人生を変えた台湾奨学金

アルバート・リントン・チャールズとマノジ・クリプラニ
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2020 / 5月

文・曾蘭淑 写真・林格立 翻訳・山口 雪菜


友好国の若者に対する政府の奨学金政策が、2人の青年の運命を変えた。

「これは私と台湾との縁です」と話してくれたのは屏東科技大学熱帯農業および国際協力学科の教授でドミニカ国出身のアルバート‧リントン‧チャールズ、そして世正開発公司(Century Development)営業部でプロジェクトマネージャーを務めるインド出身のマノジ‧クリプラニだ。二人は互いを知らないが、この十数年の運命を振り返る時、口をそろえてこう語る。

 


中米カリブ海のドミニカ出身のアルバートは、屏東科技大学で初めて博士号を取った外国人であるだけでなく、外国人として同校で初めて学科主任も務める。「台湾は他の多くの国と違い、性別やエスニックで人を差別することはありません。私のような黒人も学科主任になれるのです」と言う。

難関を乗り越えて

1999年、アルバートは我が国の外交部国際合作発展基金会(ICDF)による「国際高等人材育成外国人学生」奨学金を申請し、屏東科技大学の熱帯農業大学院に入り、2年後には修士号を取得、博士課程に進んだ。2003年、ドミニカ国は台湾と国交を断絶し、彼は博士課程の2年目だったが、奨学金はすべて取り消されてしまった。親とは修士号を取得したら帰国すると約束していたので、彼はまず帰国を考えた。

「それが、当時の頼博永所長や指導教師の黄卓治先生が私を引き留めてくれたのです」と感謝の思いをにじませる。「先生方は私に博士号を取るよう励ましてくださり、学内の奨学金も申請してくれました。黄卓治先生は私を研究助手に採用してくださり、おかげで生活費を得ることもできました」

彼は昼も夜もなく実験に勤しみ、努力の甲斐あって3年で博士号を取ることができた。これは台湾では非常に珍しいことだ。在学中に彼の論文10編が引用索引データベース(SCI)に収録され、学術的にも高い実績を上げたことから、2004年1月の卒業と同時に、屏東科技大学の教員として採用されたのである。

「あの頃、先生方のアドバイスを聞かず、国交断絶の時点で帰国していたら、私の人生は違っていたかも知れません」と言う。

なぜ台湾を去りたくないのか?

屏東科技大学に職を得た当初、アルバートは10年は台湾にいようと決めたが、すでに20年になる。「私が教えた外国人学生の多くは、卒業とともに急いで帰国するのに、私はなぜ台湾に居続けるのだろう」と自問する。

彼はエスワティニ出身の学生を大勢教えているが、エスワティニ大使の一言がその理由に気づかせてくれた。「ドミニカに帰国したら、ドミニカのためにしか貢献できませんが、台湾にいれば、ガンビアやベリーズ、ハイチ、セントビンセント、インドネシアなど多くの国の学生を教えて人材を育成し、世界中に貢献することができるのです」と言う。

「台湾は学術資源が豊富で、しばしば各種プロジェクトを通して貧しい発展途上国を支援しています。私も研究を通して、途上国支援に携わることができるのです」多くの国で、黒人は何らかの差別に遭っているが、30歳で学科主任になったアルバートはこう話す。「多くの人にとってアメリカはチャンスにあふれた国ですが、私の経験では台湾が公平な競争の機会を与えてくれました。特に発展途上国から来た学生は、努力さえすればチャンスが得られるのは台湾です」

「ICDFの奨学金が私の人生の扉を開けてくれました。あの時に台湾を離れていたら、これほど順調に成功への道を歩むことはできなかったでしょう」と語る。

運命的に台湾へ

チェックのスーツを着こなした世正開発公司プロジェクトマネージャーのマノジ‧クリプラニ。彼は台湾インド経済貿易協会の副事務長でもあり、インドの投資環境や経済動向に詳しく、毎年100回近い講演を行なってる。

