
ここ2年ほどの間に、ネット文学が台湾の出版界ににぎわしく登場し、低迷していた文学書の市場に新しい活気を注ぎ込んでくれた。この現象をネット文学が出版物の世界に組み込まれてしまったと見るのか、それともネット文学のブームが本の市場にまで及んだと言うべきか、それは今は問わないことにしよう。ネット文学がネット人口の制約を乗り越え、出版物として、直接より広大な読者に向き合うようになった事実は否定できないことだろう。中でも一番注目を集めているネット小説が「初めての親密な接触」と「照る照る坊主」であり、この二作品はさらに映画化され、新聞の芸能欄でも大きな話題を集めた。
ネット文学とは何なのか。代表作には何があり、出版物の世界でなぜもてはやされているのだろうか。活字の世界でネット文学の本来の姿を再現できるのだろうか。そして、出版された結果、ネットにおける著作にどんな衝撃を与えたのだろう。
「・・・
それから阿泰は身を守る法則を考えだした。
今後、女性のネット友達と単独で会うときは、阿泰も僕もポケベルを持っていくことにした。
お互いに適当なタイミングをはかりポケベルでメッセージを出す。
肉食の恐竜に出会ったら、「宿舎が火事」と言う。
草食の恐竜だったら、「宿舎にこそ泥」と言う。
阿泰の部屋は火事が4回、こそ泥には6回やられた。
僕はラッキーで、こそ泥5回だけである。
だからダンスギャルに出会うまでには、僕の心臓はしっかり鍛錬されていたし、
たとえ恐竜に出くわそうと、心拍数は毎分72回を維持していた。
阿泰が言うには、その子は長い髪か、じゃなかったら男好きに違いないんだと、
女ってのは踊っているとき、髪かスカートをひるがえすしかないんだ。
髪をひるがえすのは美人だろうが、
スカートだったら、相当にセクシーってことだ
・・・」
これは蔡智恒のネット小説「初めての親密な接触」の一部で、学校のネット掲示板で知合った「ごろつきの蔡」と「ダンスギャル」の2人に起ったネットラブの悲劇である。分りやすく読みやすく、ネット式のユーモアに満ちている。1998年3月から5月まで、各大学を結ぶオンライン掲示板に連載されて、熱烈な反響が返ってきた。それが出版社を驚かせたのである。城邦出版社がその年9月にこれを印刷して出版し、翌年は大陸でも発売された。これまでのところ台湾では24万部が売れたし、大陸でもペーパーバックが36万部、クラブ版が5万部出ている。出版社の販売実績評価として、大陸では正規版の5倍の海賊版が出回っていると見られることを考えると、「初めての親密な接触」は、中国語の出版市場において300万部を越えるベストセラーになっているのである。これを出版界の奇跡という人までいる。
2000年、「初めての親密な接触」は映画化され、青春アイドルの陳小春、舒淇、張震などが主演した。映画は小説ほどヒットはしなかったものの、それでも映画界の話題となった。何と言っても、ネット文学から映画化された最初の中国語映画だったからである。
もう一つ、ネットから有名になったのが「照る照る坊主」である。
「照る照る坊主」は同級生に片思いする純真な女子高校生の物語で、日本の少女漫画のようなスタイルの小説と言える。1998年2月にネット掲示板に1ヶ月の予定で連載され、大変な評判を呼んだ。連載がまだ終っていないというのに映画プロデューサーから映画化の話が持ち込まれた。2000年になって「照る照る坊主」ともう一つ「愛してるなんて言わない」が一冊にまとめて出版され、台湾で2万部が出た。僅か数ヶ月のうちに、女子高校生である作者の琦琦さんはネット文学の著名作家になり、ネットのスピードと言う特性を証明して見せたのである。
ネット文学はネットでの高い人気を盾に、出版物の世界においても信じられないほどの成功を収めた。城邦出版社の責任者詹宏志さんによると、ネット文学の出現がそれまでの出版の流れを一変させたという。それまでなら編集者が作家を発掘していたのが、今では読者が篩いにかけている。それに半歩遅れて、出版業界がその成功を追認するのである。「出版社の役割はメーカーからサービス業に変ったのです」と詹さんは話す。
