社会への関心を歌に
「独りきりの夜、灯りの下/春風が吹いてくる/十七、八歳になっても嫁に行かず/じっと若者を想う」……
この歌詞とメロディは、オリジナルの純純のバージョンであれ、江蕙の歌声であれ、あるいは新世代の陶Uが気だるく歌うR&Bであれ、作詞家の李臨秋(1909-1979)が込めた思いは変わらない。恋に憧れる少女の恥じらいを描いたこの歌は、台湾で何世代にもわたって歌い継がれ、海外へ出て行った人々も郷愁を込めて歌う台湾歌謡である。
李臨秋は、台北の大稲埕が茶葉の輸出で栄え、台湾文化協会が設立された1930年代に多感な時期を過ごし、自由と民主主義と平等への思いを募らせていた。そうした中の1933年、25歳の時に李臨秋はこの『望春風』を創った。封建的な社会において女性の地位は低く、結婚も自分では決められない時代、恋に憧れる少女の想いを歌ったものだ。少女の繊細な思いは「外に人の気配を感じ/そっと扉を開けてみる」と表現され、「君が何時か摘みに来るのを待つ/満開の青春の花を」という表現には漢文らしい哀愁も感じられる。
1947年、不惑の年になった李臨秋は『補破網』を創作した。二二八事件で、出身地を異にする人々の間が引き裂かれた台湾社会を暗に表現し、知識人の力でかつての調和のとれた日々を取り戻したいと考えたのである。「これからのために破れ網を繕おう/道具を探して繕おう」という歌詞で人々の心を奮い立たせたかったのである。
李臨秋の作風は「三分の雅、七分の俗」と言われる。恵まれた家庭で高い教育を受け、漢学に精通しながら大衆のための歌を書いたのは、社会のために何かしたいと考えたからだ。
2009年、李臨秋の生誕百年を迎え、大稲埕公園には彼が『望春風』を書く姿の銅像が設置された。淡水河の河畔で椅子に座り、景色を眺めながら詩を書いている姿である。この姿は、李臨秋の六男である李修鑑が特別に選んだものだ。一般の銅像のように直立不動の姿ではなく、ごく普通の人として親しみやすい姿にしたかったのだと言う。彫像が完成すると、子供がその背中によじのぼる姿が見られるようになり、まるで祖父が孫を背負っているかのようで、李臨秋の親しみやすさがよく再現されている。
台北市西寧北路にある旧宅は、予約すれば解説付きで見学できるようになっており、李修鑑は古い家屋を当時のままに保存している。細い木の階段をギシギシと音を立てながらのぼっていくと、そこには李臨秋が使った日用品などがそのまま残されており、昔の生活の息吹が感じられる。
取材に訪れた日、私たちは李臨秋がかつて『望春風』を書いた机を囲んで座った。李修鑑によると、李臨秋には作詞のための儀式があったという。母親が市場から酒と夜来香の花を買ってくると、子供たちは父が今夜は作詞をするのだと知り、早々と床に就いた。李修鑑は父親が酒を温めるために使っていた3点セットを出して見せてくれた。米の醸造酒は御燗してこそ香りが立つ。まず外側の器に熱湯を注ぎ、内側の器に酒を注ぎ、杯で蓋をする。そうして3分待てば酒が温まり、香りが立つ。李臨秋は「紅露酒」を愛し、酒を飲みながらペンを走らせたのである。
李臨秋は生涯を大稲埕で過ごした。今日の大稲埕には往年の華やぎはないものの、人々を惹きつけるものがある。古き良き台北を語る時、李臨秋の旧宅は欠かすことのできない存在となっている。私たちが取材に訪れていた2時間の間に、4つのガイドグループが案内されて見学していった。解説員が『望春風』や『四季紅』を口ずさみながら李臨秋の物語を語る。これこそ旧宅保存の価値と言えるのではないだろうか。
蒲添生旧宅の一角。1958年に第一回日本美術展覧会(日展)に出品した作品『春之光』。