マノジは2001年に外交部が初めてインド人学生21人に提供した華語学習奨学金の第一期生だ。デリー大学商学部の出身のエリートだが、ロシアのプーチン大統領の通訳をしている親戚から、中国語の重要性を聞かされて東アジア研究の学位も取得した。

当時、中国語を学ぶインドの学生の大部分は中国へ留学しており、マノジも中国の奨学金を申請していた。しかし「中国の方は翌年にしか行けないようでしたが、台湾外交部の奨学金はすぐに行けるということでした。当時私はまだパスポートも持っていなかったんです。インドの行政手続きはすごく時間がかかるので、出発の3日前になってようやくパスポートが取れ、その2日後にビザが取れました。あの時、パスポートが取れていなかったら、私は台湾にはいなかったでしょう」「これも縁でしょう。私の縁はすべて台湾にあります」と言う。

就職のための力を蓄積

台湾との縁は続き、彼は再び外交部に奨学金を申請し、銘伝大学のEMBAコースに入った。そして成績優秀だったことから今度は銘伝大学の奨学金を得て博士課程まで進んだ。

博士課程の一年目の時、広穎電通(Silicone Power)が市場開拓のために中国語のできるインド人を求めていた。マノジは、まったく仕事の経験がない中で努力し、メモリカードの市場をゼロから開拓し、シェアで台湾企業のトップにまで成長させた。

2011年、当時の上司だった人が彼を連れてASUS傘下のASRockに転職した。当時、同社のインドでのシェアは2%に満たなかったが、マノジが代理店と話し合ったところ、ブランドの露出度が低くて販売が困難な上、アフターサービスもよくないことが分かった。これらの問題を一つ一つ解決し、代理店にとって魅力的な販売計画を提案することで、業績を上げることができたのである。

「インドでは何よりコネが大切で、価格やサービスは二の次です」とマノジは言う。彼は代理店を頻繁に訪ね、手土産を持って行って信頼関係を築いていった。だが、大手と取引している代理店は最初は彼を相手にしてくれなかった。「私は営業マンとして必要なことに気づきました。一つは失敗を恐れないこと。もう一つは決してあきらめないことです。今日は成功しなくても、明日は成功するかも知れないのですから」と言う。中には訪問し始めて3年目にようやく取引を始めてくれる代理店もあった。マノジはこうして営業範囲をインドからパキスタン、バングラデシュ、スリランカ、さらには南アフリカまで7ヶ国へと広げた。

3年前、彼は建設や工業団地開発計画を手掛ける世正開発公司へと活躍の場を変えた。マノジによると、近年、インドではモディ首相の指導の下、ビジネス環境が大きく改善しつつある。台湾企業もその市場の可能性に大いに注目しているが、理解が不充分なためまだ傍観している状態だ。

そうした中、マノジは長年にわたってインドで人脈を築いており、世正開発公司はそれを見込んで好待遇で彼にインド市場開拓を求めた。以前の勤め先からも引き抜きの声がかかっているそうだ。マノジによると、中国語のできるインド人は、すぐに中国の企業に高給で引き抜かれるという。「それでも私が台湾に留まるのは、かつて台湾の奨学金をいただいたので台湾に貢献したいというのもありますが、何より台湾が好きだからです」と言う。

得意分野で恩に報いる

「台湾におけるインド人のGoogle、インドにおける台湾人のGoogle」と呼ばれるマノジは、台湾企業にとってのインド通であるだけでなく、インド人にとっての台湾通だ。台湾の山中で道に迷った人から助けを求める電話がかかってくるし、ボリウッドダンスを学びたいという相談や、インド料理の弁当はどこで注文できるかといった問い合わせまでくる。

彼にとって台湾は初めて訪れた外国で、その当時は辛かったという。「見知らぬ土地で知り合いもおらず、一番苦労したのは食べ物です。最初の半年は毎日のように泣いていました。少なくとも多少はカレーの味がするので、日本風のカレーばかり食べていました」と言う。それが今では「台湾料理や鍋が大好きです」と言うのである。