ネット文学が売れると言うので、出版社は明日のスター作家を血眼で捜し、次々にネット文学を出版していく。
現在、台湾では毎月10冊を越えるネット文学が出版されており、その編集方式も多様化している。一人の作家で一冊を出版すると言うこれまでのやり方に加え、多くの作家を集めたアンソロジーを定期的に出版する紅色文化社のラブポストや、晨星出版社のEライターがあり、また有名文化人のホームページと協力するという手法も試みられている。遠流出版社は漫画家の水瓶鯨魚が開設しているホームページ「失恋雑誌」に書き込まれてくる様々な打明け話や物語をまとめて、定期的に出版している。これもネット文学で、しかも有名漫画家がバックになっているので、売行きは悪くない。
出版点数は増え、手法も多様化してきているが、出版されたネット文学はきわめて同質性が高い。誠品書店の永和支店の梁永華店長によると、ネット文学に一番影響を受けているのは、少女に好まれてきたロマンス本で、純文学になると余り影響はないという話である。
「どちらの本も主に高校生が買うのです」と梁店長は言う。いわゆるロマンス小説は出版社専属ライターが書くもので、ベッド・シーンや役柄など細部に至るまで決められており、現実とはかけ離れている。これに対して題材、言葉使いなどが生活に密着しているネットの愛情物語が出現すると、ロマンス小説に当然ながら衝撃を与えるだろう。
ネット文学の作品が出版されるには恋愛小説が基調となるが、ネット文学評論家の林信安さんによると、出版されたネット文学のほとんどが新しいプライベート・ロマンスと言えるのだそうである。
「ネット人口は学生が主ですし、恋愛小説が好まれると言うこともあって、ネット文学で出版されるものはキャンパスの中でのラブロマンスを写実的に描くものばかりです。作者は著作を通じて、小さな恋の終りと小さな再生を追体験します」と林さんは言う。作者も読者も同じレベルにいると言うので、当然大きな反響を呼ぶのである。
「それにネット世代の言葉遣い、自由自在な記号の使い方、語気や段落を表現する独特な画面構成など、ネット独自の視覚効果は出版のときにもそのまま残され、ネット文学をより身近にしています」と林さんは付け加えた。
出版の世界がこぞって靡くネット文学だが、出版されたものがネット文学本来の姿を伝えていると言えるのだろうか。
現在、一般に用いられている広義のネット文学の定義とは、ネットを媒介として普及している文学の一形式ということになる。この定義から見ると、出版されているのはごく一部分に過ぎない。出版社が多くの作品を見出している大学の掲示板を例に取ると、ストーリーボードからの小説が最も多く、出版作品の主要な供給源である。それ以外にもフィーリング・ボードには何気ない気持を表現できる小品、ラブ・ボードには恋の思い出、ポエム・ボードには現代詩の対談が見つけられる。FHN歴史幻想ボードでは、もし諸葛孔明が死ななかったら、三国演義はどう続いていくのか、みんなが想像をたくましくしている。セックスストーリー・ボードは若者のバーチャルな遊び場である。
掲示板はネットのコミュニティで、様々な興味や目的を持つ人が全国オンラインでこのコミュニティを訪れる。そこでは討論が素早く行われ、ネット世論が形成されるが、出版社の目にとまるその作家はごく一部のボードに載っているに過ぎない。サーチェンジンのどれかを使ってみれば、すぐにも百近いネット文学のホームページが見つかるだろうが、この多様な創作の試みの中で、出版の世界に反映されているのはごく僅かなのである。
無論、これには選択基準も関ってくる。
紅色文化社の編集長葉姿麟さんによると、ネット文学の出版を成功させるには、ネットでの人気と編集者の選択という二つの関門を通らなければならない。選択のときに、当然ながらネットでの評判の大きさは基準になるが、本の読者とネットの読者とでは読書習慣が異なる。どんな作品が出版物の読者に受け入れられるかは、編集者の判断とシリーズ全体の方向性から決定されるのである。
