筆で思いを表す
廖継春は穏やかな性格で、声を荒げたりするようなこともなかった。だが、内に秘めた活力はその作品に表れている。廖瓊瑞は「色彩と造形の点で、廖継春の右に出る者はいません。色も形も極めて自由です。色彩の美しさは魔術のようで、淡水と観音山の絵は何十枚にも及びますが、同じものはありません」と称賛する。廖瓊瑞は自分の学生に対し、「ちょっとぼっとしてるような学生でも、次の廖継春かもしれないと思って接するようにしています」と言う。
初期の頃は写実的な画風だったが、米国訪問以後は抽象的なものに移っていった。蕭瓊瑞は「現代抽象芸術は形式こそが内容です。廖継春はこの分野での先駆者でした」と指摘する。廖継春は藍蔭鼎と同様、石川欽一郎の愛弟子だった。異なるのは、廖継春は美術学校で正式な教育を受けたが、藍蔭鼎は石川欽一郎が外部に設立した「台湾絵画研究所」で学んだ点だ。廖継春の妻、林瓊仙は富裕層の出身で、彼女が求婚されて出した条件が「私と結婚したいなら日本留学して」だった。期待にたがわず彼は1924年に東京美術学校に入学、1928年には「芭蕉の庭」で帝展に入選し、名を馳せていった。
「幼い頃に遊びに行くと、祖父は決まって画室にこもっていました。しかも何枚も絵を並べて同時に制作していました」今日はこの絵、翌日は別の絵と、少しずつ手を加えていたのを、孫娘の林雅韻は覚えている。「気の赴くままという感じでした。だから作品はカラフルで奔放です」孫息子の廖和信は祖父がいつも大したお金を持っていなかったのを覚えている。「部屋に入って探したことがありますが数銭出てくるだけ。タンスの中の服は私より少ないほどでした」
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アヒルの飼育
藍蔭鼎は丁寧に台湾の美しい光景を描き、作品は高い評価を得た。