彼は、台湾は非常に恵まれた国だと感じている。「私の弟はアメリカに住んでいて、40ヶ国余りを訪れたことがありますが、台湾ほど良い国はないと言います。フレンドリーで安全で便利で…」と笑う。「20年来、私も世界各国を訪れましたが、中国大陸にだけは行ったことがありません」

もし当時、台湾ではなく北京に留学していたらどうなっていただろうと問うと、彼はきっぱりとこう語った。「もし当時北京に行っていたら、私は大海原に落ちた一滴の水のように、消えてしまったと思います。それが台湾では、葉っぱの上を転がる一滴の水のように、多くの人の目に留まり、輝くことができるのです」

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來自台灣獎學金的祝福

與台灣的緣份:邱亞伯&馬諾基

文‧曾蘭淑 圖‧林格立

一項官方為了友好國家所提供獎學金資助的政策,冥冥之中改變了二位年輕人的一生。

「這是我與台灣的緣份。」屏東科技大學熱帶農業與國際合作學系教授、多米尼克籍的邱亞伯與世正開發公司業務處專案經理、印度籍的馬諾基,不相識的兩人在十多年後,各自回首前塵,不約而同地為他們的命運下了這樣的註腳。


 

離開又溼又冷的台北,來到屏東科技大學,卻是豔陽高照,輾轉問了三位師生,好不容易找到熱帶農業暨國際合作系,穿著短袖polo衫的教授邱亞伯露出燦爛的笑容說:「抱歉,屏科大校園很大,我的辦公室不好找。」

來自中美洲加勒比海島國多米尼克的邱亞伯,不只是屏東科技大學第一位拿到博士學位的外籍生,他也是屏科大第一位當上系主任的外籍人士。「台灣不像很多國家在性別與種族上存在著看不見的歧視,在台灣,像我這樣一個黑人,也可以當上系主任。」

過關斬將,水到渠成

  1999年邱亞伯申請到我外交部國際合作發展基金會(簡稱「國合會」)「國際高等人力培訓外籍生」的獎學金,到屏科大就讀熱帶農業研究所,二年後拿到碩士學位的他,又直接攻讀博士學位。2003年多米尼克與台灣斷交,正值博二的他,獎學金乍然被取消,原本答應父母親念完碩士就要回去,邱亞伯的第一個念頭就是回國。

「但是當時的所長賴博永、指導老師黃卓治卻沒有因此放棄我。」回想在那關鍵的當頭,邱亞伯語氣充滿了感恩:「他們鼓勵我盡快完成學位,幫我申請校內獎學金,如父如兄的老師黃卓治讓我擔任他的研究助理,藉此賺取生活費。」

為了儘早畢業,邱亞伯夜以繼日地在實驗室裡做實驗,有時到凌晨四、五點要回宿舍睡覺時,已經遇到早上出來運動的人,連室友都抱怨總是看不到他的人影。

如此拚命努力,邱亞伯以三年時間拿到博士學位,這在台灣不僅十分罕見,他就學期間還發表了十篇收錄於「科學引用文獻索引」(SCI)的論文,學術成就斐然。2004年一月畢業時,即獲聘到屏東美和科技大學任教,準備九月上任。沒有想到母校六月正好有教職出缺,經過嚴謹的面試,邱亞伯順利拿到教職,讓指導老師黃卓治十分以他為榮。

「我常常在想,如果當時沒有聽從指導老師的建議,因為兩國斷交就離開台灣,我的人生可能因此而不同。現在想想,或許失去國合會的獎學金並非全然是壞事,獎學金斷炊雖然不幸;但幸運的是,我因此特別努力,提早拿到博士,剛好屏東科大教職出缺,時間、機會都配合的剛剛好。」邱亞伯回首來時路說。

為何不想離開台灣?

