啓蒙運動『客家風雲』
最初の波を起こしたのは雑誌『客家風雲』の創刊だった。
1987年6月、台湾大学教員に就任したばかりの邱栄挙は、梁景峰、鍾春蘭、胡鴻仁ら新聞社や学界の仲間を誘い、台北市仁愛路にある蘇治芬(後の雲林県長)が経営する元穠茶芸館に集まった。幾度か話し合った結果、客家人が自ら発言する場としての雑誌を創刊することが決まったのである。
『客家風雲』創刊に携わった唯一の女性である鍾春蘭は、当時「中国時報」紙の主編だった。「『客家風雲』と私たちが推し進める客家運動で、客家人の主体性を際立たせるだけでなく、文化多様性という社会観を打ち立てたかったのです」と言う。
10月に創刊された『客家風雲』の社論は「客家人の新たな価値を確立する」と宣言し、表紙には「硬頸子弟、歴史新頁(原則と意思を堅持する客家の子弟が新たな時代を開く)」と打ち出した。雑誌社の社長を務めた邱栄挙は、『客家風雲』の創刊が客家運動のスタートを切ったと語る。
客家雑誌の発行人を20年以上にわたって務めてきた弁護士の陳石山は、客家運動の発展には、『客家風雲』の創刊とともに二つの流れが重なったと言う。まず1988年8月に台北7号公園(今の大安森林公園)で行なわれた義民祭典に4日間で10万人が集まったこと。そして11月には新竹の義民廟200周年の祭りで桃園と新竹の15の客家集落を練り歩いたことである。この二つの活動が客家の人々の心を熱くし、大きなうねりが1988年12月28日の「母語を還せ」デモ行進につながったのである。
これと同時に、30以上の客家団体が初めて団結して「客家権益促進会」を設立して客家運動の要求を打ち出した。これまで黙って耐えてきた客家人だが、今後は二度と沈黙しないとし、「母語を還せ」という大規模なデモ行進を行なったのである。
「母語を還せ」運動
デモ行進では国父である孫文を名誉指導者とし、孫文の銅像をデモ隊の先頭に立てた。国の父が客家の子弟を率いて時の政権と抗争することを表現したのである。出発前には国父記念館に集結し、総指揮を務めた当時の省議員・傅文政が「孫文先生への祭文」を客家語で読み上げた。「我ら客家の後輩は、いま霊前に立ち、天にあられる御霊が、客家の団結と客家語の存続、そして客家人の強い精神力と台頭をお守りくださることを祈ります」と。
デモ行進は義民爺を抗議の象徴とし、デモを率いる先頭の車に義民爺の黒い令旗を立てた。一万人近い人々の行進が国父記念館から立法院へと出発した。人々は客家語、閩南語、国語で「母語を還せ!客家人は言語とメディアと生存の平等な権利を求める」と声を上げた。
この時に総指揮として届け出ていた邱栄挙はこう振り返る。「全台湾から客家の人々がデモ行進に参加するために200台を超える遊覧バスに乗って来ました。前日には国の情報機関が来て、デモはやるな、皆を動物園に連れていけばいいと言われました。私は決死の覚悟で臨んだのです」と言う。
この1988年の「母語を還せ」デモ行進について、邱栄挙は、客家文化を救わなければという危機感が底流にあったと考える。客家人の尊厳と地位を勝ち取るための、初めての客家人を主体とする客家運動だった。
そのデモ行進で「客家語を還せ」と書いたハチマキをしめていた若者の中に、後に省主席となる林光華もいた。その話によると、言語文化は一つのエスニックの根であり、当時彼らは台湾で用いられるすべての言語を「台湾語」と呼ぶことを求め、すべての言語が尊重されるべきだと訴えたという。
歴史的、構造的に長年にわたって抑圧されてきた客家文化だが、客家の人々は「母語を還せ」運動を通して団結の強大な力をまざまざと感じた。
1988年、客家人が発起した「母語を還せ」デモ行進は立法院に集結した。(潘小侠撮影)