台東の魅力とポテンシャルを理解するために、「光華」は厳長寿氏と江賢二氏をお招きし、光華編集長の陳亮君が進行役を務めて、台東のビジョンとお二人の友情を語っていただいた。
TP:厳総裁は、台東の地方創生の優位性をどう見ていらっしゃいますか。
厳:50年前、私は兵役で花蓮に勤務していて、先住民の豊かな文化と、手つかずの壮大な自然があることを知りました。今は現地で先住民アーティストが活躍し、江先生のような世界的な芸術家もお住まいで、私は日本の瀬戸内海の地方創生を思い浮かべました。荒れ果てていた島に芸術家が移住することで観光スポットとなり、年に一度の芸術祭には多くの人が訪れます。江先生と私は、台東は瀬戸内海に劣らない国際的なスポットになりうると考えています。
TP:江先生は台東に移住された後、画風が明るくなりました。厳総裁は冗談で「老いのロマンス」とおっしゃいますが、台東が創作に影響しているのでしょうか。
江:私の全シリーズ作品の重要な要素は光です。その光は時に弱々しく、時にやさしく、時に明るいものですが、どれも自分の内面から発するものです。ニューヨークやパリ、台北で、私が外と向き合おうとしなかった理由がここにあります。私は内なる光、つまり敬虔で神聖な光だけを感じたかったからです。ところが、台東に移住してからはアトリエの窓を開けるようになりました。台東の陽光、空気、海や草花を感じ、台東があたえてくれるイメージをキャンバスに表現したいと感じたのです。
TP:厳総裁は公益プラットフォーム文化基金会を設立して長年台東で活動してこられましたが、どのように運営を持続しているのでしょう。
厳:私は台東の優位性に気づいてから、台湾西部のように開発によって破壊させないにはどうすればいいか考え始めました。そこで地元文化の振興に協力し始めたのです。
例えば台東の金樽では、冬の季節風でサーフィンに絶好の波が発生し、毎年11月から4月にかけて日本や欧米、香港などのサーファーが集まってきます。これは金樽の強みです。ただ、サーファーのための公衆トイレさえなかったので、私は当時の交通相を招き、ビーチの公共施設の拡充をお願いしました。
また台東の棉麻屋にマスコミを招き、先住民の龍恵媚の手工芸品を紹介しました。彼女は今ではイタリアとフランスのレジデント・アーティストになっていて、海外からの注文が増え、地域の女性30人がその編織の仕事に従事しています。
地域文化保存の他に、より重要なのは花蓮・台東の国際化です。台東長浜にはミシュランクラスのレストランがあり、先住民料理とフレンチを出しています。また、台東に国際実験学校「均一小中学校」を設立しました。現地の若い世代が英語を習得して世界とつながってほしいからです。それにより、彼らは海外のリソースを花蓮・台東に導入することができるでしょう。
TP:江先生はニューヨークのロングアイランドにいらっしゃった時に、芸術パーク創設を思いつかれたということですが、台東へ来てから実践されました。芸術パークを考えられた理由と、ロングアイランドと台東の類似点をお話しください。
江:台東とロングアイランドの共通点は人口が少なく、空気も景観もきれいで、ビルもないことです。1980年代にロングアイランドのウエストハンプトンにいた時、夏になるとアトリエを開放して多くの人と一緒に大自然の美を楽しみたいと考えていました。台北に移転してからは、環境が変わったのでこの考えはなくなりましたが、台東に来てからは、環境があまりにも素晴らしく、自分にも十分な能力があり、また厳総裁の影響もあって、何か社会にお返しをしたいと考えるようになったのです。
TP:厳総裁は江先生の後援会だとおっしゃっていますが、江先生についてお話しください。
厳:20数年前、江先生が帰国されてから知り合いました。芸術は門外漢でしたが、先生の『銀湖』シリーズには感動しました。蘇州でホテルの内装をしていた時、部屋の雰囲気が現代的過ぎると感じ、すぐに思い浮かんだのは江先生の絵でした。すぐに台湾に電話をして先生の『銀湖』の作品を写真にとって送ってもらい、飾ってみると、部屋の雰囲気は一瞬にして落ち着きのあるものになったのです。こうして、芸術家は作品を通して空間の空気を変えられることに気づきました。
