斯波義信:庶民の強大な力
今回、漢学での受賞者2名のうち、東京生まれの斯波義信は、国際的に著名な中国経済社会史学者であり、日本の漢学における「東京文献学派」の代表的人物だ。88歳の氏は宋代の経済史や商業史、華僑研究を60年以上続けてきた。
台北の圓山飯店で本誌のインタビューを受けた氏は、漢学の研究を始めたのは主に両親の影響だと語った。「本当はドイツ経済史をやりたかったのですが、父が『漢字は日本が使い続けてきた外国語だから、ドイツ語で研究するよりも有利なはずだ』と言い、それに母方の親戚が中国社会の研究をしており、よく中国に調査に行った話をしてくれて、興味を持ちました」唐宋代を選んだのは、日本への影響が深く馴染み深かったのと、学術界に研究の伝統があったからだった。
質問されるたびに指を額に当て、しばらく考えてから斯波は答える。唐宋代の社会変化が最終的にもたらしたものは一言で表せる。それは庶民の力だと。庶民の台頭は、ヨーロッパでは11世紀の商業革命時に、日本では江戸時代にやっと起こったが、中国ではより早く規模も大きいもので、これが8世紀の唐宋文明を主に作り上げた。
世界で高く評価された氏の著書『宋代商業史研究』『宋代江南経済史の研究』では、こう論じられている。中国では古くから士農工商の身分があり、工商は最下に置かれてきたが、唐宋の時代には交通や技術の発達によって商人が栄え、それがもたらした社会変革の力は広範囲に及んだ。
斯波はこんな例を挙げる。唐の中頃に朝廷は100万人以上の兵を抱え、その兵糧の補給を地方の商人や水陸運輸業者に託したが、これが契丹や女真など周辺民族の侵略防衛に大いに効果を発揮し、商人の地位も高まった。また隋の時代にすでに開通していた運河も、各地の特産品を全国に流通させ、成都で織られた「蜀錦」や定州窯の「定瓷」など28項目に上る名産が生まれ、産地と消費地との差額で商人も大きな富を得た。
華僑流動の雛形も唐宋時代にできあがった。斯波によれば、華南、華中、福建では開墾地が限られていたこと、また福建人は教育を重んじたため、開封や杭州などの大都市に出て勉学することが奨励され、それが海外移住への動きにもつながった。「海外での華人の経済活動は合理主義という共通点があると思います。中国の思想や文化には禅宗や易学の『自然の流れに任せる』という思想が根源にあるので、中国人は最も無理のない、最も合理的な出発点を見つけます」という。
斯波義信が鮮やかに描き出した知識の系図は、精緻で広範囲にわたる。中央研究院歴史言語研究所の研究員、陳国棟は、斯波の研究はその博識に支えられていると言う。インタビューの最後に、斯波は自らの人生哲学にふれた。それは「外の世界に惑わされず、自分の立ち位置を守る」ことだという。1970年代の文化大革命の頃は世界でもマルクス主義が潮流で、反資本主義のうねりの中、商業に関する研究資料を集めるのは大変だった。それでも氏は自身の研究を貫き通した。
斯波義信氏の漢学研究は、中国、日本、西洋における研究の精髄を見事に一体化させている。