起初剛接下屏科大教職的邱亞伯,給自己十年的時間留在台灣,沒有想到一待就是20個寒暑。「我教的許多外籍學生,每人畢業後都急著返國,為何我會在台灣留這麼久?」邱亞伯常常這樣問自己。

邱亞伯有許多學生來自史瓦帝尼,因著史瓦帝尼大使的一席話,點醒了困惑的邱亞伯:「你回去多米尼克,只對多米尼克有貢獻,但你留在台灣,透過指導甘比亞、貝里斯、海地、聖文森、印尼等國家的學生、造就人才,可以對全世界的國家都作出貢獻啊!」

邱亞伯研究樹薯、葛根等多醣類食物的抗癌功效。他指出:「樹薯、葛根是南美洲貝里斯與聖文森等島國原住民的主食,做成保健食品,不僅兒童與老人易消化,而且具有降低便秘及罹患大腸癌機率的功用。」他所指導的碩、博士學生,研究的主題也是能對他們母國作出貢獻的食品,例如印尼學生作海草研究、印度學生將葡萄作成抗氧化的茶等。

「台灣擁有豐富的學術資源環境,加上台灣經常透過各種計劃協助低收入發展中的國家,透過我的研究,我也可以加入協助發展中國家的行列。」在許多國家,黑人可能面臨某種程度的種族歧視。30歲即當上系主任的邱亞伯說,「美國是很多人心目中的機會之地,但依我的經驗,台灣提供了公平競爭的機會,尤其對來自發展中國家的學生來說,只要努力工作,台灣才是機會之地。」

不只學術研究、作育英才的成就感,對邱亞伯來說,台灣人情的溫暖,也是牽絆著他離不開台灣的原因。

邱亞伯最好的三位朋友是來自屏東內埔、南投與苗栗的客家人。18年前的農曆過年,其中一位同學邀他到苗栗客家庄做客,把他當成家族的一份子看待,還發紅包給他。「盧媽媽的燉五花肉非常好吃,讓不喜歡吃肥豬肉的我也愛上,每次她都會多準備一份讓我帶回屏東。」嘖嘖讚賞的語氣中,有著受寵的滿足:「縱使現在我已結婚,每年農曆過年我還是會到盧家,但現在換我發紅包給小孩們,因為他們是我的家人。」

「國合會獎學金成為開啟我人生命運的鑰匙!當初如果離開台灣,我可能不會如此順遂成功。」邱亞伯露出不可置信的笑容作出結論地說。

因緣巧合,台灣我來了!

華燈初上,台北南港軟體園區矗立著高聳、曲形的建築立面,玻璃帷幕牆上流動的藍、白光束,映照著摩登、科技的氛圍。穿著細格子羊毛絨西裝的世正開發公司業務處專案經理馬諾基,同時也是台灣印度經貿協會副秘書長,他熟稔印度投資環境與經濟趨勢,每年演講近百場,是引薦台商到印度投資的專家。

馬諾基是外交部2001年提供第一批印度學生華語學習獎學金的21位受獎助者之一。自印度最好的德里大學商學系畢業,因為一位親戚在俄國總統普丁身旁擔任口譯,提醒他學中文的重要性,因此他雙修了東亞研究的學位。

想要學中文,當時印度的學生都跑到中國,也申請到中國獎學金的馬諾基說:「當時中國傾向我隔年才能去,但台灣外交部的獎學金卻讓我可以馬上成行。」他接著說:「你知道我當時連護照都沒有嗎?由於印度行政效率如蝸牛行步,我直到起飛前三天才拿到護照,再隔兩天才拿到簽證。如果當時沒有拿到護照,我現在就不會在台灣了!」馬諾基不假思索地說:「這是緣份!我的緣份都在台灣!」

