旧暦3月22日子の刻、金瓜石の勧済堂正殿内にはこうこうと灯りがともり、線香の煙が立ち込めていた。黄色い道士服を着た96歳の住職、鄭金木さんが杖を手に、厳粛な面持ちで媽祖生誕を祝うお経を上げている。23日0時を過ぎるや、木魚を叩く音は鐘と太鼓の音に変わり、年に一度の金瓜石媽祖巡行の幕開けとなった。
諸神が神輿で
午前7時、再び祈りをささげ、うやうやしく諸神を神輿へといざなう。太鼓集団「優人神鼓」の指導を受けた地元太鼓チームによって、重々しく太鼓が打ち鳴らされる。それが終わると太鼓や銅鑼が一斉に響き、けたたましい爆竹音も加わった。それが諸神への出発の合図だ。
滑稽な姿をした「報馬仔」が先頭に、そして二対の大きな人形「大神尪仔」が体を揺らしながらそれに続く。電子音楽に合わせて踊る「電音三太子」、龍陣や醒獅団などの舞踊団も、次々と神輿の前に歩み出て拝んでいく。セクシーな姿の「陣頭舞姫」はロックに合わせて体をくねらせている。これも台湾独特の祭りの風景だ。
金瓜石媽祖巡行は神輿7基で堂々たる隊列が組まれる。先頭は土地神、次に保民堂神農大帝、焿仔寮媽祖、一つの神輿に乗った関渡媽祖と麦寮媽祖、勧済堂が祀る北港媽祖の分霊、最高神の玉皇大帝、最後が勧済堂の主神である関聖帝君だ。
一般に神輿は木製が多いが、金瓜石の巡行ルートは坂道や階段が多いので軽くするために藤で編んだ神輿を使う。それでも神輿は重さ10キロを超えるので、8人1組で担ぐとはいえ坂道では息が切れ、また雨の道は滑りやすく、台湾で最も難度の高い神輿担ぎと言えるだろう。
初めて担ぐと、下り坂では神輿が肩に食い込み、苦痛で表情がゆがむという。だが、すでに5年の経験を持つ若い王義華さんは溌剌として「小さい頃から祖父に連れられて媽祖巡行を見てきましたから、こうしてご奉仕できるのは本当に晴れがましいことです」と語る。
85歳の陳石城さんは神輿を担いで数10年になる。首に掛けたタオルで汗や雨を拭きながら「ネットで『金採掘の達人』と検索すれば、すぐに私の名前が出てきますよ」と元気に笑った。
トロッコの線路跡を過ぎ、新北市立黄金博物館にやってきた。信徒が神輿の下をひれ伏してくぐることで息災を祈願する「神輿くぐり」が、昔からここで行われてきた。今年は例年の5倍以上の人が神輿くぐりをしようと列を作っている。
沿道では媽祖を迎えるため、各家の前に供え物が並べられている。北部海岸の媽祖巡行では、この辺り独特の線香交換という習慣がある。巡行を迎える人々が長い線香を差し出し、巡行の信徒の持つ短い線香と交換してもらう。その線香を自宅の香炉に差すと、神の祝福が得られるという。
善を勧め、世を救済
金瓜石には媽祖廟はない。まして巡行を主催する勧済堂の主神は「恩主公」と呼ばれる関聖帝君なのに、なぜ金瓜石では100年以上も媽祖巡行が行われてきたのだろう。
黄金博物館教育研究チームの駱淑蓉さんによれば、金瓜石媽祖巡行の歴史は金瓜石発展の縮図になっているという。日本統治時代の大手紙『日日新報』によれば、金瓜石で媽祖参拝や媽祖巡行が最も早くに登場するのは1919年だ。
日本統治時代、金瓜石では日本の製鉄業者が採掘権を得た。駱淑蓉さんの研究によれば、基隆など他地域に比べ、金瓜石では日本人と台湾人の間で文化が複雑に交じり合ったりせず、雇用主は台湾人の媽祖信仰を禁止しなかった。原因の一つとして、日本人が金瓜石山神社で祭りを行なうために鉱山を休みにしたことが考えられる。労働者のほうでも関聖帝君や媽祖の祭りを催し、村のあちこちで舞台が組まれて芝居などが演じられた。
