に豊富にあり、最初にアラビア人がガラスを作ったものがヨーロッパに伝わった。そして1601年以降ガリレオが初めて望遠鏡を天体観測に使用し、これによって西洋の天文観測における視野は大きく広がり、神が宇宙を主宰するという考えが払拭されたのである。こうして西洋の天文学は、少しずつ科学的な方向へと発展していった。
洋の東西に関わらず、時代がいかに進もうと、科学は人類の幸福を百パーセント保証してくれるわけではない。人々が心の中で何かを拠り所にしようとする限り、天が人間社会に影響を及ぼすと考える占星術はなくなることはないかも知れない。しかし、宇宙の神秘が次々と明らかにされている今日、古代の天文学をいかに現代科学の養分として吸収するべきか、考える必要があるのではないだろうか。