台灣的緣份又牽引著馬諾基,再度申請到台灣外交部的獎學金,到銘傳大學攻讀EMBA,由於他的成績優異,他又順利拿到銘傳大學的獎學金,直升博士班。

攻城掠地,累積就業能量

就在馬諾基讀博一時,廣穎電通需要會說中文的印度人到印度開拓市場,馬諾基雖然完全沒有工作經驗,但經由他的努力,將記憶卡市場從零市佔率打到台灣廠商中的第一名。

2011年馬諾基的主管帶著他跳槽到和碩旗下的華擎科技,當時華擎在印度的市佔率不到2%,馬諾基努力與代理商溝通,發現品牌曝光度不夠,導致後端銷售困難,加上售後服務也做得不好,在問題一一解決後,並透過提供代理商深具誘因的銷售計劃,業績從此一路攀升。

「在印度,關係很重要,產品價格或是售後服務都是其次。」深諳個中道理的馬諾基,勤於拜訪代理商,帶個小禮物,不在乎成交下訂,而在乎建立信任的關係。一開始許多與知名大廠做生意的代理商根本不把他看在眼裡,馬諾基說:「我領悟當業務最重要的心法,第一不能怕失敗;第二是不能放棄。今天不成功,不代表明天不會成功。」有代理商直到他拜訪的第三年才進貨。最終,馬諾基將業務範圍,從印度拓展到了巴基斯坦、孟加拉、斯里蘭卡,甚至到南非等七個國家。

三年前,馬諾基轉換全新的跑道到以營建、工業園區規劃為主的世正開發公司。他認為,印度這幾年在總理穆迪的努力下,經商便利度不斷在提昇,每個台商都看好印度市場,但因為不了解,抱持著觀望的態度,也讓他的工作充滿挑戰。

憑藉著馬諾基多年來在印度累積的人脈,世正開發以優異的條件希望他到印度駐點,甚至以前的老東家也想挖角。馬諾基說,許多會講中文的印度人,一旦回到印度,很快就會被中國的公司高薪挖角,「我選擇留在台灣,不只是我拿了台灣的獎學金,希望對台灣有所貢獻;而是因為我愛台灣。」

飲水思源,貢獻所長

馬諾基號稱是「台灣印度人的Google,印度台灣人的Google。」他是台商眼中的印度通,更是印度朋友眼中的台灣通。朋友在台灣的山上迷路、在路上出車禍,都會打電話向他求救;連要在台灣學寶萊塢舞、哪裡可以訂到印度便當都可以從他那裡得到答案。

其實台灣是他人生第一次離家遠行的國家,問及剛到台灣,馬諾基似乎陷入不堪回首的回憶裡,在短暫的沈默後透露:「除了人生地不熟,最折磨人的是食物,前半年幾乎天天掉淚,每天只能吃日式咖哩,至少還有咖哩味。」但話鋒一轉,他說,「可是現在我超愛台灣菜,火鍋、快炒、甜不辣我都愛。」

每當想抒壓時,馬諾基就去登山、騎重機旅行,並帶著心愛的相機四處拍照,已經騎著重機環台四次的他,總是可以在大自然的山光水色中重新充電。他還自信的說,他可能比台灣人更知道台灣各處的景點與小路。不論多忙,馬諾基每週一定換上運動服練習板球,現也是台灣歷史最悠久的台北板球協會(Taipei Cricket Association,簡稱TCA)隊長的他,打板球跟他衝業績一樣出類拔萃,在台灣年度板球大賽三度獲選為最有價值球員(MVP, most valuable player)。

在他的眼裡,台灣是一個很被祝福的國家。「我的弟弟住在美國,他旅行過40多個國家,他說,沒有看過像台灣這麼好的國家,這麼的友善、安全、便利……。」他噗哧一笑地說:「20年來,我也跑過世界很多國家,就是沒有去過中國大陸。」

但是,如果當時去了北京,而不是台灣呢?馬諾基斬釘截鐵地說:「如果當時去了北京,我只會像一滴掉入海洋的水滴,淹沒不見;但在台灣,我就像一滴滾動在葉子的露珠,容易被看見,熠熠生輝。」

Scholarships Build Lifelong Bonds

Albert Linton Charles and Manoj Kriplani

Esther Tseng /photos courtesy of Jimmy Lin /tr. by Robert Fox

ROC government scholarships offered to citizens of friendly nations have changed two young people’s lives.