現在、わが国の文学書の市場で売れていると言うので、出版社はネットの恋愛小説を競って出版している。しかしネット文学で量的に多いエッセイについて、葉編集長は近いうちに出版する計画があるとは言うものの、それは試験的なもので、売れるかどうかもう少し様子を見る必要があると言う。
ネットがいかに多様化し自由であろうと、出版の世界に入ってくるにはそのビジネス方式に従う必要があると葉編集長は断言する。ニュースを作り出してスター作家の評判を盛り上げるとか、出版社がホームページを開設し、作家を発掘してブランドを確立するなどのビジネス手法が、ネットにおける創作形態に変化を促すことだろう。今までのところは、あちらもこちらもキャンパスのラブロマンスをテーマとした小説ばかりだし、意識すると否とを問わずに多くの人が有名作家のスタイルを真似て書いている。真似される有名作家は、有名なために以前のような自由な創作が出来なくなっているかもしれない。
蔡智恒さんも、こんな状況を認めている。最初の作品「初めての親密な接触」では自分の生活や感情をそのまま書けたが、それ以降の作品では虚構が多くなっているという。「ネット小説は作者の実体験と思っている人が多いのでしょうか、あからさまに自分の周囲を題材に取れば、ネットの読者は何でそんなに簡単にダンスギャルを忘れられるのかと非難してきます」と、有名になった代価か、蔡智恒さんは以前ほど気楽に物を書くことが出来なくなったと言う。
出版物だけではネット文学の多様な姿をすべてカバーできないかもしれないし、大衆文学としての特性から深みに欠ける嫌いがある。それでも否定できないのは、出版社が取り上げたことで、これまでネットと接触のなかった広い読者層をとり込めると言うことだろう。
文学の優劣をいかに判断するのだろうか。真実と誠実は、これまでも価値であったと思う。イギリスの作家オスカー・ワイルドは、ろくでもない詩の全てが誠実なものだと皮肉ったが、作家の王文興氏は「修辞はその誠実なるによる」と断言した。
「問題は作者が感じるところが真摯な感情なのかどうかです。それが喜びでも悲しみでも、愛の渇望でも色欲でも、果ては反社会的なものであろうと、適切なイメージを捉まえて表現すれば、自然と言葉の力を具え、強大な破壊性を持つことになります」と林信安さんは言う。
詩人の向陽さんは、こう考える。ネット文学が通俗的とか深みに欠けるとは限らない。ネット上では何の制限もなく、出版物のように既成の価値判断で篩いにかけられることもないのだから、若者はここにより広い空間を見出せるだろう。そこからこれまでと異なる文学の理念を確立でき、20世紀文学の理念を謳いあげた胡適のように、新しい胡適が生れてくるのかもしれない。
中興大学外国語学科の李順興助教授が研究し、推進しているのも、新しい文学の理念である。それによると、新しいネット文学は電力の流れる文字でなければならないと言う。ネットのデジタル化の特性を生かし、文学創作をハイパーテキストの形態に変換するもので、言いかえると、単なる文字や画像、版型の枠組みを超え、創作者がネット上の受け手と共に自由に感じ取れる空間を創造すると言うことなのである。
「例えば、ハイパーテキストを使えば、通常の文学創作の中にレイアウト機能を加えていくことが出来ます。画像を呼出し、インタラクティブな機能を自在に使いこなせて、単なる文字ではなく、より豊かな美学の概念が盛り込まれていくことでしょう」と李助教授は話す。フォトショップなどのソフトの操作がより簡単になっていくことと相俟って、ハイパーテキストのネット文学がこれから普及していくに違いない。
ネット文学は印刷された出版物を凌駕しているわけではないし、出版物もネット文学を取りこみきれているわけではない。出版されることによってネット文学が本来持っていた特質を制限してしまうのでないかはと、相変らずの思考方式で心配しているうちに、ネットの自由で拘束のない世界は、無限の可塑性を指し示しているようである。