まして宗教は違っても、いずれの祭りも鉱山の繁栄と安全を願うものだった。駱淑蓉さんと、勧済堂管理委員会総幹事の林欽隆さんの両方が指摘したのは、台湾と日本の仲介役と言える人物の存在だった。それは、日本人に台湾人労働者を紹介する仕事をしていた黄仁祥という人物で、彼は「鉱山ではみな運命共同体なのだから、台湾人の信仰を日本人は認めるべきだ」と日本人を説得したのである。彼はまた、当時まだ粗末な建物だった勧済堂に改築の出資もしており、こうして媽祖巡行はこの地で綿々と受け継がれていった。
勧済堂の主神である関公については、黄金博物館でアシスタント研究員を務める王慧珍さんによれば、関公は仁義の化身とされるので、労働者たちが採掘した黄金をこっそり盗まないよう、不正を正す効果も期待されたという。
勧済堂は信仰の拠り所であるだけでなく、薬を提供したり漢学を教えたりする場でもあった。端午の節句に催される青草祭では、関公を乗せた神輿を担いで神のお告げのままに海岸沿いの南雅や福隆などを回り、薬草を採って帰って青草玉を作った。無料で配ったため、医者にかかる経済的余裕のない人々には大きな助けとなった。
鉱山の安全を守る
日本統治時代が終わると日本の会社は接収されて国営事業台湾金属工業(以下「台金公司」)に経営が移る。勧済堂の住職、鄭金木さんの父親は当時、台金公司の警備員で日給が1元余り、当時は1元で米1斗が買えたから高給だった。
また鄭金木さんによれば、ある日、坑道崩落事故が発生し、埋もれた労働者がいつまでも見つからなかった。関公にお伺いを立てればいいと住民が言い出し、関公の神輿を担いで坑道を回り、坑道入口で3日間関公を祀った。すると「探す場所を間違っている」とお告げがあり、果たして反対側の入り口付近で見つかったという。
危険と隣り合わせの鉱山生活では、媽祖巡行は厄祓いとして重要な意味を持ち、まして金採掘自体がくじ運を祈るようなものなので、宗教行事は住民にとってとりわけ大切だった。
金瓜石に媽祖廟はないものの、勧済堂の2階には北港朝天宮からの分霊である媽祖神像が祀ってある。総幹事の林欽隆さんによれば、1934年から勧済堂は北港朝天宮に巡礼を行ない、1年に1度は媽祖様に「里帰り」してもらっている。それでも林さんは「まあ、勧済堂にお住まいになって数10年になるから、媽祖様ももう金瓜石の人ですけれどね」と付け加えた。
旧暦3月の媽祖の祭りは昨今ますます盛んだ。そのおかげで金瓜石も媽祖を信仰する人々の注目を浴びるようになった。今年はとりわけ規模が大きく、保民堂、金福宮、五府千歳の廟も参加した。勧済堂も設立100年で初めて管理委員会を組織し、媽祖巡行を行なった。実はそれは、衰退しつつある金瓜石の現状が関係している。
我が故郷、金瓜石
警察官を定年退職した林欽隆さんは「金瓜石が没落して荒れ果てていくのを黙って見ているわけにはいきません」と嘆く。鉱山は枯渇が進み、労働者の数も減少した。台金公司は水湳洞附近に銅精錬工場を建設したものの、大気汚染が人口流出に拍車をかけた。1987年、台金公司が廃業して金の採掘は終わりを告げる。1970年代の最盛期には約8000世帯、2万人以上が暮らしていたが、今では約100世帯、600人余りという現状だ。
媽祖巡行も以前なら、その年に主催する村が村内の各家から徴収したお金で経費を賄っていたが、人口流出後はそれでは足りなくなり、勧済堂が四つの村を統括して行うようになった。
勧済堂主任委員であり、瓜山小学校同窓会理事長でもある連城珍さんも、故郷振興に責任を感じている。100年の歴史を持つ瓜山小学校は全盛期には2000人を超える児童がいたが、今や全校児童は30人に満たない。今年は同窓会員200名余りを動員して媽祖巡行に参加した。こうして故郷への思いが一つになればと願う。