“This is my karmic connection with Taiwan,” say both Albert Linton Charles, a professor in the Department of Trop­ical Agriculture and International Co­opera­tion at National Pingtung University of Science and Technology, and Manoj ­Kriplani, director of marketing and sales at Century Development Corpora­tion. Although the two have never met, looking back over the past ten-plus years, each voices the same sentiment.


Charles, who hails from the Commonwealth of Dominica, a Caribbean island, is not only the first international student to obtain a doctorate at National Pingtung University of Science and Technology (NPUST), he’s also the first foreign national to serve as a department head at the school. “Unlike many other countries, there’s no implicit sexism or racism in Taiwan. Here, a black person like me can be a university department head.”

Surmounting difficulties, finding success

In 1999, Charles received a scholarship from the International Higher Education Scholarship Programs of TaiwanICDF (the International Cooperation and Development Fund of the ROC Ministry of Foreign Affairs), and enrolled in the graduate program at NPUST’s Department of Tropical Agriculture, where he completed his master’s degree after two years and then began studying for a PhD. But in 2003, Dominica broke off diplomatic relations with Taiwan and Charles’s scholarship was abruptly terminated in his second year of doctoral studies. Having originally promised his parents he’d return home after completing his master’s, his first thought was to go back to ­Dominica.

“But Lai Boyong, the department head, and my academic advisor, George Huang, didn’t give up on me.” Thinking back to that crucial moment, Charles’s voice is full of gratitude. “They encouraged me to complete my degree as quickly as possible, and helped me apply for an on-campus scholarship. Professor Huang was like a father to me, taking me on as his research assistant so that I’d have money to live on.”

The diligent Charles got his PhD in only three years, a rarity in Taiwan. He also published ten papers in journals that are included in the Science Citation Index (SCI), a remarkable scholarly achievement, and was hired as a teacher at NPUST.

“I often think that if I hadn’t followed my instructor’s advice, and had left Taiwan because of the break in diplomatic relations, my life would be different today,” says Charles.

Why did I stay?

Initially, after accepting the teaching position at NPUST, Charles had planned to stay in Taiwan for ten years, but 20 years have passed and he’s still here. “I’ve taught many international students. Most return to their countries right after graduation,” says Charles. “Why have I stayed in Taiwan?”

An Eswatini diplomat said something that resonated with Charles: “If you return to Dominica, you’ll only be contributing to Dominica. But if you stay in Taiwan, training students from countries like the Gambia, Belize, Haiti, Saint Vincent, and Indo­nesia, you can contribute to the whole world.”

“Taiwan is very strong academically, with abundant resources, and often assists low-­income developing countries through various programs. Through my research, I can also join in the effort to aid developing nations.”

In many countries, black people face some level of racial discrimination. Says Charles, who became a department head at age 30: “Many people believe America is the land of opportunity. But based on my experience, Taiwan offers opportunities for fair competition, especially to students from developing countries. As long as you work hard, Taiwan is the land of opportunity.”

“The TaiwanICDF scholarship was the key to my destiny! If I’d left Taiwan, I might not have been so successful,” Charles concludes, smiling as if he still can’t believe it.

Taiwan, here I come!

Dressed a fine-lined plaid woolen suit, Manoj Kriplani, director of marketing and sales at Century Development Corporation, is also deputy secretary of the Taiwan India Business Association. With a thorough knowledge of India’s investment environment and economic trends, Kriplani delivers nearly a hundred lectures annually, intro­ducing Taiwanese businesspeople to investment opportunities in India.

In 2001, Kriplani was one in the first group of 21 Indian students to receive a Chinese Enrich­ment Scholarship from the ROC Ministry of Foreign Affairs (MOFA).

