二、客家の伝統的業種
マレーシアの沿海都市に暮らす客家人の多くは大埔や嘉応に属し、彼らは主に商いを行なってきた。洋服屋や輸入品店、布地屋、眼鏡・時計店、漢方薬店、鍛冶屋などは、昔から客家人が従事してきた業種である。この点はシンガポールとマレーシアに共通している。
当時、水客に案内され、あるいは親戚や友人に伴われてマレーシアに来た「新客」は、みな貧しい出身だったが、それでも生きていくための技術を持っていた。技術を持たない者は「生姜をかじり、酢をすする」という忍耐強さと勤倹の精神で自分の道を開いていった。
たった一人でやってきた新客は、最初は成功している同郷や親戚の店舗に雇ってもらう。漢方薬や布地、時計や眼鏡、仕立てなどの商売は、見習いから始めて少しずつ学んでいき、時機が来たら独立する。こうして成功した人も少なくない。
客家は教育熱心なのでも知られている。1904年にペナンに開かれ、マレーシア初の新式学校と呼ばれた「中華学堂」の設立推進の中心になったのも客家人だった。
有名なクアラルンプールの「循人中学」やイポの「深斎中学」なども客家会館が設立した。鄭景貴、張弼;士、戴欣然、胡子春らはマレーシアの華語教育推進の先駆けである。客家の陳済謀、林晃昇、胡万鐸も、かつてマレーシア中華学校理事会連合会総会主席を務めた。華人社会がマレーシアで最初に創設した私立大学「南方学院」の土地を提供した蕭畹;香は大埔の客家人である。
長年にわたって移住を続け、閉鎖的で痩せた土地に暮らしてきた客家は、落ち着いて学業に従事できないことを常に悔やんできた。だからこそ、学習の機会が得られた時には、それを非常に大切にする。
三、働きつつ読み書きを学ぶ
以前、シンガポールとマレーシアの漢方薬店を取材した時、店主はこんな話をしてくれた。かつて漢方薬店の見習いは「学師子」と呼ばれ、多くは学校に通う機会のない貧しい家の子弟で、12歳ぐらいで見習いと雑用に雇われた。
学師子は、最初は店にも出させてもらえず、奥で掃除や煮炊きをするだけだ。店主だけでなく、店を切り盛りする店員にも辛く当られる。誰も何も教えてくれず、一から自分で学ぶしかない。夜になって初めて店内に入り、鉛筆とノートを手にカウンターの後にある、薬材を入れた四角い引き出しを見ながら字を書き取っていく。
漢方薬材を入れる引き出しは無数にある。高く長い壁一面の引き出しを開けると、中には更に4〜6の箱が入っていて、全部あわせると1000種以上になり、それぞれに漢字で薬材の名が書いてある。
毎晩、少しずつ漢字を書き取っては覚え、しだいに読み書きができるようになる。その後、独立して成功し、信用と文化を重んじる「儒商」となった人も少なくない。素晴らしい向学の精神である。
(ご協力いただいたシンガポール茶陽〔大埔〕の藍正厚会長、マレーシア南方学院院長の祝家華博士に心から感謝を申し上げたい)