江先生はアトリエを芸樹パークに変えた後、他の芸術家にも花蓮・台東の感動を味わってもらおうと、アーティスト・イン・レジデンスのためのエリアを設けました。いつか、先生と私が世を去っても、均一小中学校が永遠に続き、より多くの若い世代を世に送り出すように、その記憶はずっと台東に残るでしょう。
TP:台東へ移住されてからの、生活と心の変化をお話しください。
江:若い頃はいろいろな種類の音楽は聴かず、朝アトリエを開ける時だけバッハのピアノ曲を聞いていました。それが台東へ来てからは何でも聞くようになりました。プレスリーやロックンロール、ボブ・ディランなども聞きます。
それに、物事に対して以前よりリラックスした態度で臨めるようになりました。若い頃は、何事も非常に力んでいて、隅々まで完璧に処理しなければ気が済みませんでした。それが20~30年たって、ようやく力まずに、自然の流れに任せられるようになりました。
TP:厳総裁と江先生はすでに70代ですが、常に理想を追い求めていらっしゃいます。若い人のために、人生の理念をお話しください。
厳:私は73歳、江先生は78歳です。
私が花蓮・台東に来たばかりの頃は、ここに学校を設立することなど考えていませんでした。それまでの経歴とは関りがないからです。しかし、今では台東での仕事は芸術とつながり、江先生の後援会もやっています。公益プラットフォーム基金会の仲間たちも、こういう役割を果たすことになるとは思っていませんでした。ですから、若い人には、将来的に当初の目標と同じことをやるとは限らないということを知っていただきたいと思います。どの段階でも、予期しなかったことが発生しますが、自分の強みや将来の趨勢がわかっていれば、それを結び付けて進むべき方向が見出せますから、自分にプレッシャーをかけすぎないようにしていただきたいと思います。
江:私は若い頃、創作に力を入れすぎていて、どの作品にも隅々まで完璧を求めていました。それがいつの頃からか、力を抜けるようになり、流れに任せられるようになりました。だからと言って何もしないわけではなく、毎日、自分が求める方向へ努力し、問題に遭遇したら解決する方法を考えなければなりません。
若い人によく言うのですが、芸術作品も作るのは人間なのですから、毎日家族と仲良く暮らし、それから作品を完成させていくのです。また、3年後、5年後には大画家になるとか、どこの美術館で展覧会を開く、といった計画を立ててはいけません。これらは自分で計画を立ててコントロールできるものではないからです。自分でコントロールできるのは毎日真面目に生活し、継続的に創作することだけです。そうしていれば最終的には認められるでしょう。
厳:江先生がインタビューを受けられる際にいつもおっしゃるのは、芸術家はあまり早くから作品を売らない方がいいということです。売ってしまうと市場のニーズに引っ張られ、迎合して妥協し始めるからです。芸術とは、人生経験の蓄積から出てくるもので、作品が成熟した時、非常に大きな爆発力を持つのです。江先生の作品も30年たってから初めて世に出ました。台湾で正式に認められるまで30年の寂寞と沈殿があったからこそ、このような作品が生まれるのです。
TP:最後にお二人に、お互いのことをお話しいただけますでしょうか。
江:総裁には数えきれないほど長所があります。出会ってから長年になりますが、友人に対しても仕事仲間に対しても、一度も厳しいことを言うのをきいたことがありません。それから、相手が清掃員であれ、総統夫人であれ、大企業家であれ、誰に対しても同じように向き合うことです。誰かが怪我をしたら、自らしゃがみこんで傷を拭いてあげる人です。私が言うまでもなく、その長所は皆さんがご存じです。
厳:江先生は、世界的にも影響力を持つ大きな存在ですが、非常に控えめで謙虚です。芸術が商業化しすぎることを望まないため、マネージャーもいません。そこで私が自ら、その役を買って出ることにしました。先生にもっと輝きを放ち、影響力を持っていただきたいからです。人に対しては、一般にイメージする芸術家とは違って非常に穏やかで親しみやすく、創作に当たっては己に厳しく決して妥協しません。