彰化を歩き、文学に親しむ
頼和医館のそばには日本統治時代に建てられた、貧困者のための台湾初の隣保館があった。「乞食寮」とも呼ばれ、頼和が民衆の物語や歌謡などを収集する場所でもあった。当時は植民地教育の下、台湾の風俗や民謡、物語などは軽んじられた。頼和は創作活動の傍ら、そうした台湾本土の民間文学を保存しようとしたのだ。
記念館を出て、頼和の母校、中山小学校を訪れる。敷地内にはパブリックアート作品「詩文樹」があり、頼和を含む、同小卒業の12名の作家の紹介が刻まれる。今年は中山小学校創立120周年、校内には100年以上の校舎も残る。頼和は息子の入学式の際に、自分が新入生だった25年前を思い出して「無聊的回憶(無聊な思い出)」を書き、植民地教育への批判を著した。
彰化市のランドマークの八卦山は、頼和の作品にもよく登場する。八卦山の牌楼脇にある遊歩道は、階段を上りながら彼の「読台湾通史」10首のうち7首の詩を楽しめる。最後にそびえ立つのが有名な「詩の壁」で、直立する100本の鋼板に書かれているのは彼の「前進」からの抜粋だ。
八卦山のふもとにあった彰化公園はもはやなく、頼和の「公園納涼」「公園晩坐」などから当時を偲ぶしかない。ガイド役と一緒に孔子廟を散歩してみる。ここには頼和が最初に学んだ公学校があった。「天公壇」という俗称を持つ廟「元清観」にも足を向け、台湾文化協会の活動など、頼和が社会運動に加わった話を聞く。
次に向かったのは彰化警察分局だ。日本統治時代、頼和は2度逮捕され、ここにあった警察署に拘留された。こうした経験は、その後の彼の文学、つまり社会の底辺の実情を描くことや、弾圧への抵抗につながった。「吾人」に「勇士まさに義のために闘争すべし」と書き、2回目の投獄の際の心境は「獄中日記」に著した。
今日の陳陵路は、かつては小西街と呼ばれてにぎわい、路地内に「高賓閣」という料理屋があった。1941年には頼和など医学校卒業生がここで同窓会を開いた。高賓閣は歴史家などの奔走で県の文化財に指定され、再建計画が進行中だ。
頼和に関する豊富な文献を所蔵する記念館は、積極的に国際交流も進めている。植民地時代を描いた頼和の作品は魅力あり、国内外から歴史、文学研究者が訪れる。カリフォルニア大学サンタバーバラ校が頼和の詩を英語に翻訳したほか、ドイツのハイデルベルク大学中文科は2015年に頼和基金会を招いて学術シンポジウムを開き、頼和と台湾新文学に対する世界の認識を深めた。
ガイドの案内で、頼和の作品を読みながら巡る文学スポットの旅は、館内展示とはまた別の味わいがある。歩きながら地域の文化を、そして「自由の花」をかみしめたい。
トレードマークの口髭に台湾風のシャツ姿の頼和。「頼和医館」は貧しい人々を無料で診療 していた。(頼和基金会提供)
李献璋が編纂した『台湾民間文学集』には頼和の序文が収録されている。
かつて公学校だった彰化の孔子廟。頼和は幼い頃、ここで日本の教育を受けた。
120年の歴史を持つ彰化の中山小学校は頼和の母校である。
1941年、頼和は再び逮捕投獄され、その辛い心情を「獄中日記」に綴った。