老舗の新たな発想
だが、このような盛況はもはやない。世界の茶産業及び台湾の産業構造の変化などによって台湾茶の輸出は衰退し始める。1982年には「製茶業管理規則」が廃止され、小規模農家も製茶ができるようになると、それまで製茶業者の果たしていた役割も大きく損なわれ、茶葉の供給が激減してしまった。
1976年、有記名茶は他に先駆けて台北市済南路に国内市場のための販売店を開いた。宣伝のため、「父は茶の販売用に軽トラを改造し、市場に行って売っていました。今で言う移動式カフェのようなものです」と王聖鈞は当時を振り返る。おりしも台湾は高度経済成長の頃で、日常生活で茶を楽しむ人も増え初め、有記名茶の商売も安定していった。2005年には製茶場を大改修、王聖鈞の幼い頃の遊び場だった1階倉庫を、レトロなムードの漂う明るくおしゃれな販売スペースに変えた。奥の製茶スペースは昔ながらの様子を残し、製茶工程の見学もできるようにした。2階の作業スペースも改造して「清源堂」と名付け、週末には中国古典音楽の演奏会を催すなど、茶とアートの結び付けも試みている。
一方、新竹関西の台湾紅茶公司が今では緑茶を作っているのはどういうわけだろう。羅慶士は、紅茶では海外の大企業に太刀打ちできないので、日本から煎茶製造の技術と設備を導入し、日本へ輸出することにしたのだという。そればかりか羅慶士は「蒸青緑茶粉」も生み出した。緑茶を蒸してから乾燥させ粉にしたものだ。お湯で溶かして飲めば抗酸化作用のあるカテキンが多く摂取できるなど、ヘルシー路線の開拓となった。
製茶所の古い建物は、1999年の台湾大地震で柱などが傾き、また道路拡幅なども行われたこともあって、建物の一部を再建して「台紅茶業文化館」を作り、80年にわたる貴重な写真などを展示した。羅慶士は古い写真を一枚一枚丁寧に説明してくれた。関西紅茶が全島名産に選ばれた写真、日本の皇室に献上された記事、総督府から受賞した特等賞、欧米の取引先からの信用状など、台湾茶の歴史を回顧できる。
1934年建設の新芳春行の建物は、戦火は逃れたとはいえ、茶産業衰退の現実からは逃れられず2004年に店をたたんだが、その建物は2009年に台北市文化財に指定された。台北市は、建築物保存のために容積率を移転する形で、建物の主要部分を残し、民間の建設会社と協力して建物の修復工事を行った。
4年後、新芳春行は再び民生西路に堂々たる姿を見せ、台北市主催で1階において「新芳春行特別展——大稲埕製茶問屋の輝きを再び」を催した。「『芳』尋顧渚」「『春』採蒙山」という対聨の貼られた扉を押して中に入ると、新芳春行の全盛期、大稲埕茶業の華やかなりし時代の光景をうかがい知ることができる。
王国忠へのインタビュー当日、彼はまず3階に上がって祖先の位牌に線香を上げた。工事が終わり、再び元の場所に戻ってきたご先祖様は、今後も子孫を見守り続けてくれるに違いない。
台湾の茶葉は1970年代に輸出のピークを迎えたが、茶畑の面積も激減し、近年は3トンの茶葉を海外からの輸入に頼る時代になった。だが幸い、いくつかの店が今もなお台湾茶の物語を語り続ける。次に茶を飲む際には、その味や香りだけでなく、かつての大航海時代にも思いを馳せたいものである。
(左下)「新芳春行」の茶葉の焙煎室では、三代目の王国忠が焙煎過程を解説する映像が放映されている。
有記名茶の、茶葉を焙煎するための竹籠は少なくとも数十年使われてきた。
台湾茶の栄光の時代を経験した王国忠。「新芳春行」は店をたたんだが、古い建物は本来の姿をとどめて修復され、現代の人々に台湾茶の物語を伝えている。(荘坤儒撮影)
「台紅茶業文化館」が収蔵する古い写真。トラックに茶箱が満載されている。
台湾紅茶公司はかつて世界の85の港に茶葉を輸出していたと語る羅慶士。
「有記名茶」の五代目・王聖鈞は、老舗ブランドに新たな創意を取り入れている。
「新芳春行」の2階には古跡修復のプロセスが展示されている。
かつての倉庫が「台紅茶業文化館」の展示エリアとなり、貴重な古い写真が多数展示されている。
「新芳春行」の採光と通風のための天窓。(荘坤儒撮影)
「新芳春行」の3階にある神明や祖先を祀る祭壇。王氏の祖先を中央に、神明を左右に祀っているのが特徴だ。 (荘坤儒撮影)
台湾の茶業は衰退したが、茶は台湾文化に欠かせない存在であり、今も国民に愛されている。茶摘みは台湾の美しい風景の一部であり、農家や販売業者は今も努力を続けている。