At the time, most Indians who wanted to learn Mandarin went to China. China also awarded a scholarship to Kriplani. “It looked as if I would have to wait a year to go to China, but with the MOFA scholarship I was able to come to Taiwan immediately,” Kriplani says. “I didn’t even have a passport then. India’s bureaucracy moves at a snail’s pace, so I didn’t get my passport until three days before my flight, and it took another two days to get a visa. If I hadn’t gotten a passport then, I wouldn’t be here today!” Kriplani says without hesitation, “This is my destiny! Taiwan is my destiny!”

Kriplani’s karmic connection with Taiwan landed him another MOFA scholarship and a slot in Ming Chuan University’s EMBA program. Thanks to his outstanding academic record, Ming Chuan also awarded Kriplani a scholarship and advanced him to doctoral studies.

Ambition and experience

While Kripali was studying for his PhD, Silicone Power Co. was looking for a Chinese-­speaking Indian to open up the market in India. Although Kriplani had no working experience at all, through his efforts, Silicone Power’s position in India’s memory card market was driven from zero market share to number one among Taiwanese vendors.

In 2011, Kriplani’s boss left Silicone Power and took Kriplani with him to ASRock, a Pega­tron subsidiary. At that time, ASRock had a market share of less than 2% in India. In talks with distributors, Kriplani found that the brand suffered from under­exposure, leading to poor back-end sales, and after-­sales service was inadequate. Kriplani solved the problems one by one, motivating distributors with gener­ous incentives, and sales skyrocketed.

At the outset, distributors doing business with big-name companies wouldn’t take Kriplani seriously. He says, “I came to understand a sales representative’s most important mindset: First, don’t fear failure; second, don’t give up. If you don’t succeed today, it doesn’t mean you won’t succeed tomorrow.” It was three years before some of the distributors he called on placed orders with him. Later, ­Kriplani expanded his sales activities into seven other countries, including Pakistan, Bangladesh, Sri Lanka and even South Africa.

Three years ago, Kriplani switched to a new career path, moving to Century Develop­ment Corporation, an enterprise primarily involved in construction and in develop­ing industrial parks.

Owing to the many business contacts Kriplani had accumulated over the years in India, Century wanted to station him there, offering him an exceptional package, and one of his old employers even tried to poach him back. Kriplani says that a lot of Indians who speak Mandarin are lured to Chinese companies by high salaries when they return to India. “I chose to stay in Taiwan, not just because I wanted to give something back for the scholarships I’d received, but because I love Taiwan.”

Gratefully contributing

Kriplani has been called “Taiwan’s Indian Google and India’s Taiwan Google.” In the eyes of Taiwanese businesspeople, he’s an expert on India, and Indians regard him as an expert on Taiwan. If Indian friends lose their way on a Taiwan mountain road or are involved in traffic accidents, they phone ­Kriplani for help. He even knows where to find Bollywood dance classes and Indian-­style bento boxes in Taiwan.

Taiwan was the first foreign country Manoj  Kriplani ever visited. When asked about his initial impressions of Taiwan, it seems as though he’s revisiting unpleasant memories. After a short silence, he says, “Besides being a stranger in an unfamiliar place, the hardest part was the food. For the first half year I cried every day. All I ate was Japanese curry—at least it had a little flavor of home. But now I’m in love with Taiwanese cuisine, including hot-pot, stir-fry, tempura, the lot.”

In Kriplani’s eyes, Taiwan enjoys many blessings. “My younger brother lives in the US. He’s visited over 40 countries and says he’s never seen a country as friendly, safe, and convenient as Taiwan.” With a chuckle, he says, “In the past 20 years, I’ve also traveled to many countries, but I’ve never been to China.”

What if back in the day he’d chosen to go to Beijing rather than Taiwan? “I’d have been like a drop of water falling into the ocean,” he says unhesitatingly, “I’d have disappeared. But in Taiwan, I’m like a dewdrop rolling on a leaf, easy to see, glistening in the sunlight.”

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