参加者にはほかに、やはり100年の歴史がある私立時雨中学卒業生もいた。同窓会会長を始め、1969~1972年に在学した卒業生が同窓会を催し、巡行にも参加した。また金瓜石緩慢民宿は前日から宿泊予約を入れずにスタッフ全員を巡行に参加させ、地域文化学習の社員研修とした。他郷に暮らす多くの金瓜石出身者も帰郷して、久しぶりに親戚に会い、金瓜石が自分の故郷であることを実感した。
沿道で巡行を見守る人々の中に、一人静かに写真を撮る朱朱さんの姿があった。媽祖を専門に描く画家だ。朱朱さんは自分でも媽祖像を有し、2.3キロあるその像を抱え、台湾全土の500以上ある媽祖廟を巡る。日本の四国とブータンの媽祖廟も訪れたことがあると言う。
本名を黄朱平という朱朱さんは、黄金博物館でのレジデンス‧アーティストになったことがある。ペン先2ミリのミリペンを使い、10年で200以上の媽祖を描いてきた。それらは新作画集『作度人舟』に収録されている。
朱朱さんはこう言う。金瓜石では、繁栄の後の寂寥や何かが失われた後の悲哀が感じられる。そしてそこに住めば、刻々と移り変わる自然の息づかいを味わえると。
自然の息づかいを感じる
今年の媽祖巡行でも天気は目まぐるしく変わった。文化財の水圳橋を背景に媽祖の神輿が通る風景を収めようと、100名余りがカメラを構えていたが、急に大雨となった。それから5号寮旧戯台前広場に向かうと、風に舞うような霧雨になっていた。巡行に参加した人々が昼の休憩に集まって来ており、それしきの雨に皆の食欲はびくともせず、住民が準備してくれた焼きビーフン、タケノコスープ、魚のつみれスープ、鶏肉の漬物煮など10種余りの料理に舌鼓を打った。
再び爆竹とラッパが鳴り響き、祈堂老街への行進が始まった。この商店街は石段が多く、昔ながらの姿をとどめる。
媽祖巡行が無形文化財だとすれば、金瓜石には有形の産業遺跡も数多く残る。廃煙道、十三層製煉廠跡などの遺構や、陰陽海、黄金瀑布といった奇観を巡ると、その荒涼とした風景に時の流れをしみじみ感じる。巡行を見送った後、全身しっぽり濡れて、煉金文創カフェのテラス席に座り、金箔の浮かぶ黄金コーヒーを飲んでいると、朱朱さんの言葉が思い出された。「媽祖は精神的存在です。巡行について歩けば、媽祖は人生の道を垣間見せてくれます」風雨に見舞われ、多くの人にも出会った巡行だったが、心の歩いた道が最も大切なのかもしれない。
山間の狭い道を練り歩くというのが金瓜石の媽祖巡行の大きな特色だ。(荘坤儒撮影)
96歳の住職、鄭金木が媽祖の生誕日に祝寿の経文を読む。
黒い衣装にウールのベストを着た「報馬仔」と呼ばれる先導役。ズボンをたくし上げ、片足の草鞋が脱げているのは、この役目の苦労を象徴する出で立ちだ。(荘坤儒撮影)
巡行は上り下りのある石段を行くため、神輿は軽くするために籐で編まれている。(荘坤儒撮影)
金瓜石から余所の土地へ出て行った人々も、媽祖の巡行のために帰ってきて風雨をいとわず一緒に練り歩く。故郷を愛する温かい心に満ちた巡行だ。
数十年にわたって神輿を担いできた85歳の陳石城さん。
勧澄堂では薬草玉を作って無料で信者に提供してきた。今は国民健康保険があるが、薬草玉には伝統的な意義がある。(新北市立黄金博物館提供)
曲がりくねった金水公路の傍らにある黄金瀑布。輝く襞のように流れる滝は、鉱山を代表する景観である。
金瓜石の特色である曲がりくねった金水公路と緑濃い山々。(荘坤儒撮影)